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猫たちの時間 〜猫たちの時間1〜  作者: segakiyui
5.卑怯者

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36/43

4

「おい、しゃべるな」

 あまりにも辛そうで切なそうで、聞いているこちらの胸の方がかきむしられるようで、俺は周一郎の独白を遮った。

「もういい、わかったから」

 死にたくないよ。

 小さく彼方で聞こえていた声が、抱えている体の中で今にも消えそうになりながら響いている。

「る…と…っ」

 小さな猫を呼んで空中に伸ばされた、その細い指先を思わず空中で受け止め握りしめた。

 ぼんやりとしていた周一郎の視線が、ふいに俺に戻った。ゆっくりと焦点を俺に合わせていく、その顔ににじみ出た汗が流れ落ちる。

「もう少し待ってろ」

 指先を手繰って握りしめた掌ごと、もう一度傷口を押さえつける。

「楽になるから。楽にしてやるから」

 ひくっ、と周一郎は幼くしゃくり上げた。傷に響いたのだろう、眉を寄せて痛みに耐える。

 うっすらと開いた口が無防備に開く。噛んだ唇に血が滲んでいる。

 かなり痛いはずだ、なのに、周一郎は一言も痛いと言っていない。まるでそういうことばは知らないように、自分の傷みを口にしない。

 ずっとそうだったんじゃないか、と思った。

 こいつはずっと、自分の苦しみに自分でも気づいていなかったんじゃないのか。

 なら、今ここで口にしていることばは、こいつが初めて得た、自分を語る唯一のことば。

 俺はもっと強めに上着を押し当てた。

 布を通して微かな鼓動が伝わってくる。微かで弱いが、それでも確かに刻まれる命の拍動。こいつが、周一郎が、確かにこの世界に存在しているという証、こいつが今口にした痛みを伝えることばのように。

 ゆっくりと周一郎が目を閉じる、その鼓動を味わうように。

「大丈夫だ」

 周一郎が瞬きして目を開けた。再び流れ落ちる涙が街の灯に煌めいて落ちる。

「死にやしない、絶対死にやしないから」

「しな…ない…?」

「ここで傷を塞いでてやるから」

「いき…られる…?」

 返ってきた声音があまりにも必死で、込められた期待に心臓を握りしめられた気がした。

「……ああ。そうだ」

 たった十八歳。

 こいつはどうしてここまで死と隣り合わせにいることを受け入れてしまっているんだろう。こんな薄暗い路地で、身内に撃たれて殺されかけて、おかしいだろう、理不尽だろう、なのにそれに怒りを覚えることも、自分の傷みにも気づかずに、生きられるかもしれない、それだけのことをこんなに切実に願っているのに。

 三連敗のオセロがどうした。永久に負け続ける勝負がどうした。見下してこの無能めと嗤いたければ嗤え、そんな勝負の行く末なんぞ、天上でサイコロ転がしてるやつに投げてやる。

 こいつはもっと明るい世界を知っていていいはずだ。有り余る才能を全て生かし、新しい未来、新しい世界を掴めていいはずだ。

 だって。

「生きたいんだろ」

「……」

「もっと、生きていたいんだろ」

 俺は確かに無力だし、けれど、これだけは確かだって知っている。

「生きていたいって思うの、当然なんだぞ」

 黒い瞳が少し見開かれる。

「もっと生きていたいって思っていいんだぞ」

「でも…」

 ぼくは。

 ためらいがちに動いた口がその先を続ける前に言い切る。

「お前は死なない。これからもずっと生きて、いろんな出来事を経験して、いろんな人間に会って、どんどん強くなっていくんだ」

「……つよく…」

「お前が何を抱えてても、どんなものを背負ってても」

 大丈夫だ、生きていける。

「死なない、絶対」

「……しな…ない…」

 周一郎の涙は止まっていた。

 どこか不思議な目の色で、黙って俺を見上げている。繰り返す荒い呼吸はそのまま、痛みに耐えるためか時々眉をひそめながら、野良猫が初めて人間に優しくされたとでもいうような、そんな不思議な目の色で。

 救急車がすぐ側に止まって人が降りてきた。俺の膝に居た周一郎に急ぎ足で近寄ってきた隊員が、手早く処置を済ませ、状態を確認しながらストレッチャーに乗せ、車の中に運び込んでいく。

 寄り添って歩きながら、俺は、口元に酸素マスクがあてられた周一郎に手を伸ばした。

 頭を撫でる。父親が、どうしても譲れない喧嘩で怪我をして戻った息子に対するような、ごつごつした荒っぽいやり方で。

 逃げるかな、と思ったが、周一郎は逃げなかった。少し目を細め、やがて目を閉じ、黙って俺の手を受け止めた。

「……そのうち見舞いに行くから」

 声をかけると、周一郎は夢から醒めたようにはっとして目を開いた。戸惑ったような、混乱した不安げな色が見る見る周一郎の瞳を覆う。

「よし、行こう」

 ストレッチャーが押され、救急車に運び込まれる。

「付いて行きたいだろうが、署まで同行してもらうことになる」

 厚木警部の声に振り返った。ぽんぽんぽん、とコートを叩いてから、いつものように背広の内ポケットからハイライトを取り出す。泥と血で汚れた手を構わずに火を点け、煙を吐く。

 茂はもう連行されたのか、その場にいなくなっていた。

「ご苦労さん、これで本当に終わったよ」

 苦笑混じりで厚木警部が言い渡した。

「災難だったな」

「はあ…」

 ふいに、寂しくなった。

 見舞いに行くと言ったのに戸惑った顔になった周一郎のせいだったかもしれない。

 あるいは、せっかくのバイトの口を、勤める前になくしてしまったせいかもしれない。

「まあ、今夜はもう由宇子のところに居てくれ、ややこしくなるからな」

「……はあ」

 厚木警部からコートを借りて、ぐしゃぐしゃになった服の上からはおり、俺はとぼとぼとお由宇の家に戻って行った。


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