3
「へ?」
俺の頭の中に、唐突に『ピストル』と書かれたプレートがぶら下がった。プラスチックの白い鎖に引っ掛かり、軽薄にぷらぷら揺れている薄いプレート、端っこに『てへぺろ』とか書いてあるようなポップな字。
殺傷能力が高い小型武器だよな。おお、アクション・ドラマ。
ぼんやり考えて突っ立ってしまう、だが、周一郎の動きは速くて正確だった。
「危ないっ、滝さんっ!」
振り返るや否や、周一郎は激しい叫びを上げて飛びかかってきた。押し倒す時間もないと思ったのか、俺の前に庇うように身を投げる。
ほとんど同時に、銃口が光った気がした。音らしい音を感じる前に、周一郎の体が空中で衝撃を食らったように、弾き飛ばされて俺の胸に降ってくる。
「ぐぅ!」「げ!」
あっさり周一郎と一塊になって後ろへ跳ね飛ばされた。
「この野郎!」
ぶち切れたのは厚木警部、茂に反撃を加えたらしい衝撃音、叩き落とされた拳銃がカラカラと妙に軽い音をたてて地面を滑っていく。
「滝君っ、大丈夫かっ!」
何だか胸の辺りが重くてずっしりとした温みが乗っているようだ。お由宇のところで食べた夕飯で胸焼けしてるんだろうか。今夜は何を食べたっけ。鮭は昨日の昼だったから、今夜は煮込みハンバーグだったかもしれない、付け合わせは小松菜のおひたしと、そうそう豆腐のみそ汁はおいしかったよな、冬はやっぱり熱々のみそ汁が一番で。
「滝君っっ!」
厚木警部の声が響き渡って瞬きする。
「大丈夫かっ、答えろっ!」
「えーと」
大丈夫かって聞かれてるってことは何かあったに違いない。心配してくれてるんだから答えなくちゃいけない。いやそれより、俺は今何をしてたんだっけ?
「俺は何とも…」
答えながら視界を遮った髪をかきあげてぎょっとした。
手が真っ赤だ。
「ぎゃーっ!」
とろぉりと掌を流れ落ちた液体に総毛立った。
血だ! 血だ血だ血だ! 俺の手は血まみれだ!
さっきまでの光景が一気にフラッシュバックして、いきなり現実に叩き込まれる。
「銃っ! 撃たれたっ? わーっ、撃たれたっっ!」
胸に掛かった重みはひょっとして撃たれて鼓動を止めた自分の心臓の重さか! 人は気を失うと重くなるって言うしな!
「わーっ! 人殺し、殺されたっ、わーっっ!」
「滝君っ、落ち着けっ!」
厚木警部が喚いた。
「それだけ騒げるなら大丈夫だっ! 君は死んでないからっ! 周一郎はっ、周一郎はどうしたっ!」
「……周一郎?」
目を降ろすと、胸にもたれかかっていた温みがずるずるとへたりこんだ膝の上へ滑り落ちていきながら呻いた。
「どうして…滝さんが……いるんだ…」
青ざめた顔、ずれかけたサングラス、白い唇が繰り返す。
「どうして……こんなとこ…に…」
「滝君っ! 周一郎はどうしたっ!」
再び厚木警部に叫ばれて、俺は顔を上げた。茂に手錠を嵌め終え、とりあえずは手近の電信柱に括り付けた厚木警部が、こちらに駆け寄ってくる。
「周一郎は、いるぞ?」
あれ? 俺おかしいな?
何となく誰かに頭を殴ってもらった方がいいような気がする。反応が的を得てない。森の中の緑のおばさんだ。緑のおばさんがそんなところで何をやってるかが重大なことな気がする。
「滝さん…?」
弱々しく、膝の上の周一郎が呼んだ。
「怪我は…ないですか」
「ないよ。警部がそう言ってる。俺は死んでないらしい。で、何でお前はそんなとこに寝てるんだ?」
焦る気分が増してくる。とんちんかんなやりとりをしている気がする。早く緑のおばさんのいるべきところを思い出したほうがいいんじゃないか?
「よかった…」
心底ほっとしたような、甘ささえ感じさせる優しい声が応じた。荒い呼吸を繰り返しながら、目を閉じて眉を寄せていた周一郎が続ける。
「あなたが……こんな所に…居るとは……思ってなくて…」
「そりゃそうだろ、俺、来るなんて言ってなかったし」
おいやめろ、何だその能天気な会話は。誰か俺の頭を何とかしてくれ、いや、とにかく緑のおばさんだ、えーと、緑のおばさんは…。
「どうして…こんなとこに…」
周一郎は薄く目を開けた。光の揺らいだ目で、必死に俺を見定めようとする。
「俺は、お前が危ない目に遭うんじゃないかと思ったんだ」
つられるように答えた瞬間はっとした。
そうだ、緑のおばさんは横断歩道に立ってるんじゃないか!
頭にかかっていた曖昧模糊とした霧が瞬時に晴れて我に返る。
「ぼく…が…?」
「わ、おいっ! 周一郎っ! しっかりしろ!」
思わず抱え上げると、胸元を紅に染めて周一郎が呻いた。
「ばかな、人だな…」
「おい!」
「僕より、あなたの方が…」
嘲るような声音が震える。
「危ないじゃないか……っ」
「滝君、これで押さえて!」「はいっ!」
厚木警部が上着をくれて、慌てて傷の辺りを強く押さえる。苦しそうに唸った相手が仰け反るのを、支えて抱え込む。掌の下の体はひどく薄くて脆い感じがした。今にも砕けそうなガラス細工。いつかの夜よりもっと細くなっている。
「周一郎! しっかりしろ!」
俺の腕の中で、しばらくは浅くて速い呼吸を続けていた周一郎は、やがて掠れた声でようよう呟いた。
「……どうして……来たんだ……どうして……ぼくなんかの…ために…」
目を閉じたまま、眉を寄せた周一郎が、ふいに嗤った。
薄くて冷ややかで、見下し嘲るような笑み。
「あなたは…知らないんだ……」
「何?」
「ぼくが……どれほど卑怯で……るいのか…」
「何だって?」
周囲に人が集まり始め、周一郎の声は一層掠れて聴き取りにくくなった。
「何だって、周一郎!」
遠くの方から救急車のサイレンが聞こえて来ている。厚木警部が連絡したのだろうか。
「ぼくは……卑怯者なんだ……ずるくて……みんなを……だましてて……」
は、と小さく吐く息が切なげに響く。
「……あなたに……心配してもらう……資格なんて……ない…」
「周一郎?」
痛くて苦いものを噛み締め呑み込むような声。閉じた目から涙が零れ落ちる。
サングラスを外してやると、うっすらと目を開く、その瞳も涙で一杯だった。
「どこにも……いけない……誰もいない……」
黒い瞳が虚ろに彼方を眺める。
「ぼくは…ずっと………一人だ……」
遠くの何かを探すような、手に入らない美しいものを憧れ求めるような視線。やがて、苦しそうに眉をしかめ、小さく唸る。
「ルト……もう……いい……もういい……わかってる……確かめなくていい……わかってる………そんなことは……わかってたんだ…」




