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二人がゆっくり歩き出すと、今まで光の当たっていなかった部分に光が当たり、茂のひきつった顔が夜闇に浮かび上がった。強張って険しい暗い顔。明らかに好意とは無縁の、理性さえかなぐり捨ててしまっている男の破れかぶれの顔。
そんな顔をしている茂が何をする気なのか、周一郎にわからないはずはないのに。
「……なんだ…?」
眉をしかめる。
周一郎は笑っているように見えた。
冷えきった夜気にそっくりの、薄くて鋭い笑み。
その笑みを俺はどこかで見ている、そう気づいて、頭の中をひっくり返して重なってきたのは、身をくねらせて振り返った猫の姿、そう、ルト、だ。
何もかも見ていて、何もかも知っている。うろたえる大人達も振り回される警察もこれみよがしに薄っぺらい同情を寄せる世間も。表も裏も全部見えていて、それでも関わることなく、それら全てを掌の上に載せてただただ眺めているような笑み。
茂は周一郎に何かを頼み込むように数回頭を下げたが、周一郎は何も答えない。頷く気配はないが、あからさまに拒否している顔でもない。茂にもそう見えたのだろう、歩調を合わせ、しばらくすると二人とも黙り込み、ひたすらどこかへと歩き始めた。見えない鎖で縛られているように、茂に付き従っていく周一郎の姿が、次第次第に歓楽街の奥へ入り込んでいく。
「おい、警察は何してるんだよ、茂に張りついてないのか?」
周囲をきょろきょろ見回したが、現れる人影はどこにもない。
「一体どこ行く気なんだよ?」
思わず知らず引き寄せられて後を尾けていく羽目になった俺は、だんだん気が気じゃなくなってきた。
茂のことだ、きっとまともなことなんて考えてないに違いない。こんなところで『始末』をつけられたら、いくら後々きちんと茂を逮捕したところで、周一郎は帰ってこない。
厚木警部は何をやってるんだ。
よっぽど周一郎に声をかけようかと思った瞬間、突然、肩をぎゅっと掴まれた。
「ぎゃぶ」
声を上げかける俺の口を塞いで厚木警部が覗き込み、またもや目で制して、前を歩いている二人を見ながら尋ねてくる。
「何をまたこんなところに君がいるのかな」
「こっちが聞きたい。警部こそ、どうしてこんなところにいるんですか?」
俺は相手を睨みつけた。
部下の一人もつけてないのか、危険な容疑者に。
「とりあえず打つ手は打ったし、仕事の帰りにちょっと飲もうかと思ったら」
いや、手が打ててないだろ、現に!
「あの猫」
何て言ったかな、と首を傾げるのに、
「ルトですか」
「そう、あのおかしな色の猫、あれにズボンの裾を噛まれてこっちへ来いとやられたんだ。この辺まで来ると、急に居なくなったから帰ろうとしたら、君がおかしな顔で歩いて行くのを見つけて…」
厚木警部は周一郎達を見つけて頷いた。後でわかるのだが、茂にもきちんと見張りがついていたのだが、少し離れたところで暴行事件が二件続けて発生し、そちらへ人員が引っ張り出されてしまったらしい。
「感心な猫だな。主人の危機に助っ人を呼んで来たというわけだ」
また?
ちくり、と曲がった古い釣り針のように引っ掛かる疑問。
つまり、ルトは厚木警部を呼んで来たわけだ。
何のために?
(もちろん、周一郎が危険な目に合いそうだから、だ、けど)
あの周一郎が茂の危険性を考えなかったとは思えない。そもそも、自分の身内を殺したかもしれない男とこんな夜に二人きりで、しかも警察の目を避けて出かけること自体、妙じゃないか。
「ところで君はどうして朝倉さん達を追っかけているんだ? もう朝倉家とは関わりがないはずじゃなかったのか? 周一郎君にいろいろ聞いたが、君は彼の『遊び相手』をへまをして馘になったそうだし、第一、君が殺人犯になれるなんて、まず絶対不可能、完全犯罪よりも滅多になさそうだしな」
逆に厚木警部に突っ込まれて、どうして警察が俺を監視していなかったのか、よくわかった。
「いや、新しいバイトへ行こうとしたら、あの二人が歩いてるのにでくわして」
「ほう、どんなバイト?」
厚木警部が驚いた顔になる。
「君を雇うところがあったというのもまた驚きだな、何せ由宇子の話だと」
お由宇、お前誰に何を話してるんだ。
「それより、いいんですか、あそこへ入りましたよ」
前の二人が、青や水色のポリバケツが並んだ路地に入って行ったのをいいことに、俺は厚木警部の質問を遮った。
「妙だな」
危険を感じたのか、厚木警部が脚を速める。俺も急いで続きかけて我に返った。
「あ」
これ以上深入りすると、今夜の三千円もこの先のバイトの口もなくなってしまう。とりあえずは『プロ』が来たんだから、別にあえて俺がいなくてもいいじゃないか。
(そう、だよな)
くるりと向きを変えかけて、未練がましく路地を振り返る。
(けど)
今、別の事件に人手がとられているんだよな? 今ここにいるのは、俺と厚木警部だけなんだよな? ひょっとしたら、誰かを呼んできてほしいとか、そういう手伝いはいるかも知れないよな?
「あつぎ…」
向きを変えて一歩踏み出した次の瞬間、路地で激しい物音と叫び声が響いた。
「よせ! 逃げられんぞ!」
「うるせえっ!」
ドスのきいた茂の声に慌ただしい足音が重なる。微かな悲鳴も聞こえた。
「お、い!」
考える間も無く路地に走り込んだ俺の目に飛び込んだのは、茂に片手だけ手錠をかけてひっくり返っている厚木警部、こちらに背中を向けて立ち竦んでいる周一郎。
その周一郎に向けられた茂の右手には何かが握られている。
「っ、くそぉっ!」
茂と目が合ったとたん、相手は悔しそうに叫んで顔を歪めた。
「また貴様かっ」
俺が厚木警部を引っ張ってきたとでも思ったのか、起き上がろうとする厚木警部を蹴り倒して、俺に何かを向け直す。




