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「志郎」
「んー?」
「落ち着かないわね」
確認するようなお由宇の声に首を傾げる。
「そうか?」
「急須にコーヒーいれて、落ち着いているとは言わないわよ」
「げっ!」
ぎょっとして手元を見ると、しっかりコーヒーの缶を握っていて、その下に焦げ茶色の粉まみれになった茶っぱが見えた。
「わーっ」
「放っておいていいわよ。今さら、一つも二つも……三つも四つも同じよ」
じたばたする俺を眺めながら、お由宇は悠然と言った。
「三つも四つも…?」
引きつってお由宇を振り返る。
「ええ、部屋の掃除を手伝ってくれたのはありがたかったんだけど」
お由宇は鷹揚に頷いて、立てた親指で指し示して見せた。
「わからない?」
示されたところを振り返るが、相手が何を知らせたいのかよくわからない。
「何が?」
「……受話器のかわりに灰皿が置いてあるし、花瓶に花と一緒にはたきが生けてあるけど」
「う!」
おかしいなあ、ほんと何考えてたんだろうなあ、あははは。
乾いた笑いを漏らしつつ、慌てて灰皿を降ろして受話器を架け、はたきを抜いた。それから、間違い探しか失せもの捜しゲームのようにくるりと部屋の中を見回して確認し、やっぱりどうにもわからず、おそるおそる尋ねる。
「後一つは?」
「冷蔵庫に畳んでくれたタオル入れたわよ」
俺は溜め息まじりに冷蔵庫を開け、よく冷えたタオルを取り出した。ばっさばっさと振りながら、もう一度洗濯すべきか、干すだけでいいのか聞こうとした矢先、突っ込まれる。
「周一郎のことがそんなに気になるなら、見に行ってくれば?」
「……」
それができれば、こんなところで、灰皿を載せたり、はたきを生けたり、タオルを冷やしたりしていないだろう。
面白そうに俺を眺めているお由宇の視線を感じながら唸る。
「…俺は馘にされたんだぞ」
それに、周一郎が朝倉家で受け入れられて暮らせているなら、それはそれでいいじゃないか。周一郎は生きられる場所を探していた。その場所が見つかったのなら、それでいいはずだ。
ただ一つ、茂が何か良からぬことを企んでさえいなければ。
ひいやりと背中を撫でたのは吹き込むはずのないすきま風、それを首を振って追い払う。
「何となく大丈夫そうだから、これはもういいよな」
タオルをぱたぱた畳んでテーブルに積み、時計を見る。
「すまん、もう行くからここに置いとくぞ」
「あら、出かけるの?」
財布をポケットに捩じ込んだ俺に、お由宇は目を見開いた。
「実はバイトが見つかったんだ」
「こんな時間から?」
夜の九時。確かに俺には少々不似合いな時間かも知れない。
「あんまり体力に自信ないから土方は諦めた。遠田町の『和子』で皿洗い、一日三千円なら雇ってくれるって」
「そう」
お由宇はあっさり頷いて、一枚の紙を差し出した。
「じゃ、はい、請求書」
「二万二千円かあ……たまらんな」
ふと、頭の中を週給七万の文字が掠めていった。溜め息をつきつき、お由宇に請求書を返す。
「もうちょっと預かっててくれ。しばらく返せそうにない」
「いいわよ」
請求書を受け取ったお由宇はふと思いついたという顔で、出かけようとする俺に、
「私には関係ないことだけど、バイトに遅れないようにね」
思わずどきりとした。
「え。そりゃもちろん」
とぼける俺に、お由宇が嬉しそうにくすくす笑う。
「ちぇ」
見抜かれて気恥ずかしく、そそくさと外へ出た。
夜の大気は凍っていた。
セーター一枚、薄いコート一枚で、こんな寒気の中、あの長いレンガ塀を見に行こうとしてるんだから、俺もかなり酔狂だ。
放っとけばいいのだ。もう、周一郎はあの家でうまくやっていくに違いない。高野や岩淵もいるし、金もある。茂や若子が逮捕されれば、あの家は周一郎のものになるのだ。
そう、周一郎一人、のものに。
「大金持ちで栄光の将来確約だぜ」
格好つけて皮肉った先から、ほんとうか、と胸の奥で声が響いた。
本当か? それが本当にあいつの望んでいることなのか。
広大な屋敷の中で、豪華な調度品に囲まれ、意のままになる多くの人間にかしずかれて、一人で暮らしていくことが。
『周一郎でしか、ない』
呟いた虚ろな横顔と、ぽんぽんと十字架を叩き続ける幼い手つきが交差する。
死にたくないよ。
いつかの声が耳の奥で谺する。
死なないじゃないか、生きていけるじゃないか。
(そうじゃないよな、きっと)
あいつは言ってたじゃないか、それでも『死んでいる』と感じるんだと。
(だからって、俺に何ができる?)
手詰まりのオセロ、いいように駒を置かされて、朝倉家を追い出されている。
(何が)
一緒に生きることを拒んだのはあっちだぞ。
(だよな)
それでも。それでも。
あれやこれやと考え続けて、それでも結構必死に足を動かして歩いてきたつもりだったが、朝倉家が見え出したことには、冷凍室のまぐろの気分がよくわかった。
ところが、こんな夜にふらふら出かけるのは、俺だけではなかったらしい。
「?」
レンガ塀の途切れた部分から大小二つの人影が、街灯の光を避けるようにそっと出て来る。一瞬光が小さな人影に当たる。夜だというのにサングラス、翳りを帯びた顔は……周一郎だ。
こんな時間に誰とどこへ出かける気なんだ。




