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「いや、あの猫がね」
「猫?」
事情を話しかけたとたん、ルトが走り出した。
「あ、まずい!」
とっさに跳ね起き、走り出す。つられたのか、厚木警部もついてくる。
ルトはひらりひらりと公園を駆けていく。青みがかった灰色の体が、冬の日を撥ねて銀色の矢に見える。
必死で追ううちに、公園から続く小さな広場に入っていった。慌ただしく呼吸しながら、なぜか突然、気がかりそうに立ち止まったルトの側で足を止める。
「何だよ、ルト」
「しっ!」
追いついてきた厚木警部が、前方の木立の方向を透かし見て俺を制した。
その視線の先に、二人の男女が言い争っているようにもつれあっている。女性の方は黒いワンピース、男性の方は明るい色の派手な服装だ。
どこかで見たような、そう思っていると、ふいに何かが女の手に光った。一瞬止まった男の動きを待っていたかのように、男の体へ光が差し込まれる。
ひやあ、というような悲鳴が上がった。
「あ!」
「いかん!」
冬枯れの公園には他に人けもない。
慌てて走り出す俺達の遥か先で、腹を押さえて崩れる男から女が離れ、木立の向こうへ消えて行く。ほどなく車のエンジン音が響き、すぐに遠ざかった。
「ちいっ!」
途中まで追いかけた厚木警部が忌々しげに舌を鳴らして戻ってきた。
俺は倒れた男に近づき、よく知った顔を見つけてあっけにとられた。
「桜井信雄だ…」
「おい! しっかりしろ!」
厚木警部が屈み込んで声をかけたが、腹を裂かれたセーターはみるみる深紅に染まっていく。
「ちく…しょう……あの……女」
信雄がごぼごぼした声で呻いた。
「あの女って誰だ!」
「あ…の…女…」
厚木警部の声は届いていなかった。
悔しそうな呻きが引き込まれるように消えていき、腹を押さえた厚木警部が揺さぶっても答えなくなる。すぐに息が絶えた。
「こんなとこで、どうして…」
未練がましく辺りをみまわす厚木警部に、俺も首を回した。と、すぐ側のベンチの上に、透けるような薄い紫のスカーフが、今にも風に飛びそうになりながら引っ掛かっている。
「あれは…」
「お」
厚木警部は信雄の体を地面に横たえた。俺が示したスカーフを見下ろし、ポケットから出したナイロン袋にハンカチでそっと摘まみ上げていれた。
「逃げた女のものかな」
「それ、若子夫人のものですよ」
「何」
俺が応じて、厚木警部はぎょっとした顔で振り返った。
「前に屋敷で見たことがあって…」
答えながら、何か奇妙な違和感を感じた。
「わかった。ちょっとここにいてくれよ」
厚木警部は急いで携帯を取り出した。忙しく指示を出し始める。
「悪いが、また朝倉家に戻ってもらうかもしれないな…すぐに部下が来る」
苦い顔で厚木警部が言った。だが、そのことばが十分に理解できないほど、俺は動揺していた。
ルトがいなくなっている。
俺を公園からここへ連れてきたルトが。
きょろきょろ周囲を見回していた俺の脳裏に、さっきのスカーフの紫色の反射が幻のように横切った。
紫のスカーフ。
さっきの二人の人間が激しくもみ合っていた時に落ちたとでも言うのだろうか。踏まれもしていない、どこかに飛んでもいない、こんなに薄くて軽くて、柔らかなものが、俺達が辿りつくまで都合よくここに引っ掛かっていたなんて。
残されているものは何だろう。
俺と厚木警部と信雄の死体と若子のものとしか思えない独特な紫のスカーフ。
だが、俺と厚木警部はルトに引っ張ってこられたようなものだ。信雄がなぜここにいたのかわからないが、若子のスカーフは周一郎にそう説明されたから知っているのだ。
あの時、周一郎はなんて言っていた? 配置は済んだ、そう言わなかったか。
それは、オセロのことだったのか、それとも…。
ここには全てがそろっている。
目撃者と警察と殺人現場と証拠物件。
絵に描いたような、整った事件の場面。
なのに、ルトがいなくなっている。
ルトはどうして俺を『引き止めた』のか。
人恋しかったから? 俺が懐かしかったから?
いや。
それは、ここの『配置』を済ませるためではなかったのか。
それとも。
それこそ、俺の妄想なのか。
「由宇子のところにいるんだろう? 後でお邪魔するからね」
俺は突然見えた危うい視界に巻き込まれ、地面の奥深くに引きずり込まれていくような気がした。
もし、今俺が考えていることが本当なら、周一郎はこのゲームの中で、どんな役割をしていた?
俺は、どんな役割だった?
そして、最後の結末は、一体誰が仕上げているんだろうか。




