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「ふえ…」
高野の後に付き従いながら、扉の向こうに広がった景色に息を呑んだ。
なんじゃこりゃ。
おそるおそる、足を踏み入れる。
薄暗い、森と言ってもいいぐらいの木々が鬱蒼と立ち並んでいる。塀よりもかなり入り込んだ場所なのか、塀の側を歩いている時にはこんなものは見えなかった。しかも、その樹々の間を絵画で見るような小道が抜けていくのが、かなり細く見える。遠近法が狂ったデッサンなのかと突っ込みたくなるような非現実感だ。
高野は平然とその小道を歩き始め、俺はよろめく脚を必死に踏みしめ後に続く。
なるほど確かに森というには少し背丈が低い樹々だが、それでも一般家庭でこんな物が庭にあるのは見たことがない。
「…てか…あれ、池…ってレベルじゃねえ、よな…?」
樹々の隙間から見えた水面がきらきら光るのに、瞬きした。ボートが浮かぶどころじゃない、ボートレースは確実にできる。ひょっとしたら金魚とか鯉とか以上の魚がいるよな絶対。っていうか、気のせいか、水面が霞んで奥へ続いてないか? 奥の方の岸が微妙に見えない気がするんだが? 周囲の岸はあまり整えられていないのが、余計に山の中の湖的な情景だ。
湖? 家の中に森と湖?
まさか、どこかに小さな村とか広場とかないだろうな。ついでに宿屋とか武器屋とかアイテム屋なんてものがあったりして?
「はは…まさか…」
笑いつつ、ないと言いきれないような気がしてきて、周囲をきょろきょろ見回しながら進む。
とにかくとんでもない広さの土地を、あの塀は囲い込んでいたわけだ。
「そりゃ、終らねえはずだ、塀」
「はい?」
「あ、いえいえ、何でもありません」
訝しげに振り返った高野は小さく溜め息をついて、再び歩き始める。俺は後を追いかける。
まるで新しいお屋敷に上がったメイドになった気分だ。いや、そんなものには金輪際なる気もないし、なりたくもないが。
小道を歩き続けること十数分、じりじりと視界が眩んで来て、頼むすいませんごめんなさいもう一歩も歩けません、そう目の前の老人に縋ろうと思ったあたりで、ようやく目の前に現れた建物に、俺はもう一度口を開けて瞬きした。
「……家……か?」
見上げるようなヨーロッパ風の豪邸、正面にバルコニーのようなものがあるのを除けば、大学の図書館とかそういう雰囲気の石造りの重厚な建物だ。
「どうぞ」
ひょっとすると、外国の屋敷のように、靴のまま入るのかと思ったぐらいだったが、中は何とか『豪邸』どまり、それでも広々とした玄関のどこへ靴を脱いだものかまごまごしていると、高野はスリッパを出して揃え、目線でこっちへ来いと知らせてくれた。
慌てて、破れかけたスニーカーを脱ぎ、擦り切れたジーパンの足をふかふかの真っ白な毛足のスリッパに突っ込む。一瞬ぼふりと埃がたった。靴下を洗濯したのはいつだっけ? まあいいか。ほんわりとした柔らかさに心が和む。
へらっと笑った俺を高野が何か言いたげに見つめている。
「はい?」
「いえ…どうぞ」
もう一度溜め息をついて首を振る。
このスリッパはひょっとすると、この後廃棄されたりしてしまうかも知れない、そういう冷たい視線だ。
埃まみれで薄汚れたボストンバッグを持って入るのも、高野にとって非常に迷惑そうだったが、さすがに良家の執事らしく、少し眉をひそめただけで何も言わなかった。
先導してくれる、その後に続く。あちこちに壺や繊細な彫刻が置かれたテーブルがあり、触れたら最後という感じがあったので、ボストンバッグはしっかり抱きかかえてついていく。
「ここでお待ちください」
「は、お待ち致します」
「……」
通されたのは、おそらくはこの屋敷の中でもこじんまりとした待合い室風の、玄関横の部屋だった。それでも飴色に磨き抜かれて品の良い調度品、艶やかな壁にさりげなく飾られた名画は、俺でさえ知っている画家のもののようだ。四方から伸び上がった細工の枝に支えられた天井の飾り板、吊り下がるシャンデリアの細かなカットガラスの煌めきが目に痛い。
「はああ…」
ぽかんと口を開けてあたりを見回していた耳に軽い咳払いが聞こえた。ぎくりとして振り返ると、高野が、
「どうぞ、御席に」
「あ、ど、どうもっ…」
まだ居たのか。
入り乱れた花の刺繍が施されたソファを示され、うろたえつつ近づいて行くと、
「あ!」
先にいた男が気配に振り返り、慌てた顔で腰を上げた。
「あ」
大学でも女絡みの噂が絶えない、金回りもよくて頭もいいはずの男、山根啓一。
だが、こんなところで顔を合わせたところを見ると、金回りがいいというのは省いていいのかもしれない。
「なんだ、お前か」
山根はふん、と鼻を鳴らして、再び面倒くさそうに腰を降ろし、尊大な態度でソファにもたれた。いつものジャケットより数段値が張りそうなスーツ姿、清潔感溢れるシャツと靴下、上品そうな腕時計にタイピン、きっちり整えられているが堅苦しくならない程度の髪。俺なぞ取るに足りないといいたげな仕草、自信が全身からあふれている。
終ったな。
ピカピカで準備万端の山根と、薄汚れた白セーターにジーパンの自分を比較して、早々に諦めた。
まあ何でもそうだよな。テストは大抵抜き打ちで、自慢じゃないが、事前準備できていない方に確実に入ってる自信がある。
となれば、こんなところで油売ってないで、さっさと飯にありつける所へ行こう……とりあえず、お由宇のところに。
向きを変えようとした矢先、足下に灰色の反射がまとわりついて立ち止まる。
「あ、さっきの猫じゃないか」
「にゃぅ」
小猫はちょいと首を傾げる。
「さっきはすまん、助かった」
「にゃーん」
「はは、また応えてやがる。でもな…」
俺は声をひそめた。
「悪いけど、どうやらこのバイトはだめになりそうだぞ」
「み?」
あれ、そうだっけ?
そんな雰囲気の鳴き声に、どう駄目なのかを説明しようとしたとたん、
「それは、坊っちゃまがお決めになることです」