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目を上げない周一郎に、封筒から三万抜いて突き出した。
「けど、宮田に借金してるから、七万だけはもらっておく。じゃあな」
周一郎はあいかわらず体を硬直させたまま、受け取ろうとしない。仕方なく、俺はテーブルの上、真っ黒になって終わっている盤の上に札を載せて、部屋から出て行こうとした。
弾かれるように周一郎が動いた。
「でも!」
切羽詰まった声が背中に響いた。
「あん?」
戸口で振り返ると、周一郎は左肩を抱いたまま、こちらを見て立ち竦んでいた。声をかけてしまった自分が信じられないような、初めて見る、我を失ってうろたえる顔だった。
「お金がないと、行く所に困るでしょう? 宮田さんに七万返してしまったら、あなたはどうするんです?」
「お前に関係があるのか?」
俺は周一郎のまねをした。
氷水を浴びせられたように周一郎は口を噤んだ。サングラスを透かして、黒い瞳が潤んだようにさえ見えた。何かを言いたげに開いた唇が、けれど、そのことばは『絶対』に口にできないのだと言いたげに、きつく厳しく引き締められていく。
聞こえない声が繰り返されている、しまったしまったしまったしまった……。
「そう、です、関係がない、ことです…」
見る見る空気を抜かれた風船のように、周一郎はしょげ返った。
「あのな……」
あまりにもその姿が哀しそうで、いつもの周一郎らしくなくて、俺は溜め息をつきながら周一郎の側に戻った。
「出てけって言われたのは俺なんだし、そういう意味じゃ、落ち込むのは俺だろ? なんでそんなに落ち込んでるんだよ? そんなに落ち込むなら、何で馘にするんだよ?」
見下ろした周一郎は答えない。俯いてますます小さく身を縮めていく。
声はどこかで響き続けている、しまった、しまった、しまった…。
まるで自分が、四、五歳のガキに絡んでるタチの悪い大人になったような気がして、溜め息を重ねた。
「ま、とにかく、何かがまずくて、俺は馘になった、そういうことなんだろ?」
なんで俺がこいつの機嫌をとらなくちゃならないんだ?
少し待ったが返事はやはりない。
「荷物をまとめてくるから。じゃあな……あんまり無理すんなよ」
慰めというわけでもないが、ぽん、と俯いている周一郎の頭を軽く叩く。あからさまにガキ扱いしたやりよう、てっきり何か文句を言うかと思ったが、相手は身動き一つしなかった。
部屋に戻り、ボストンバッグに茶封筒を放り込む。部屋の片付けはすぐに済んだ。
「高野さんには挨拶がいるな」
歓迎はされていなかったにせよ、いろいろ世話にはなったことだし。
一階に降りて事情を話すと、高野はひどく驚いた。
「馘、ですか」
まさか、そんなことはあり得ないでしょう。
ことばにならない返事は表情がよく語っている。苦笑いしつつ説明する。
「うん、『家風』に合いかねる、そうです。短い間だったけど、お世話になりました。ありがとうございます。それじゃ」
「は…あ」
高野は何も知らされていなかったのか、珍しく見送ることもなく、俺が部屋を出るのを追うように出てきて、急ぎ足に周一郎の部屋に上がっていった。
未練がましく見ているのも癪だったので、さっさと玄関を出て行く。
門までの道も薄い雪に覆われていた。買い替える暇さえなかったぼろ靴で、足跡のほとんどついていない新雪を踏んで行く。
ふと何だか、新しい道に踏み出したのだと思った。
「おかしいよな」
今俺はバイト先を馘になり、これから住む所もない。大事に抱えていたものが終ってしまったような状況なのに、全てが始まったような気がしている。
「何が?」
わからない。
門のところまで来ると、いつの間に先回りしていたのか、ルトが待ち構えていた。
「にゃああぅん」
「すまんな。せっかく骨折ってくれたのに、お前の主人は結局、俺をお気に召さなかったらしい」
「にゃぁ」
「え? 後ろ?」
ルトがちょいちょいと後ろを示すように頭を振って振り返った。
小道の遠く、朝倉家が見える。
窓の一つに、張りつけられ吸いつけられたように立っている小柄なスーツ姿があった。こちらが振り返ったのを気づいただろうに、今度は逃げない、俯かない。けれど距離が遠過ぎて、表情も視線もはっきりしない。
けれど、あれほどあっけなくあっさり馘にしたのに、周一郎はずっと、俺が遠ざかるのを見守っていたのだ。
わからない。
何がしたい。
何を望んでいる。
「……わかんない奴だよ、なあ」
「みぅ」
「ま、いいか。もう関係ないことだよな……お前とはまたいつか遊ぼうぜ、ルト」
青灰色の小猫を残して、人一人通れるだけ開いた門を通り抜ける。それほど待つまでもなく、門は再び重い音をたてて閉まっていく。やがて、がしゃん、と固い音をたてて門扉は完全に閉ざされた。
「……今日もほんと寒いよなあ」
せっかく少しは落ち着けると思ったのに。
胸の中には窓辺に立っていた周一郎の姿が引っ掛かり続けている。
何が何だかわからない。
「はぁ…」
溜め息を一つつく。
何はともあれ、昼飯を食おう。人間、腹が減ると考えも行き詰まってくる。
だけど、どうして毎回、飯前に追い出されなくちゃならないんだろう。
困ったときのお由宇頼み、重い足を引きずって、俺は歩き出した。




