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え、おい、それって。
テーブルの緑の盤を見つめて固まる。
「わ、待て、待ってくれ」
「またですか?」
周一郎が呆れた声を出すのも何度目か。
「にゃあう?」
周一郎が怪我をした日から、なぜかずっと俺の側に居るようになったルトが、テーブルの上に飛び乗り、屈み込んでいる俺の側から盤を覗き、首を傾げる。
それは、オセロ、という古くて懐かしいボードゲームだ。
盤には白と黒の丸い駒が、升目のほぼ全体を埋めるように載せられていて、もうゲームは終盤だと誰にでもわかる。
その中で、白はわずかに数個しかなかった。
自慢するわけじゃないが白い駒が俺のもの、盤の上を埋め尽くしつつある黒い駒が周一郎のもの、ついでにもちろん、駒の数が多い方が勝者となる。
「うーん」
「いくら唸ってみても、もう逆転は難しいと思いますけど」
周一郎は目の前に座って微笑しながら、手にした駒を右の手から左の手へ、左の手から右の手へとゆっくり移し替えている。
数日前の怪我から考えると、ずいぶん元気になっていた。周一郎の傷にパニック寸前になった高野の強制休養命令が効いたのかもしれない。
「うーーん」
厚木警部の捜査はまだ続いているが、これという決め手がないまま、俺達は屋敷に足止め状態になっていた。大学へも行けない、外出も出来ない、俺は別にそれでどうということもなかったが、ぶらぶらしている俺が退屈そうに見えたのか、付き合ってくれませんかとゲームを持ち出してきたのは周一郎の方だった。
「うーーーん」
「にゃふ」
こりゃだめだ。
そう言いたげに、ルトはテーブルから滑り降りた。しなやかな動きで窓に近寄ると、肩越しに周一郎を振り返り、鳴く。
「にぅ」
「出るかい?」
周一郎が心得たように立ち上がる。立ち上がる時に微かに眉をしかめたのが怪我をしているとわかる唯一の仕草、食事時にもその他の立ち居振る舞いにもいつもと変わらない様子なので、こいつが怪我をしているとは若子達に気づかれていないようだ。
「ほら」
周一郎が窓を開けてやると、くるりとしっぽを振って、ルトは隙間を擦り抜け、外へ出て行った。静かに見送って、周一郎も振り返る、ルトそっくりな仕草と視線で。
「どうですか?」
端正で穏やかな笑みには、あの日の追い詰められた辛そうな様子はない。
自分は誰も必要としていない、誰にも必要とされていない、なんて言い切ったのに、そんな孤独なんて経験したことがないように親しげに見える。
けど、見えるだけ、なんだろうな。
俺は小さく溜め息をついて、もう一度盤を見下ろした。
手はないか? ほんとにもう、何の手も打てないか?
宮田を呼んだ電話を思い出した。
あの時、俺にできたのはあれだけ。今、俺にできるのはこれだけ。
「くそ、えい、この裏切り者め!」
俺は悪態をついて諦め、一つ駒を置いた。
この先がどうなるか、こうなってくると、さすがに俺でも想像がつくのだが。
「…どうも」
窓際から戻ってきた周一郎がくすくす笑って、ほっそりした指先で、空いている升目に丁寧に黒い駒を置いた。その黒い駒と別の黒い駒に挟まれた俺の白い駒が、次々と裏返されて黒い駒に変わり、またもや白い駒の範囲が狭まる。
俺の駒はもう残り二つしかない。
「う〜〜」
俺は唸った。
残った場所のどこへ置いても、周一郎の駒が待ち構えていて、次の周一郎の番で、俺がひっくり返した数より、うんと多くの駒を裏返していくのがわかる。結果的に、俺は駒を置けば置くほど自分で自分の首を締めていくことになってしまう。
かといって、俺がもうどこへも駒を置けないわけじゃない、というあたりが、二重に厄介だった。残された場所に俺の駒が置けるかぎりは、置き続けなくてはならないのが、このゲームのルールの一つだ。
俺は置かなくちゃならない、自滅の一歩を埋めるしかない。
ほんとうにそうか? もう何の手もないのか?
「どうします?」
周一郎は楽しそうだった。ちらりと見上げると、サングラスの奥の目は細められ、口元の微笑はごく自然に見える。
それは本当に楽しそうで幸福そうで、周一郎が本当は何を今考えているのか、やっぱり俺にはわからなかった。
あの日の周一郎と、今目の前に居る周一郎が、どこでどう繋がっているのかわからない。同一人物の皮を被った誰かかも知れない、そんな妄想さえ動く。
何を望んでいる? 何を狙っている? 何を……願っている?
「諦めますか?」
ぼんやり考えていた俺は我に返った。
周一郎をわかろうとすることを諦めるのか、と尋ねられたような気がして、咄嗟に首を振る。
「いや」
「これに負けると三連敗ですよ」
からかうような口調で周一郎が確認する。
「諦めるより、自滅してやる」
むきになって駒を置く。
そうだ、もがいてもあがいても先には繋がらないかも知れない、けど、進んだ先でひょっとして、何かが起こるかも知れないじゃないか。背水の陣、火事場の馬鹿力、崖っぷちなら人は鳥になれたりするかも知れない……ことはない、か。




