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「俺だ」
『あっ、この』
かったるそうな声が一変する。
「わかってる、借金のことだろ、払うから取りに来てくれ、7万だったよな?」
『返しに来いよ』
「今動けない」
むっとしたような相手に反論させずに続ける。
「それから、来る時に薬とか包帯とか止血剤とか、交換分を合わせて持って来てくれ」
宮田の返事には少し間があいた。警戒心を満たした声が尋ねてくる。
『怪我をしたのか?』
「俺じゃない」
『お前なら行くか』
間髪入れずに応じた後、
『医者に行けよ』
俺は黙った。
『やばいのか?』
なお黙る。
宮田も黙った。
しばらく無言の押し問答が続き、やがて諦めたのは宮田だった。
『わかった行ってやる。僕はお前が借金を返すと言ったから、たまたま出たついでに、たまたま寄ったんだ。その時たまたま、いろんなものを持ってたからって、お前に頼まれたわけじゃないからな』
「…ありがとう、恩に着る」
こういう察しはいいんだ。
『着るな、たまたまだと言ってるだろ。それより金返せよ』
ぶっきらぼうに電話が切れた後、
「すまん」
俺は受話器に向かって改めて宮田に謝った。
何せ、手元にそんな金はない。元気になった周一郎が払ってくれるか、払える状態なのかどうかも疑問だが、とにかく今はこれしか思いつかない。
ベッドに戻ると周一郎が目を開けていた
額にびっしりと汗をかいていて、顔色は相変わらず悪い。ただ、さっきよりは呼吸が穏やかになったようだ。
「電話?」
掠れた声で尋ねてくる。
「知り合いの医者を呼んだ」
かすかに周一郎は息を引いた。俺を睨みつけ、吐き捨てるように、
「余計なことを」
あからさまな侮蔑の声。
「そうだろうな」
同意した。
俺が同意するとは思っていなかったのだろう、周一郎の眉が緩む。
「余計なことだってわかってる。だから、お前がどう思ってもかまわんよ」
言いながら、あっけに取られた表情になる周一郎を見返した。
「俺には、お前がなんで美華を庇ったのかわからない。姉思いというんじゃないような気もする」
周一郎の目がゆっくりと細められた。
「それに、桜井親子の妙な動きや、若子夫人をどうして放っておくのかもわからない」
引っ掛かり続けていた疑問が、口からするすると零れた。
「うまく言えないけど………お前はもっとうまく動けるはずだよな? こんな怪我なんてせずに、いろんなことをもっとうまくやり抜けるはずだよな? どうも、そんな気がするんだ」
周一郎はじっと俺を見つめている。サングラスに遮られていない黒い瞳が、こちらに飛びかかる隙を伺う野性の獣のそれのように見えた。
「確かにお前は大人しくて利口で、気弱な子どものように見える。目のことがあるから籠って生活してるけど、普通の子どもなんだって感じに。けど……違うよな?」
周一郎は応えなかった。
相変わらず冷ややかに澄んだ、どこか無機質的で無感情な瞳。
それは大人しくて利発な少年の後ろにいつもあった、人との関わりや介入を一切拒むような気配を同じものだ。
関わるな。
その目はそう言っている。
ぼくに一切関わるな、と。
「お前は本当は、俺だけじゃなくて、皆嫌いなんだよな? けど、要らないってわけじゃないんだ」
びく、と周一郎が体を竦めた。
「そうじゃない」
聞いたことのない低い声で反論してくる。
「ぼくは、誰も必要としない」
「大悟も、か?」
「…大悟もだ」
周一郎の声が怒気をはらんだ。
「それに、大悟も、僕を必要としていたんじゃない」
今度は辛そうな声だった。
ことば一つ一つに血がにじむような声だった。
青かった頬にうっすらと桜色の赤みが差す。
「大悟が必要としていたのは、ぼくじゃない、『朝倉周一郎』だ」
淡々とした響きは現実だけを話しているんだ、と主張するようだ。現実だけ、虚しくて何の救いも含まない、冷ややかでのっぺりとした現実の話だけ。
「だから? 『おまえ』は死んでもいいって言ってるのか? だからこんな無茶をしてるのか?」
違うだろう。そんなふうに割り切れるなら、きっとここまで苦しんでいない。
「無茶なんかしてない、ぼくは…」
「俺は『おまえ』を死なせる気はないんだ」
周一郎はことばを失った。見開いた目が戸惑っている。聞こえたことばがわからない、そんな顔だ。
ノックが響いた。
立ち上がってドアを開けると宮田が立っていた。
ぼさぼさ頭にガラス瓶の底のような分厚い眼鏡、よれよれの、一ヶ月は着ていそうな上着と皺だらけのスラックス、その尻ポケットに、ごちゃごちゃと突っ込んであるゴムや金属の塊やガーゼで包んだ何かが覗いている。あれでちゃんと座れるのだろうか。シャツは垢染みているばかりでなく、コーヒーかみそ汁か、そういう食べ物系を思わせる染みが点々と飛んでいた。
見るからに怪しげな風体だが、これでも大学の研究室では、十年に一度の切れ者で通っているらしい。
「来たぞ」
「すまん」
「患者は」
「あそこだ」
周一郎は抵抗するように顔を背けたが、逃げられるほど体力は戻らなかったようだ。
「ふうん」
宮田が心なしか嬉しそうに周一郎の上着を剥ぎ、タオルを外す。苦しそうに眉を寄せ、それでもきつく唇を噛み締めて、周一郎は声を殺して目を閉じる。
「ひどいな、これは。ナイフだろ。刃が薄くて軽いやつ。傷は浅いけどしつこいぐらいに刻まれたね。何か恨みを買ったのか? ナイフを使ったのは女か、力の弱いやつだ。縫合は必要ないな」
宮田は解説しながら傷を確かめた。丁寧に手早く処置を終え、俺を振り向く。
「応急手当は済ませたけど、早めに『ちゃんとした医者』に行ってくれ」
自分がヘンだという自覚があるらしい。
「それがだめなら、きちんと休養してくれ。でないと、後の事は保証できない」
最後は周一郎に向けてだったが、相手はそっぽを向いたまま応えない。
「いい態度だ」
「すまん」
一応謝っておく。ふ、と小さく息をついた宮田は、
「ま、いいか」
ぼそりと呟いた。
ちらりとベッドの上でぐったりしている周一郎を横目で眺め、
「美形だし、いい感じのシチュエーションだし」
「は?」
「気にするな、楽しみは必要だってことだ。それより」
微妙なことを付け加えたのを聞きとがめると、道具を手早く片付けて振り返った。
「金は?」
「えーと……すまん」
「やっぱり」
深々と溜め息をついて、苦々しげにことばを継ぐ。
「わかってたのに来たんだから、いいんだが」
あ、意外といい奴だったのかもしれない、そう思ったのは束の間だった。
「何なら、あの子の生写真でもいいけど」
「み、や、た」
そうだった。こいつの趣味をすっかり忘れてた。




