2
「何だ? ……おまえ、ここの猫か……?」
動物は嫌いじゃない。犬でも猫でも抵抗はない。黄金の瞳に魅入られたようにしゃがみ込む。手を伸ばしても逃げもせず、まるで抱き上げられるのを待つように鷹揚に構える相手を、ゆっくりと膝に抱き上げる。
「…は…」
あったかい。やわらかい。
ああ、腹減った。
猫って喰えたっけ? 喰えた気もする。たぶんな。
「に?」
「ああ…大丈夫、別にお前をどうこうする気はねえから」
小猫一匹の重さで、というのでもないだろうけど、何だか気力が萎えてしまって、扉にもたれてずるずると座り込んだ。
「雑種じゃねえよな、こんな家の猫だから」
「にゃん」
当然でしょう。
そう聴こえた。
「はは…応えやがる」
見返してきた相手の眼は曇りなく無機質的に澄んでいた。頭のわりには少しばかり大きすぎる耳を伏せ、にぃいい、と高くて細い声で鳴いた後、ちょっと口を開けて牙を見せると、ニヤリと嗤ったように見えた。
「ああ…ひょっとしてこいつの世話とか…?」
こんな大きな家の『子ども』だから、自分で世話をすることなんてないんだろう。猫の世話程度なら、身元や経験を問うほどのこともない、そういうことなのかも知れない。
「にぃ?」
「お前なら別にいいかなあ…」
ぐぅうううう。
「ひょっとしたら、お前1匹じゃなくて、10匹とかいたりして」
ぐ、ぅ、ぅううううううう。
「まあ、百歩譲って20匹とかいたとしても、まあ、何とかなる、かな」
だから破格の値段なのかも知れない、『子ども』も我が儘放題で、雇った者が続かなかったりするのかも知れない。
『遊び相手』兼『猫の世話』。
ぐううううううぅう。
悪くない。
この時の俺の判断は、後から思えば、あながち間違ってはいなかった。予想を遥かに越えた『我が儘』ぶりだったり、『猫』というより『猫が関わったあれこれ』の世話だったりしたのだが、大きくまとめれば、『遊び相手』兼『猫の世話』だ。
だが、たとえそうでなかったにせよ、空腹を堪えるのも、次の一歩を踏み出すのも、いろいろもう限界だった。だから、こう頼んでみた。
「おい、お前、ここの猫ならさ、俺が来てるって言って来てくれよ」
俺の膝の上でそいつは身をくねらせて手から離れた。するりと滑り降りてちょいと振り返る。
「何だ?」
「にゃおん」
そいつは尻尾を立ててくるりと回し、再び身を低くして門をくぐり抜け、向こうに消えて行った。
「あいつ、本当に言ってきてくれる気かねえ…………くっ…くくっ」
のんびり呟いて苦笑した。
我ながらメルヘンだ。
人間てのは極限まで腹が減ると、発想がどこかボケてくるんだろうか。
小猫がいなくなった膝が余計に寒くなって、気力が一緒に奪われたみたいだ。疲れてぼんやりしていると、しばらくして、もたれていた扉がきしみ音をたてて後へ引かれて開いた。
「あー…」
腹に力が入らないまま後へ転がって、ごろりと天地がひっくり返る。寒そうな凍えた空に、園長やこれまで出逢った人の顔が過ぎていく。
やばい。まずい。
マジに末期現象だ。
と、ふいに、その空間に年老いた男の顔が突き出た。生真面目そうな、でも、あんまり歓迎されていないような、固い表情。たぶん俺が何かまずいことをしたんだとすぐに確信できるような不快感が広がっている。けれど、相手は怒鳴りつけも苛立ちもせずに淡々と告げた。
「貼り紙を見ておいでになりましたね」
「へ?」
「アルバイト志望の方ですね?」
辛抱強く繰り返してくれた。それから、穏やかな口調で、
「私は、当家の執事で高野、と申します。坊っちゃまから、門のところで扉にもたれて待っている人間を連れてくるように、と申し付けられましたので」
「ぼ、ぼくは!」
俺は急いで立ち上がった。
おお、やればできるぞ。最後の力という奴か。
勢いよく立ち上がり過ぎて、相手の方へたたらを踏みそうになったのを、かろうじて堪え、何とか踏みとどまった。
「ぼくは、滝志郎と、いいます」
小学生の学芸会か。
「中へどうぞ」
黒背広の、高野と名乗った老人は扉を開いて促した。
「坊っちゃまがお決めになることです」
取りつく島のない素っ気なさで付け加え、背中を向ける。
つまり?
「……来いってことか…?」
ちょっと呟いてみたが、高野は止まる気配がない。そのままで居ると置き去りにされ、再びがしゃんと扉が閉まってしまいそうだ。
大丈夫か俺。
迷ったが、ゆらりと霞んだ視界に一歩踏み出した。
どうせこのままでも先はないんだ。