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いやむしろ、しっかりしろ俺。
周一郎に呼びかけながら、その実自分を叱咤激励して、俺はそうろりと周一郎の体を起こした。再び濃く漂う臭い、その金気臭さに嫌なものを思い出しながら、そっと上着を開いてみる。無抵抗な顔がぐらりと揺れて、俺の胸にもたれかかり、真っ白な首に髪が乱れた。
「ひえ…っ」
腕に載った周一郎の左肩、白いシャツに目にしみる鮮やかさで様々な赤のグラデーションが滲んでいた。まるで得体の知れない何ものかが周一郎の体に巣食っていて、それがついに左肩から中身を喰い破って現れたような紅の染み、まだじっとり濡れている中心部はじりじりと周囲に汚染を広げている。出血は止まっていないのだろう、支える左腕が濡れてきた気がする。
「ひでえ」
これは明らかに、傷、だよな? それも料理の最中に指切っちゃったてへ、なんてレベルで済まない傷、早急に救急処置が必要な類の奴。
「待て待て、待て、よ」
高野が持ち込んできたのは、周一郎が殺されて、とか言う話じゃなかったよな? こいつが殺した犯人だとか言う話だったよな?
なのに、現実はこいつはこんなに深い傷を負って身動きできない状態になってる。なのに、美華は死んでいる。
何が起こった? こいつは一体誰にやられたんだ? ってか、こいつがこんな有様なら、美華は誰にやられたんだ? それとも、美華をやってからこいつが誰かにまた襲われたのか?
「おいおい、おいおいをい」
こいつは被害者なのか、加害者なのか、それとも、全くの無関係で巻き込まれただけなのか、一体……何がどうなってんだ???
「う…」
パニック真っ最中の俺が固まっている間に、腕の中の周一郎は意識を取り戻したらしい。薄く目を開け、ひび割れた唇を噛み締め、支えている俺の腕に手をかけて体を起こすが、それだけでも再び気を失いそうになったのか、目を閉じ震えながら俺にすがりついて俯いた。
「たき…さん…」
「周一郎? 大丈夫か?」
「ぼく……どのくらい…眠ってました?」
眠ってた、というのか、これを。
「数秒…だと思う」
「そう、ですか」
ようやく顔を上げたが、唇はやはり真っ白で視点が定まらない。体を起こそうとした動きのまま、後へ仰け反って倒れそうになる。
「動くなよ! 今、高野か誰か呼んで…」
いや、その前に止血だろう。シーツかタオルか、その辺りにあるもので押さえて。
「…っ」
シャツの下にどんな傷があるのかを思っただけでぞくりとしたが、歯を食いしばった。とにかく周一郎の体を窓にもたせかけて立ち上がろうとすると、ゾンビ映画さながらの勢いで強く腕を掴まれた。
「ひ!」
「だ…め…」
思わずごくりと唾を呑む。けれど、聞かない訳にはいかないだろう。
「……何か…まずいのか……?」
周一郎は応えない。
「やっぱり…お前が」
「警察が…来てるんでしょう?」
ゆらりと見上げた顔は、表情が緩んで朦朧としている。ただでさえ黒々とした瞳は平板になり虚ろになって、もう壁に空いた穴さながらだ。体はますます冷たくなり、声はどんどん生気を失っていく。眠そうに何度も瞬きをする。
俺の腕を掴んだ手からも見る見る力が抜けてきていた。振りほどけば、そのままへたりと絨毯に倒れ込みそうだ。
ひょぉ、と冷たい風が窓を鳴らして吹き込んできて、無意識に震えた。駄目だ、このままじゃこいつ、死んじまう。
「とにかく、もう少しこっちに来い。窓を閉めなきゃ」
細い体を抱え込み引きずり込もうとすると、相手は必死の仕草で首を振った。
「もう…少し…」
血が止まっていないせいだろう、体を動かすとすぐに息が上がる。
「ルトが…戻ってくるまで…待って下さい」
「…ちっ」
舌打ちした。理由はわからないし、何もできない自分が鬱陶しいばかりだが、とにかくルトを閉め出すわけにはいかないらしい。依怙地に俺の腕を押し戻し、外へと顔を向ける周一郎を支えつつ、床に放り出していたコートを足で引き寄せた。
「これでもちょっとぐらいましだろ」
周一郎の体を覆い、包んでやる。直接吹き晒されているよりいいはずだ。
ゆらりと周一郎が目を上げた。さっきよりは少し表情の戻った、けれどぼんやりと光を失った幼い目だった。僅かに唇が吊り上がる。
「コートが…汚れますよ…」
そうだ、給金をあてにしてお由宇に前借りして買った一品だがな。
「俺のもんだ、ほっといてくれ」
自分がこんな状態なのに、何を考えてんだ。
そう言いかけたのを危うく制する。
血を流しているせいか、寒さのせいか、体を震わせているのを風から庇って抱え込む。抵抗するように周一郎は一瞬体を強張らせたが、すぐに緊張を失った。安心したというよりは、抵抗する力も残っていないという感じが強い。
やがて、それほど待つまでもなく、ルトは戻って来た。闇の中をぽんぽんと軽く跳ね飛んで来て、窓と俺達の隙間を擦り抜け、一足先に温かい室内に飛び込む。ルトが入るのを待って窓を閉め、俺は周一郎をコートで包み、部屋の暖房温度を急いで上げた。
「保温…傷、見なくちゃならねえか」
溜め息をついて周一郎に元に戻り、コートを包み込んだまま、抱き上げようとする。
「う…」
「ちょっと我慢しろよ」
眉をしかめて歯を食いしばり、頷くのを確かめてから抱き上げる。
「へ」
軽かった。思っていたよりずっと、これでほんとに18の男かよ、そう呆れながらベッドへ運ぶ。
降ろされた瞬間、傷にさわったのだろう、吐き気でも催したのか、周一郎は喉を鳴らして目を閉じた。それでもなぜか起き上がろうとする周一郎を無理にベッドの中へ押し込んで、シャツを開く。
「うへ…え…」
赤だの薄紅だの茶色だのにぐしゃぐしゃと彩られた傷口が視界に飛び込んだ。ぱっと見ただけでも一回二回刺された傷じゃない。まるで、周一郎の胸の底にある傷が、目の前に形になって晒されているような無茶苦茶な傷、見る間に肉の底から血が溢れ出したのに、手持ちのタオルを引っ掴んで押し当てる。
「くぅっ」
痛んだのだろう、周一郎が体を跳ねさせた。いつの間にか枕元に居たルトが不安そうに周一郎にすり寄る。
「にぎゃ、にゃにゃ」
「おいこら、今そんなことしたら」
傷に猫の毛とかばい菌とか大丈夫なのか。
「にぎゃ!」「って爪たてるなっ!」
俺はお前の主人を助けてやろうとしてるんだぞ!
「大丈夫…心配、するな…」
目を閉じたまま、額に汗を滲ませて、周一郎が小さな声で慰めた。
「すぐに…よく…なる……すぐに……」
だからこんな時に猫の機嫌なんか気にしてるんじゃねえって。
タオルはあっという間に血が染み通ってくる。さっきよりはましかも知れないが、安心できる状態じゃない。
俺は決心した。
追加のタオルを当てて、別のタオルで縛りつける。
「大丈夫じゃねえよ、じっとしてろ、高野を呼んでくる」
「それは…」
ベッドから降りて歩き出した俺に、何かを言い返そうとした周一郎に被せる。
「いいか」
俺は振り返った。
「お前はガキで、俺は大人だ。お前が何と言おうと、俺は高野を呼んでくる、わかったな、大人しくしてろ」
返事を聞かずに部屋を出た。




