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次の朝、けたたましいノックで目が覚めた。
「滝様! 滝様! 起きていらっしゃいますか!」
「ぬわ…」
俺はのろのろと時計を確かめた。6時12分、いつもより一時間以上早い。
「なんですかあ」
ぐらぐらする頭を振りながら、ベッドの上に放り出していたコートを引き寄せ、はおってベッドを這い出し、半寝ぼけの目を擦りながら、ドアを開ける。
「申し訳ございません、こんなに朝早く、お起こしいたしまして」
高野が珍しく青ざめた顔で立っていた。
「どうかしたんですか?」
「美華様が殺されました」
「ええっ」
眠気が一気に吹っ飛んだ。
「どこで? いつ?」
そして、誰に?
「詳しい事はまだ申し上げられないのですが」
高野は不愉快そうに顔をしかめて声を潜める。
「坊っちゃまに疑いがかけられております」
「周一郎に?」
脳裏に、白い月光の中の映画のような一幕が過った。
あの後、美華は周一郎を追いかけていったはずだ。もし、何かあったらその後になる。
つまり、その時一緒に居た周一郎が…、そういうことか?
動機は確かにある、けれど。
「まさか」
「とにかく、坊っちゃまがお部屋にもどこにもいらっしゃらないのです」
高野は不安そうに眉を寄せた。
「いない?」
虹色のクエスチョン・マークが派手に点滅しながら増殖して頭の中を埋め尽くしていく。
「お心当たり、ございませんでしょうか」
「いや…」
お心当たりはありすぎるほどあるが、それを高野に伝えていいものかどうか。
「そうですか」
高野はいきなり二、三十もがくんと老けたように思えた。微かに丸めた背中、けれど何とか気力を張り直し、気怠そうに頭を下げる。
「妙なことをお尋ねしてお騒がせいたしました。しかし、申し訳ありませんが、できるだけ早く客間においで頂けますか。厚木警部がお見えで、屋敷の者全てから事情を聞きたいとおっしゃっておりますので」
「わかった」
高野はもう一度深く頭を下げて立ち去った。背中が妙に弱々しく、心労のほどが見て取れる。それを見送ってから、急いで服を着替えにかかる。
やっぱり高野にだけは話しておいた方がいいんじゃないのか。どうやら本気で周一郎を心配しているようだし。
「……うん」
後で落ち着いたらそっと耳打ちしておこう。にしても、
「美華が殺された? 周一郎がいない? 一体どうなってるんだ??」
頭の中は疑問符のラインダンスだ。
昨日の夜、確かに周一郎と美華はもめていた。離れた後、美華が周一郎を追っていったようにも見えた。
あの後、二人はどうなったのだろう。
ひょっとして、しつこく迫りまくった美華にいい加減ぶち切れた周一郎が、怒りのあまり彼女をどうにかしてしまったとか? あるいは美華がとんでもない何かを仕掛けてきて、抵抗している間に殺してしまうような『事故』になってしまったとか?
「う〜ん」
どちらも周一郎がやるようなことには思えないし、あり得る状況とも思えない。前者なら、周一郎はさっさとその場を逃げ出しただろうし、後者なら、うまく言い逃れて美華を逸らせたか何らかの交渉を持ちかけたかしたような気がする。
どっちにしても周一郎が自分を不利にするようなことをするわけがない、そう考えて寝間着代わりのトレーナーを脱ぎながら首を傾げる。
「って、そんな奴だったっけ?」
周一郎は義父を殺され、冷ややかな血の繋がらない家族の中で、健気に一所懸命に生きている少年、だったよな? お由宇の家で見せたもらった資料では、そういうことになってたぞ。
「あれ?」
何か俺の中で周一郎のイメージ、ずれてないか?
「……厚木って、確かお由宇の言ってた……えっくしょい!」
裸の背中に、いきなり冷たい風が吹きつけてぞっとした。堪えようもなく、いきなり飛び出たくしゃみに皮膚を粟立てながら振り返る。
「何だ一体っ」
眼に入ったのは開け放たれた窓、そればかりか、そこに今にも座り込みそうな姿勢でもたれかかっている小柄な姿があった。
「周一郎!」
慌ててトレーナーを着直しながら駆け寄ると、もう体力の限界だったのか、少年はずるずると窓枠を伝って崩れ落ちた。
「おい、どうしたんだ!」
顔色は蒼白、真っ白な唇を開いて忙しく呼吸しながら、苦しそうに歪めた顔にはいつものサングラスがないせいか、14、5にさえ見える。
「すみ…ません」
掠れた声で謝った。真っ黒な瞳が俺を凝視する。
「開いてる窓が…ここしか…なくて」
くったりと中身を抜かれた藁人形のようにへたり込んだ体が、かたかたと窓を鳴らして震えている。
「気分が悪いのか? おい」
慌ててしゃがみ込んで覗き込むと、妙な臭いが漂ってきた。
「何だ、生臭いな」
臭いは周一郎から広がっている。
「おい、どうしたんだよ」
「ルト……ルト」
眉をしかめた俺の問いに答えず、周一郎は猫を呼んだ。小さな消えそうな声だったのに、窓の外からすぐに青灰色の猫が飛び込んできて、周一郎の膝に駆け上り、心配そうにしきりと少年の頬を舐める。
「血の跡……残してきた……」
ぱらりと落ちた前髪に表情が隠れる。乾いた唇が続ける。
「…消して…きてくれ…」
「ち?」
ちょっと待て。
想定外だろ、そういう声が頭に響き渡る。
「お前が」
「にゃう」
ぎょっとした俺と対照的に、まるで主のことばがわかったように、ルトが身を翻して、再び外の寒気の中へ飛び出していく。
「お前が美華さんを!」
「ぅあうっ!」
思わず勢い込んで周一郎の両肩を掴んだとたん、相手は悲鳴を上げて仰け反った。跳ねた体がびん、と突っ張る。同時に俺の右手の下で、ねちゃりとした温かな妙な感触が広がる。
「げっ……お、わっ」
急いで手を引く間もなく、伸び切った周一郎の体がこちらに倒れ込んできた。がくりと落ちる首、小刻みでせわしい呼吸、必死に空気を取り入れようとする切羽詰まった動き、なのに、体は冷えきっていて力がない。
「おいっ、周一郎っ、おいっ、どうしたっ」
急いで抱え込むが、藁人形を通り越してマネキン一歩手前の生気のなさ。こうしている間にも、どんどん力が消えていく。
やばいやばいやばい、これはまずいひょっとして。
「おいぃっっっ」
「…起きて…ます…」
次に揺さぶったら最後、垂れた細い首から全ての力が抜けそうでぞっとしながら叫ぶと、俯いていた周一郎がようやく少し身動きして、低くくぐもった声で応じた。
だが、動かない。その後一切動かない。動かず、俺に体を預けたままぼんやりと、
「ひどいな……まともに…傷…つかむ……だから…」
柔らかな淡い声が響いた。
「傷?」
「眠いな……すごく……眠いや…」
今にも蕩けて消えそうな儚い声。
「おい…」
「もう…いいでしょう……? ………もう……いいや……見たくない……ルト…」
掠れた声が懇願するように呟く。
「見る?」
「もう…みたく……ない……」
「おい…しっかりしろ……っ」




