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「……うん」
いないな。
ひたひたと微かな音をたてる湖の側にも、あの墓石の側にも人影はない。
何となくほっとして、屋敷の方へ戻りかけた時。
パンッ。
平たいものを激しく打つような音がした。
「ふん、いくじなし!」
憎々しげな罵倒。
はっとして声のした方向を見やると、今度は湖近くの木立の中で、2人の人間が向かい合っている。白い毛皮にくるまった美華と、見覚えのあるダークスーツ姿。
美華は片手を震わせながら、目の高さに上げたまま、相手の出方によってはもう一発、そういう殺気をみなぎらせて、
「どうしてお父様はあんたなんか引き取ったんだろう!」
きつい声でののしった。
「あんたに遺産なんか渡さないわよ。お父様が亡くなった時に、あんたなんかさっさとこの家を出て行くべきだったのよ。お情けで置いてもらっているのに、どうしてあたしの言うことが聞けないのよ!」
頬を殴られたらしい周一郎は、髪を乱して顔を背け、両手をだらりと垂らしたまま、身動きしない。
「ね、わかってるの?」
美華は口調を一転させた。鼻にかかった甘ったるい声で誘うように口説き始める。
「このままじゃ、あんたはこの家を追い出されてしまうのよ。あたしの言うことを聞かない気なら、明日から放り出されても文句は言えないのよ。あんたは朝倉の血筋じゃないんですもの」
勝ち誇った声で続ける。
「そうよ、若子も桜井親子も、遺産相続の正当な権利なんてないはずよ。朝倉のちゃんとした相続人はあたしだけよ。そのあたしに逆らって生きていけると思ってるの?」
身動き一つせず、そこから離れるわけでもなく、無抵抗な姿勢のまま立っている周一郎に、美華はゆっくりと近寄った。濃いピンク色に塗った唇を周一郎の頬から首筋に近づけて、絡みつくように囁きかける。
「桜井にも若子にも遺産を分けてやる気はないわ。でも、あんたになら、あげてもいいわ。あんたがあたしの言うことを何でも聞くならね」
周一郎の乱れた髪を、美華の伸ばした爪がかきあげる。
周囲の木立がのぼってきた月に照らされて作るアラベスク模様の中で、雪の女王のそりに乗せられた囚われの少年のよう、とは幻想的すぎるか。
髪をかきあげられて、周一郎の顔に光が跳ねた。冷えた夜気のせいか、いつもより凍った表情に見えた。
「ねえ、周一郎、あんたはきれいよ」
甘い囁きが響いた。
「跪きなさいな。あたしがあんたを守ってあげる」
「支配、の間違いでしょう」
冷ややかな声が応じた。月が雲に隠れ、二人の姿も闇に溶ける。
「支配でもいいわよ、あんたがそうしてほしいならね」
くつくつと低い笑いが漏れた。だが、
「あなたは、ぼくの姉、です」
突き放すような冷たさを滲ませて周一郎が答えたが、美華には通じなかったようだ。
「血はつながってないわ」
雲の端から顔を覗かせた弱々しい月の光に、美華が媚を含んで笑い、唇を寄せるのが見えた。周一郎の表情はよく見えない。滑り降りた手が周一郎の体を撫でていくのに、おいおいおい、と焦っていると、するりと周一郎が身を引いて、美華が中途半端に残された。
月光が雲を割った。
凍った白い光が周一郎を照らし出す。
整った顔がぞっとするような無機質な微笑みを浮かべていた。
「あなたがほしいのは、僕の体ですか」
顔よりも冷たく嘲笑うような声が続く。
「生憎、あなたを欲しがるほど不自由はしていませんよ」
「っっ!」
ひらっと美華の手が翻った。勢いをつけて周一郎の頬を殴る。サングラスが跳ね飛び、近くの木に叩きつけられてパリンと割れる。
さすがに目を閉じてよろめいた周一郎が、かろうじて体勢を立て直し、無言のまま、サングラスを拾い上げて歩き出した。
「どこへ行く気よ!」
美華が叫んだ。
「あなたは姉で、僕は弟です。話がそれだけなら部屋に戻ります」
「周一郎!」
恨みのこもった声を美華は絞り出した。遠ざかる少年の後ろ姿に呪詛を吐く。
「どうなるか、覚えておきなさい!」
「ご自由に」
遠い闇から平然とした声が返ってくる。
美華はしばらくその場所で歯ぎしりをしていたが、相手がいなくなってはどうしようもない。諦めきれぬように、周一郎の後を追っていく。
そして、俺は、しみじみ後悔しながら凍りついて立っていた。
やばい。
とってもやばい。
胸の中で周一郎の顔が辛そうに歪んでいく。
現実にはあいつはそんな顔をしない。絶対しないだろう。
それだけに、周囲はあいつがどれだけ追い詰められていくか、全く気づかないに違いない。それで、周一郎は余計にどんどん深く、どんどん酷く傷ついていってしまうのだ。
「……ふぅ」
募りそうになる焦りにそっと息を吐く。
本当は帰ったことを周一郎に知らせるつもりだったのだが、こっそり自分の部屋に入ることにした。
俺がどれほど頑張ったところで、今見てしまったことをあいつの前で隠しおおせるとは思えなかったし、そうなるともう、何を話してもあいつを傷つけるだけだろう。今俺にできる精一杯のことは、おそらくは俺には知られたくなかっただろうこの状況に、関わらずに立ち去ることぐらいだ。
凍りついた脚をぎこちなく上下に動かして、そろそろと屋敷に戻る。
その夜、俺は遅くまで眠れなかった。




