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猫たちの時間 〜猫たちの時間1〜  作者: segakiyui
3.血の臭い

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1

「ンが!」

 いきなり鼻をつままれて俺は飛び上がった。その拍子に、テーブルに積んであったスクラップ・ブックや様々な資料を落としてうろたえ、一緒にソファから転げ落ちる。

「どわわわわ!」

「いいかげんに帰ったら? もう6時よ」

 お由宇の呆れた声が降ってくる。

「あなた、周一郎の『遊び相手』でしょ? いつまでもずっと、ここにいるわけにはいかないのよ」

「わかってるって」

 転げ落ちた時にぶつけた頭をさすりながら起き上がる。

 眠るつもりはなかったのだが、いつの間にか冬の日はとっくに暮れて、お由宇の家の窓にはカーテンが引かれていた。

「目覚めのコーヒーあげるから、それ飲んでお帰りなさい」

「金を払うから、夕飯食わせてくれ」

「二日目よ、ここで食べるの」

「明日からは向こうで食べるよ、少しは覚悟も決まったし」

 溜め息をつきながら資料を片付ける。

 お由宇がテーブルの空いた場所に熱いコーヒーを置きながら、

「普通そういうのは、バイトを始める前に調べるもんでしょうけど」

「いいんだ、辞めると言い出さないだけ偉いと言ってくれ」

 コーヒーを口に運びながら、積まれた資料の山を眺める。

 それは全て朝倉家と朝倉大悟と周一郎に関する資料だった。お由宇が集めてくれたもので、興信所ほど詳しくはなくても、朝倉大悟という男が信じられないほど切れ者で、朝倉家というのが信じられないほど金持ちだというのはわかった。

 そして、そこに周一郎のような、どこの馬の骨ともわからない少年が引き取られたのが、業界の七不思議の一つとされていることも。

「朝倉大悟はなんで若子と再婚したのかな」

 資料から読み取れる隙のない男と、あの若子がどうにも繋がらない。

「さあ……今となっては本当の理由はわからないけど」

 お由宇は吐息をついた。

「大悟は女性関係も派手だったから、意外と単純に、その頃思春期に入っていた美華のためだったかも知れないわね。若子も大悟には尽くしていたようだし」

 そうかな、あれが『尽くしてた』ってことにはとても思えないが。

 数日前の夜の光景を思い出す。

 黙って見ているしかないと言いたげな周一郎の姿も。

 あの夜の湖に、いつから周一郎は通うようになったんだろう。ひょっとして大悟が殺されてからずっと、あそこに通っているのだろうか。

 屋敷のどこにも居られなくなって、それでああして誰もいない夜の湖に、義理の父親の墓の側に、一人ずっと立っていることで自分を慰めているんだろうか。

「周一郎には何て言って出て来てるの」

「え、ああ。大学の調べものがあるって。『遊び相手』は一応昼間だけだから、別に止める理由もありませんね、と言ってたけど」

「止めるに止められないかもしれないわね」

「え?」

「あなたって鈍感だから」

 言い捨てて、お由宇はキッチンへ消えた。

「何が鈍感なんだ?」

「そうやって聞くところ」

「あのな」

 調べものでしばらく夜遅くなる、そう伝えたときの周一郎の顔を思い出す。

『そうですか。構いませんよ、あなたは、ぼくの奴隷じゃありませんしね』

 いつかの俺のことばを繰り返して笑ってみせたが、悪意は感じられなかった。どこにいるのかとも尋ねなかったが、本当はどこにいるのかを気にしているんじゃないだろうか。最近、ときどきルトの姿を視界の端に感じるし。

 そのルトの瞳の向こうに、周一郎の気配がある気がする。

「これ、ありがとう」

「役に立った?」

「ああ」

 お由宇が運んできてくれた山盛りのミートソーススパゲッティをかきこみながら頷いた。

「正直、周一郎のことはよくわかんなかったけど、それはいいや」

「どうして?」

「あいつも言ってたけど、結局は直接ぶつかってくしかない気がする。そうそう本音が見えるとも限らないけどな」

 あの夜、俺が周一郎に感じたのは、とんでもなく深くてささくれだった傷だった。何度も同じ部分を傷つけられて、痛みさえわからなくなってるからどんどん酷い傷になっているのに、あいつはそれに気づいていない。気づく余力さえなくなっている。

 俺に『遊び相手』を求めているのだ、と周一郎は言った。人生の先輩や指導者を求めているんじゃない、と。

 ならばせめて、多少なりともあいつのことを理解して、これ以上傷つけたくないと思うのが人情じゃないか。

「強いわね」

 お由宇が少なめの盛りのスパゲッティを運んできて、目の前で食べ始めた。

「あなたって、とんでもないわ」

「同じことを言われた」

「え」

「周一郎に。とんでもない人、なんだそうだ、俺は」

「そう…」

 お由宇はスパゲッティを運ぶ手を休めて考え込んだ。

「周一郎も、そう言ったの」

「何が」

「わかってないのよね、だから、とんでもないんだわ」

 一人納得して繰り返す。

「お由宇?」

「はい、食べ終わったでしょ、ごちそうさま、ごちそうさま。じゃね」

「おいおい」

 追い立てられるように玄関に送られても、俺にはわけがわからない。

「何だよ一体」

 見かねたのか、お由宇が噛んで含めるように付け加えた。

「自分が傷ついても人は傷つけない、なんてのは至難の技なの、普通は」

「はい?」

「だから、鈍感なのよ、あなたは。じゃね、バイバイ」

「お由……ちぇっ」

 ばたん、と目の前でドアを閉められて溜め息をつく。

「何が何だか、全く」

 ぼやきながら歩き出し、のろのろと朝倉家に戻る。

「お由宇はときどき訳のわからんことを言うんだよな」

 もっとも、俺のわかりが悪すぎるというのも多々あるとは思うが。

 それでも、バカにはバカへの敬意があってもいいだろう、丁寧に説明してくれるとか、親身に解説してくれるとか、と続けながら、門を潜り、遥か彼方の屋敷に向かって歩き続けていたが、湖へ続く小道にふと立ち止まった。

 暗く凍った空間に人の気配はなさそうだ。

 だがその果て、あの何もかも呑み込みそうな闇の水の側に、周一郎が、また身動きとれなくなって立ち竦んでいるかもしれない。

 俺は小道へと向きを変えた。

 静まり返った夜の中に俺の足音だけが響き続ける。


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