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猫たちの時間 〜猫たちの時間1〜  作者: segakiyui
2.白い墓標

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8

「あ」

 湖の側まで急ぎ足に逃げてきて、俺は再び立ち止まった。

 ねっとりと濃い、タールのような水面を背景に、その中に溶け込む一人の少年が立っている。

 凍りつくような寒さも気にしていないようで、何か白いものをぽん、ぽん、と虚ろな顔で叩いている。

 声をかける前に周一郎はくるりと振り返った。

「滝さん」

「何してんだ、こんなとこで」

「かえれなく、なって」

「え…あ」

 周一郎が淡く笑って、その意味に気がついた。

 屋敷の方からは確かに死角になるが、こちらから戻ると若子と茂の姿はまともに見えるはずだ。

「それでも、大悟は、彼女を愛してたのに」

 ぽん、ぽん、と再び指先をぶつけるように叩き始める。

 それは白い十字架だった。地面に埋め込まれた墓石の部分に、DAIGO・ASAKURAという文字が彫り込まれている。

「これは……お前の父親の…?」

「義理の父親の、です。本当の親なんて、顔も知らない……覚えてもいません。だから、大悟に引き取られたとき、ぼくにもやっと帰る家ができたんだって思ったけど」

 形だけの虚ろな笑みが唇に広がる。

「小学校の遠足でお弁当を持っていくでしょう? それまでと同じように、高野にパン代をもらおうとしたら、ひどく怒られて。ちゃんとご用意いたします、ここはあなたの家なんですよって。……嬉しかったですよ、ああ、家ってそういうものなんだって………でも」

 ぽん、ぽん、ぽん。

 周一郎は十字架を叩くのを止めて、墓に手を載せたまま、湖の遠くを眺めて呟いた。

「居場所がないのは…かわらなかった」

 柔らかな静かな微笑がするすると端から夜闇にとろけていく。それからふいに、うろたえたように十字架を叩き始める、まるで、その行為だけが唯一自分をこの世界に引き止めているような、一途な真剣さで。

「……どこにも、行け、なくて」

 思い詰めた声音が響いた。

「このままじゃ、ぼくは、どこにも行けない」

 想いが満ち過ぎて溢れてしまった、そう言いたげな声。

「朝倉大悟が死んで、ぼくも死んでしまったのかもしれません」

 ゆっくりと見下ろした視線を追うと、その先、大悟の名前の下に小さく、何かで引っ掻いたような文字があるのに気づいた。

 名字もなく、ただ名前だけの歪んで細いその文字は『SHUICHIRO』と読める。

 俺がその文字を眺めているのに気づいて、

「これ、ぼくが彫ったんです」

 周一郎は小さく笑った。

「どうして」

「ぼくはぼくでなくなって、朝倉周一郎でしかなくなったのに」

 でも、その周一郎もまた、この世界には必要のないもので。

「ぼくは幻なのかもしれないですね」

 ああ、こいつ、傷ついてるんだ。

 俺は周一郎のサングラスをはめたままの白い横顔を見つめた。

 泣きはしない、喚きもしない、傷みを訴えることもしない。

 けれど、どこか、救いようがない深いところで、もう取り戻せないかもしれないほどズタズタになって残されている欠片みたいなものがあって。 

 それが影みたいに幽霊みたいに繰り返し周一郎の中を這い上がってきて怯えさせる、お前なんか誰も望んではいないんだと。

 こんなでかい屋敷に住んで、何不自由なく一生生きていける金もあって、あらゆる攻撃から逃げ込める環境があって。

 なのに、周一郎を本当に苦しめている敵は周一郎の中に居る。いや、周一郎自身なのかもしれない。

 ぽん、ぽん、ぽん。

「なんで」

 そんなに苦しんでる。なんでそんなに全てを諦めてる。

「周一郎」

 ぴく。

 俺の声に周一郎は動きを止めた。

 振り返る瞳、一瞬見えた黒曜石のような固い透明さを宿した視線が俺を見上げる、そう見えた次の瞬間、ゆるやかに逸らされていって、俺の背後に向けられる。

「ルト」

「え」

 振り向くと、闇の道を白い反射が跳ねるように駆けてくる。

「おかえり」

 ひどく子ども子どもした幼い声音で迎えた周一郎が、微笑んでふわりと小猫を抱き上げた。

「終わったようですよ、帰りましょうか……滝さん」

 俺を振り仰いだ顔にさっきまでの憂いはない。平然として大人びた、そのくせ何の感情も浮かんでいない整った笑みが張りついている。

 その周一郎に、義父が死んだときに墓石に自分の名前を彫りつけた姿が重なった。

 ぼくは死んだんだ。

 今は開かない唇がそう呟いていたのだろう。

 ぼくはもう、どこにもいないんだ。

 ようやく生きていけると思った、その場所で迎えた結末の傷み。

 胸が痛む。

 世界の誰にも、そんなことを思わせる権利なんて、ないはずなのに。

 こんな顔で笑ってろなんて、一体誰がこいつに教えたんだろう。

「俺といるときに」

「はい?」

「無理して笑わなくていいぞ」

「…」

 サングラスの向こうで目が大きく見開かれる。泣きそうな表情が一瞬顔を過った、そう見えたのに。

「あなたはミス・キャストだ…」

 くるりと背中を向けた周一郎が小さく吐いた。

「は?」

 ミス・キャスト? 

「なんでもありません……戻りましょう」

 その後、部屋に戻るまで、周一郎はついに俺を見なかった。


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