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「辞める?」
周一郎は、棒を呑んだように立ち竦んでしまったのだ。鸚鵡返しに繰り返した、その表情がますます幼くなっていく。
「お前は俺が気に入らないから、猫のことを持ち出したり、呼び方をどうこう言ったりしてんだろ」
俺は溜め息をついた。
こうなれば、言っても言わなくても同じことだ。
覚悟を決めて、腰を下ろした。
今度は俺につられるように、周一郎がすとんと腰を落とす。
「今ならすぐに代わりが見つかるさ」
正直言って、見つかってほしくはないが。
「おまえがどんな『遊び相手』が欲しいのかはわからないけどな」
何だろう。慰めているような気になってきた。きっとたぶん、周一郎があまりにもびっくりした、子ども子どもした顔になってしまったからだろう。
けれど、普通、これも、馘にした方が慰めるもので、された方がするもんじゃないよな。俺のやることは、どうもいつも見当はずれだ。
また溜め息が出た。
「でも、俺に勤まるぐらいならどこの誰でも大丈夫……周一郎?」
思わずことばを切ってしまった。
「『遊び相手』…代わり?』
「おい、気分が悪いのか?」
不安になったほど、周一郎の顔色は悪かった。白いのを通り越して、もう青い。大きく開いた目は、サングラスの向こうで何を見ているのか、ひどく虚ろで遠くなっていて、何だかそのままずるずると崩れてしまいそうにも見える。
今日はサングラスもかけたままだし、弱視からくる羞明のせいというわけじゃなさそうだが。
「ぼくが…」
周一郎が緩やかにまばたきした。自分がどこにいるのかわからなかったというように、室内を見回し、やがてのろのろと俺に目を向ける。
それは何と言えばいいのだろう。
ぞっとするほど暗い目だった。
まるで、そこにあるのは目なんかではなくて、薄暗い森の奥にある、深くて底の知れない穴のようだった。
サングラスが間にあるからよかったものの、もしそうでなければ、こっちまで呑み込まれていってしまいそうな気持ちになるほどの暗くて重い色。
それは絶望だ、と気がついた。
「『遊び相手』でしたっけ」
ぽつんと周一郎は言った。
固くて冷たい、機械仕掛けのような、感情を含まない声だった。
「そうでしたね。そう、だったんだ」
「周一郎、くん?」
「失礼しました」
ばたん、と周一郎のどこかで、わずかに開きかけていた扉が、激しい勢いで閉まったような気がした。
周一郎が目を細め、唇の端をつりあげる。
たぶん、微笑と呼ばれる表情なんだろうが、それは皮一枚だけの薄いものに見えた。遊園地の道化師の人形が、コイン一つで笑いかけてくる、そんな薄くて現実味のない微笑み。けれど、それよりもっと張りつめていて、その薄い皮の下で、周一郎の何かがざっくりと切れた、そんな感じのする虚ろな笑み。
「体調が悪くて。あなたに余計な心配をさせたくないと思って隠していたんですが、だめでしたね」
かたかたかたん。
そんな音が似合いそうな感じで、周一郎は口を開いた。
「すみません、もう大丈夫です。名前は滝さんが呼びやすい呼び方でどうぞ。ぼくとしては、周一郎と呼ばれる方が好きですけど」
周一郎は体の力を抜いた。とてもくつろいだ様子でソファにもたれ直して、微笑みを消さずに穏やかに話し続ける。
けれど、その内側に、細く鋭い針の上に乗せられたような、緊張感がみるみる満ちてくるように感じた。
ほんの一瞬でも気を抜けば、周一郎の体は骨まで砕かれ貫かれてしまうとでもいいたげな、とげとげしい緊張感。
それが、周一郎の大事な何かを引き裂いて粉々にしていく。
「それから、『遊び相手』のことですが、ぼくは事情があって、義務教育の後はここに籠っていて、あまり外に出たことがないんです。子どもの頃ならそれでも退屈しなかったんですが、さすがにいろんな世界のことを知りたくなって。もちろんパソコンやメディアもありますが、現実感もないですし。だから、話し相手になってもらう人を探すのがいいかなと思ったんです」
何かの文章を読み上げるように続けた。
「だから、『遊び相手』というのは、ぼくの話し相手が主な仕事だと考えていただいて構いません」 「じゃあ、馘、じゃないってことなのか?」
首筋がちりちりするような周一郎の緊張がどこから来るのかわからないまま、俺は尋ねた。
「ええ」
すう、と周一郎は目を逸らせた。
とたんに緊張感は消えたが、今度は顔から表情が一切なくなってしまう。
「せっかく来て頂いたんだし、いろんな人と知り合うことは大事な、楽しいことですからね」
そんなことは露ほども思っていないだろう。
そんな気がした。
だめだ、掴めない。
すぐそこにある暗い何かが掴めない。
周一郎を追い詰めている何かが、掴めそうで掴めない。
「も一つ、聞きたいんだが」
「何ですか?」
また、人形のように首を回して微笑み、きりきりとした緊張感を満たして、周一郎は俺を見た。
「俺の知り合いに佐野由宇子っていうのがいる」
周一郎は目を細めた。
「そいつから聞いた話じゃ、お前は十分いろんな世界のことを知っているはずだよな? それに、さっきは猫とお前が何かつながっているようなことを言ってたけど、その話は冗談なのか?」
ようやく少し、周一郎の気配が揺らいだ。
緊張感が弱くなる、それと同時に異様な脆さがにじんで、俺はどきりとした。
何だろう、泣きそうだ。微笑んでいるのに、泣き出しそうに見えてきた。
だが、その俺の感覚は幻だとでもいいたげに、周一郎は表面的な微笑を深めた。
「あなたは…」
くすくすくす、と笑う。
さっきまでの楽しそうなものではない。とても機嫌のよさそうな、なのに、俺の胸をひんやりと凍らせていくような冷たい笑い声だ。
「とんでもない人だ」
「どういう意味だ?」
「あなたを雇うんだから、わからないことはおいおい話していきましょう。その方がお互い楽しいと思いませんか、ゲームのようで? さて、そろそろ行きましょうか」
周一郎は勝手に話を打ち切って立ち上がった。
「どこへ?」
ころころ変わる相手の反応を理解できなくて混乱している俺を、肩越しに振り返って促しながら先に立つ。
「夕食ですよ。もう高野が呼びに来ます。今日は……鶏のクリームソース煮がメインのようですね。鶏肉はお好きですか?」
「好き嫌いなんてないよ。それより、何だ? ここでは毎日食事のメニューでも配られてるのか?」
慌てて後を追う俺に、周一郎はからかうような口調で応じた。
「さっき言ったでしょう? 今、ルトが食堂の方にいるんです。だから、ぼくにはわかるんですよ」
ことばの意味をはかりかねて、どう応えたものか迷っている俺に、周一郎はゆっくり背中を向けて部屋を出た。
「滝様、今お呼びするところでした」
廊下にいた高野が声をかけてくる。
周一郎がちらりとサングラスの隙間から俺を見る。
「ほら、ね」
その目が魔的な笑みをたたえて光った。




