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「ふ、ふえーっくしょいっ!」
俺は飛び上がった。
「えっくしょい! くしゃん!」
たて続けにくしゃみをして、鼻を啜る。
「誰か噂してやがんな……大家か?」
くしゃみと一緒に体の温みまで飛び出した気がする。女子高生が二人、背中を丸めてボストンバッグを抱え込んでいる俺の側を、風邪菌をもらいたくなかったのか、それともそれ以外の理由からか、そそくさと通り過ぎる。
淡い朝の光が、凍えた空気に遮られて一層弱々しく降り落ちてくる。
確かに一昨日に比べれば多少は春めいた日差し、とはいえ、一昨日の俺にはまだコートが残っていた。けれど、今の俺にはコートはないし、1月半ばの寒気は着古したセーター1枚では防げない。
「んなろ、このくそ寒いのに…」
唸りながら、ボストンバッグをよりしっかりと抱き締めた。中身の入っていないバッグはくしゃくしゃと腕の中で潰れていく。中に入っているのは、コップと片手ナベと歯ブラシと箸、下着が二枚、ジーパン一本、Tシャツ二枚、タオル一枚、それだけだ。金は冗談抜きで一銭もない。住んでいた所は今朝追い出された。
「あのごーつくばりババア、家賃が足りないからって、コートまで持っていかなくても……う」
大家への呪詛を途中で止めて口をつぐんだ。しゃべると空腹の体から体力とともに気力が抜けていく。
もちろん、家賃を三ヶ月ためたのは俺が悪い。
だが、大した能力のない身寄りのない大学生にとっては、この不況の最中、世間の風はブリザードよりも冷たく厳しく吹いている。
「あーあ…割りがよくて楽なバイトがねえかなあ」
こうなったら2、3日、お由宇の所へでも転がり込むしかないかもしれない。じんわり惨めさが胸に沁みる。
さしあたっては何かを腹にいれないと、このままでは道路でのたれ死にしてしまう。
「…この塀、ちっとも終わらねえじゃねえか」
八つ当たり半分でぼやいて、溜め息まじりに立ち止まり、延々と続く茶色のレンガ塀によりかかる。十分ほど前からずっとこの塀の横を歩いているような気がするのに、塀はまだまだ続いて、道の向こうに消えている。
「何か、公共の建物かなあ」
突っ立ってても仕方がない。天からマナも降ってこないし、道行く人が微笑みながらフライドチキンをくれそうな気配もない。のろのろと歩きだしてなお十分、ようやく塀の切れ目が見えてきた。
「……終わった……」
別に塀が切れたからどうだというのでもないが、何とかそこへたどり着いたことで一仕事した気になって、俺は大きく吐息をついた。
が、それは塀の終わりではなかった。ロールスロイス二台が余裕を持ってすれ違えるほどの大きな金属製の扉がある入り口で、塀はまたすぐその先から始まって、再び道の向こう、今度は大通りまでも続くのか、はるか彼方に消えていく。
「つーと……何か、これは、家だってのか」
驚嘆まじりに眺めると、扉の近くの塀に『朝倉』と太い筆文字が彫り込まれた大理石の表札があった。その下にはDAIGO・ASAKURAと書かれた金属プレートもかけられている。察するに、外国人の出入りもある、金持ち階級の家なのだろう。
それなら俺には関係がない。
「…は?」
とにかく扉を越えようと脚を引きずりつつ歩いて行き過ぎかけ、思わず目を見張って近づく。金属プレートの下にきちんとした手書き文字で、何かが書かれた紙が貼ってある。
こんな立派な扉と塀なのに、貼り紙なんて何の冗談だ。
不審感一杯で文字を辿っていって、なおも不信と不安が募った。それはアルバイト募集の案内だったのだ。
「バイト…?」
今どき、こんな古風なやり方でアルバイト募集なんてあるのか? しかも、こんなでっかい屋敷ならば、もっと有効かつ安全確実な方法も山ほどあるだろうに。ってか、そもそも通りすがりの得体の知れない人間を呼び込むかも知れない危険の方は考えないのか?
「……雇う気ないのか?」
それとも、こんなお屋敷に雇ってもらえるならと、本気にしていそいそやってくる人間をからかって遊ぼうとかいうタチの悪いいたずらか。
警戒しつつ、眉を寄せながら読み下す。
「えーと………当方、子どもの遊び相手を求めています。年齢20歳以上、男子、経験・経歴(学歴を含む)不問、ただし住み込み(三食つき)、週給7万…」
ごくり、と唾を呑んでしまった。
今とんでもない条件を目にした気がする。
瞬きし、目を擦り、再び読み始める。
「週給7万以上、他条件は相談。面接随時、当方にてって……」
やばい。
まずい。
何かとんでもないことをさせられそうな気配だ。
「やっぱ、あんまりまともじゃなさそうな……」
『遊び相手』に20歳以上の男性なんていう条件を出すなんて、一体どんな『子ども』がいるんだ。週給7万というのも怪しすぎるほど怪しい条件だし、どんな『遊び相手』だかわかったもんじゃない。
「まさか……命まではとらねえ、よな……?」
いや、わからないぞ。世の中にはいろんな人間がいるはずだ。
「止めた止めた、君子危うきに近寄らず、石橋は叩いて渡れ、うまい話には裏がある、命あっての物種………」
首を振りつつ唸ったとたん、ぐうううううううとこれまでの最大ボリュームで腹が鳴った。ぐらりと目眩がして、慌てて貼り紙の横に手をついて体を支える。軽く膝ががくがく震えてきたような気がする。それに視界も少し歪んできたような。
「……虎穴に入らんば……こじを…えず…だっけ」
正直なところ、俺には選択の余地はない。このまま歩いて、この先、それこそこの家の塀が切れるまで歩けるかどうかさえ怪しい。
「どうするかなぁ…」
いくら俺でも命は惜しい。
金属製の扉に頭をくっつけてぶつぶつ呟いていると、ふわりと足下に柔らかな空気が押し寄せた。
「?」
扉の下を擦り抜けて、ふかふかの毛玉が覗く。
「??」
ぐいぐいと押し出されてきたそれは、やがて少し青みがかったような不思議な色合いの薄灰色の小猫になった。全身をしなやかに扉の下から抜き出し、まるで俺がいるのを知っていたようにひょいと顔を上げ、驚きもせずに見つめる。
きらきら光る金色の瞳。まるでよくできた細工物のような猫。
しかも、何か用ありげに親しげに、俺の顔を見つめたまま、にゃおん、と鳴く。