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寛子、おまえ、死んでるところだぞ

作者: 天理妙我

 つらくてたまらないのは、学校にいる時間だけではなかった。例えば去年、学校行事の準備で学級全員が早くに登校する取り決めが行われたとき、常野寛子だけはそれを知らなかった。寛子は教室に入ったときの、義務を怠ったなまけ者を見る目を、あの、よくもおめおめと登校できたものだという風な無言の非難をこめた視線の集中する瞬間を、決して忘れない。そして級友たちは、ささやかな驚きの表情を見せたあと、何事もなかったように作業に戻り、寛子に声をかける者はいなかった。寛子は黙って自身の席に着き、俯いて時間の過ぎるのを待つしかなかった。即ち、チャイムが鳴りホームルームが始まる、自分以外の全員が参加する作業の切り上がるまでの間。


 そんなことが幾度かあってから、寛子は家にいる時間も学校のスケジュールが気にかかって仕方がなかった。しかし、いくら気にかけたところで、携帯型電子端末を持たない寛子には、誰かと連絡を取る術がなかったし、また、何らかのスケジュール変更があったとしても、寛子に連絡が届く気遣いはない。学級で一人、いや、この国で一人でないかとさえ思われる、端末を持たない子供である寛子は、世間から完全に孤立していた。


 小学生の頃はまだ、教師の鈍感さが今ほど完璧なものではなかった。寛子が端末を持っていないと分れば、しばしの驚愕ののちに、父親は電磁波恐怖症なのか、友達とはどう繋がっているのか、もしもの場合にはどうするつもりなのかと、色々と詮索を重ね、その日のうちには学級の全員の前で寛子の事情を話して聞かせた。もっとも、そのときはそのときで、すでに彼女が端末を持たない事実を知る級友たちの忍び笑いや、はじめて彼女の境遇を知る級友たちのざわめきが、自分一人だけが目立って皆の注目を集めることが、寛子にこの上ない恥辱と惨めさを与えた。


 小学四年生のときの担任だった上楠先生は溢れ出る善意から哀れむように言った。


「みんなで常野さんを助けてあげましょう。常野さんが端末を持っていないのは、常野さんのせいではないのですから」


 無論、寛子が父親に端末の購入を懇願したことはいくらもある。その度に温厚な父親はあからさまに機嫌を悪くした。なんだ、あんなもの、と吐き捨てると、おまえにあんなものは必要ないの一点張りで、最後には必ず、自分も端末を持たないが一軒の店の立派な主だと威張った。しかし寛子は知っている。その店の経営の芳しくないことを。当然だ。机でも椅子でもボタンひとつで立体印刷できる今の時代に、わざわざ余計な金額を積んで木製の家具を買う酔狂はいない。お金持ちがお金を払うのは、世界で名の通った有名なデザイナーの意匠であって、統一感のない木材の不正確性ではない。


 食器も、それを収納する食器棚もすべて父親の作った木製製品の常野家で、寛子が最も頑なに端末の必要性を強調したのは中学校へ上がるときである。端末がなければ教科書が予約できない、端末がなければテスト範囲の指定を確認することができない、端末がなければ友達と待ち合わせの約束をすることもできない。それでも父親は頑固だった。友達との待ち合わせなら時計があればできると言い張ったし、テストは普段の学力を試すものだから試験前に範囲内だけを刹那的に復習することはしなくていいと語り、教科書なら二百キロ離れた大型書店に車で買いに行くとまで主張した。そして彼はそれをやってのけた。その上で、高校生になったら自分で働いて買えばいいと、諦観とも憐憫とも取れる儚げな口調で言った。


 だが寛子には確信があった。高校生になっても自分は端末を持てないという確信が。なぜなら働くといっても、今の時代、個人の連絡先がなければどこにも雇ってなどもらえないのだから。端末を買うためには、まず端末がいる。この不条理を抜け出すには、誰かに端末を買い与えられなければならない。では、一体誰に。寛子の場合、それは絶対に父親ではなかった。父親以外の男性という考えも寛子の頭を過ぎったが、一瞬で馬鹿馬鹿しい話だと一蹴した。端末もなしに、どうやって。寛子はそれ以来父親と口をきいていない。


 中学生になってから、学校での寛子の異質感は増していった。端末を持たない子。父親が無理にでもそうさせた子。小学生の頃は、自分のお小遣いを貯めて買えばいいなどという無邪気な同情を寄せてくれる友達もいたし、実際に自分はそうしたと自慢気に言い放つ恵まれた仲間もいたが、今ではそんなクラスメイトもいない。誰もが繋がっている友達とのやりとりに忙しく、寛子のことなど存在していないに等しい。なぜ学校に自分はいるのかと、疑問に思うことが寛子にはあった。誰の目にも見えていないようで、常に好奇と軽蔑に晒され、誰かを不愉快にしている硫黄ガスのような存在。いなくても変わらない、否、いない方がよいものならば、なぜ、誰が、自分をこの場所に存在させているのか。寛子にはそれが分らなかった。この劣等感と屈辱感に耐えなければならない理由はなに。




 今日も朝から教室に奇妙な緊張が張り詰めている。何も分らない、知ることができない寛子だが、これにはいくらか心当たりがあった。だが、もし違ったら。やりきれなくなるのはこういう場面だ。寛子は常に怯えている。何かに脅かされている。常態的に他の生徒の挙動を窺い、当然に全員が知っているはずの次の事態に備える。次の授業の教室が変更されてはいないか。休み時間に変更がないか。あるいは今日は、身体測定か病気の検診でもあるのではないか。寛子は、自分がひどく脆弱な草食動物になった気がする。


 そのときだった。教室中の、寛子を除く全員のポケットにある端末が一斉に警報を鳴らした。一秒ほどの警報の合間に低い男声が呼びかける。


『これは訓練です。これは訓練です』


 始まった。いつ飛んで来るともしれないミサイルに対する避難訓練だ。他の生徒には事前に通告されていたに違いない。寛子は自分以外の全員に通知されたであろう警告を先読みして、わずかに腰を浮かせる。メッセージを読むのが早い数人が椅子を引き、上半身を屈めるようにして頭を下げて立ち上がる。やはりそうだ。寛子が素早く机の下に隠れて体を小さくすると、その動作が終わった頃、教室中の生徒が寛子と同じ体勢を取る。


 警報音が途切れ、教室中の端末が重要メッセージ受信の音をハーモニーさせる。グラウンドだ。寛子は机の下から飛び出しやすい姿勢で構える。しかし、勇み足は禁物。政府が気紛れに教室待機の訓練を考えたかもしれない。学校側の新発想とやらで避難場所が体育館に指定されているかもしれない。そのときに一人でグラウンドにいたのでは赤っ恥だ。


 数人が端末を片手に教室を出ようとする。教室待機は消えた。寛子は脱兎のごとく教室を飛び出す。わらわらと立ち上がった他の生徒たちは端末で各階段や廊下の混雑予測を調べながら教室の出口に集まる。何人かの窓側の席の生徒が端末から視線を逸らして校庭を見下ろした。グラウンド。いつもこれだ。寛子は真っ先に走り出し、誰もいない階段を駆け降りる。一階に降りたところで一息、体育館の線が消えたわけではない。グラウンドなら右、体育館なら左だ。右側に体重をかけながら、他の生徒を待つ。


 すぐに端末にナビゲートされた生徒の塊が、揃って端末に目を釘付けにしながら慎重に階段を降りてきた。右だ、右、という呟くような声が聴こえた。寛子は右手側に軽くステップする。大勢の生徒たちが右に進路を取るのを確認してから、寛子は玄関にダッシュし、下駄箱を無視して上履きのまま外へ出た。避難訓練の際の定石だ。一応、他の生徒が上履きのまま外へ出てくるのを見届けると、左手を凝視して急ぐ他の生徒たちを置いて、寛子は一人グラウンドの中央へと駆けていった。


 グラウンドには続々と生徒が集まり、学級ごとに隊列が組まれた。混雑に巻き込まれたのか、一足遅く避難してきた小学校から一緒の岩出賢太が嫌味な微笑を浮かべて寛子を見やった。毎回毎回、言うことは決まっている。端末を持っていないんだから、これが訓練じゃなかったら――。


「寛子、おまえ、死んでるところだぞ」

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― 新着の感想 ―
[良い点] 主人公の心の声「死んでるところなのは、岩出賢太、おまえだーーーー!」 [一言] 超面白かったです!
[一言] 題名と内容からしてディックの短編の日本舞台バージョン?
[良い点] 持たないからこそ合わせるしかない。そういう感じの主人公が慣れた感じでそうするのは、無駄な苦労を一人だけ強いられているようで、なんとも悲しいところです。 [気になる点] 携帯電話やスマートフ…
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