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第7話 百姓の英雄

 みなもに太陽が透かして見える。丸い光がゆらゆらと揺らめいていた。そこに手を伸ばす。楓のような手であった。風に吹かれて行き先の定まらない木の葉。吹き上げられては落ち、吹き上げられては落ちる。今、まさに小さな手はそのようで、細かな気泡が渦巻く中、暗い深淵とみなもの間を行き来する。


 溺れているのか? いや、やはりそうだろう。だが、苦しくはなかった。痛くもなかった。滝から流れ込む大量の水よる乱流と強力な渦動。もう死ぬんだなと誰に教えられたわけでもなく自然に分かった。怖くはなかった。受け入れよう。あらがう無意味さも分かっていた。だがその思いさえつかの間、次第に意識が失せてゆく。


 いきなり一方向に力がかかった。その力は乱れる水流をものともしない。一直線に押し上げられている。


 水面から飛び出す。


 滝がしぶきを上げていた。

 傍らに鬼幽斎。しっかり抱きしめられた。そしてその顔に、あたたかい笑みを見た。





 目を覚ました。またあの夢である。十五年以上も前、徳叉迦と呼ばれていた頃の出来事だった。頭痛がした。上半身を起こし、腕をまわしてみる。体の方は大丈夫だった。多分、この痛みは気分的なものだろう。


 それにしても鬼幽斎、いや、師父のあの笑顔。明らかにおれが生きていたのを喜んでいた。だが真実はというと、違う。師父はしぶしぶ助けたらしい。


 あの時、死んでいたらどれだけ幸せであったか。


 痛みを散らすため、いや、迷いを振り払おうと、重景は頭を振った。


「大丈夫か? 若いの」


 胴丸に股引の男が土間で、わらを片手に突っ立っていた。緊張感のない、すっとんきょな顔立ちで、重景の答えを待っている。


 おれの心配をするより自分の心配をしろ。って、んなことより、やつだ!


「棚田は?」

「棚田? ああ、あいつか。お前を置いて出てったぞ」


 見渡すと、土間と板敷が半々の屋敷。

 百姓家か。

 土間に厩があり、馬がこっちを向いている。

 他にも四人、足軽稼ぎが自由にぶらついていた。


 わらを馬に与えながら男が言った。


「面倒見てくれって銭、置いて行ったぞ。少しだがな」


 ここに住んでいた百姓は逃げ出してしまったのだろう。だがこの足軽稼ぎらも上坂家信が攻めて来たらただではすまされまい。


 民家を出た。

 日が西の山に沈もうとしていた。


「棚田、……どういうつもりだ」


 唐突に、望月千早が殺される画が、頭に浮かんだ。太刀がその腹に沈んでゆく。


 逆上した。血が逆巻いている。


「おれを生かしておいたことを後悔させてやる」





 深夜、棚田の家に飛び込んだ。

 人気がない。土間には履物がなく、囲炉裏では火が失せていた。

 予想はしていた。ならば、ばばぁに訊くとしよう。


 菅浦惣は隣惣大浦の騒ぎで警戒態勢を敷いていた。が、重景はそれをものともしない。こうなることは想定内であった。昼間ただ酔って迷っていたわけではない。最も近い道は頭に入っている。


 それにしても、飲んだくれの重景とは思えない訓練された動き。そして手慣れていた。闇にまぎれ、素早く、時には動かず、警戒の網目をくぐるって、入り組んだ部落を移動する。


 果たして誰にも気づかれず、政所の敷地に立った。板塀を飛び越え、植え込みで辺りをうかがう。警備の者が二三人うろついていたが、それとは打って変わって屋敷内は明り一つも見えない。警備の指揮で政所の清次郎一族は出払っているのだろう。


 機を見て庭を走り、主屋に忍び込こみ、奥へ行く。

 障子を開けた。滝が布団に寝ていた。


「鈴木殿じゃな」


 舌打ちをした。起きてやがったのか。滝の枕元に座った。


「用向きは棚田殿のことか?」

「ああ、やつに友を殺された」

「それで血相をかいていなさるのか?」


 布団に横たわる滝の目は、いまだ閉じられたままであった。よくもまぁ、ふてぶてしくも、とそれには答えなかった。滝が続けた。


「その調子だと鈴木殿は見逃してもらったんじゃな」


 どういうわけかこのばばぁは事情を飲み込んでいやがる。その上で表情は笑ってもいないし、ましてはおれを恐れてはいない。閉じている眼が不気味に感じる。しかし、それに気圧されては話にならない。


「それを後悔させてやる」


 空威張りに近かった。


「止めなされ。かなうものではありますまい」


 どうやら滝は棚田の強さも知っているようだ。


「棚田はどこに行った?」

「あの人がどこに住んでいるか分からんし、名前さえもしらんのじゃ」


 知らない? 棚田、棚田って何度も言っていたではないか。


「殺されたいのか?」

「どうぞ、気の済むように」


 滝が無表情なのは覚悟の表れか、それともおれを馬鹿にしているのか。そういうことならこっちも考えがある。


「惣のガキが棚田と一緒にいた。あのガキを探す。なにもしゃべらないのならおまえは用なしだ。今、ここで殺す」


 殺すとかは別として、本気であることを示したかった。


「残念じゃの。されど、その娘。もうここには居ない。棚田殿とどこかに行ってしまった。もう二度と戻っては来まい」


 動じていない。まだとぼける気なのだ。


「やはり死にたいと見える」

「まぁ、聞きなさい。あの娘は清九郎殿の玄孫じゃ。われら家族よ」

 突飛なことを言う。「だからどうなんだ!」

「あの娘は清と申す。棚田殿はこの惣に嫁取りに来たんじゃ。これは清九郎殿と棚田豊秋殿の約束なのじゃ」


 不可解な。だれとも分からないやつに娘を与えるものか。いや、娘ではない。玄孫か。というか二十年前に清九郎は死んでいる。いや、問題はそこではない。棚田はどこに行ったかということ。


「約束なんておれには関係ない。棚田の居場所だ。ガキは助けてやる。言え」

「あなたに助けてもらわなくて結構。清は棚田殿がどんなことがあっても守ります」


 布団に寝ている相手に啖呵を切られている。


「ばばぁ、人と話をする時にはちゃんと座れ」


 この場面で、なぜかそれが精一杯だった。

 だが、それには答える気があったのだろう、滝がのっそりと起きて、布団を敷物に座った。うっすら微笑んでいる。馬鹿にしているのか? いや、喜んでいるようにも見える。


「あのなぁ、ばばぁ。あの棚田はおれの師と同じような技を使う。その線からでもおれは探すことが出来るんだぞ」 となれば師父を問い詰めなくてはならない。それがおれに出来るか? いや、出来る。望月殿が死んだんだ。


 いや、出来ればそうしたくない。


 はったりだった。しかし、滝にはこっちの事情が分からない。きっと効くはず。暗がりの中、覗き込む。やはり滝の表情は何ら変わらない。いや、笑っている。そして余裕綽綽に言う。


「なにもあなたには隠すつもりは毛頭ない。むしろ、棚田殿のことを知ってもらいたいぐらいじゃ」

「?」 そこが分からない。なぜおれの肩を持つのか。なぜ惣の秘密をおれに話したのか。


「なら聞いてやる。知っていることを全て話せよ」





――三十一年前、菅浦。


 そこかしこで、男たちの掛け声。そして家のきしむ音、倒壊する音。縄で引っ張られた家屋が右に左に揺れる。やがて菱に形を崩し轟音と共に地に伏せる。砂塵が巻き上がり、残骸となった躯体から埃臭さが漂う。女らから嗚咽が湧き、子供たちから悲鳴がはじける。


 諸河日指の両耕地はすでに放棄していた。土塁は柵ごと堀にならし、物見櫓や屋敷には火を放った。すべての惣門も落した。入江から保良神社へ一直線に伸びる石段の並木はもうない。家屋の敷地にある木も同じ。すべて切り倒した。それに代わって篝があちこちに設置された。


「随分、見通しが良くなった」


 家屋が倒れた埃と砂煙の中で正介が辺りを見渡し、弓を引くカッコをする。そして陰気な雰囲気を吹き飛ばすかのように、がははと笑う。正現入道の若き日の姿である。


 湖を挟んで向こう、西の山に日が沈もうとしていた。


 薪が次々と運ばれ篝の中に放り込まれる。闇に沈んでゆこうとするのっぺらな部落。そこに明かりがともされた。


 夜になっても、惣民は手を休めない。政所の敷地に物見櫓が組まれてゆく。女子供が矢を作って束ねてゆく。石垣沿いに柵を立て、倒壊した家から剥いだ板をそこに結んでゆく。家屋の柱も棟木も材木という材木は全て薪に変えられ、次々と積み上げられていく。見回る正介。それに満足げであった。


「やつらぁ、驚くぜ。なぁ、おやじ!」


 清九郎は正介よりずっと上の段、政所の敷地に立っていた。全てがこの清九郎の指図であった。西の斜面の寺院十数軒、北の斜面の保良神社、部落の頂点の政所を残し他は全て潰す。


 ことの発端は菅浦に来た行商が大浦の惣民に殺害されたことによる。大浦で盗みを働いたための罰であったらしいが盗みを働いた証拠どころか持ち物全て大浦の惣民に持って行かれたという。菅浦は報復に出た。大浦を夜討し、四十五人を殺害、牛馬を殺し、鉄釜を破壊した。この一連の事件に対し大浦の領主、京の日野裏松家が動いた。当時、日野裏松家は諸河日指の知行権を菅浦惣に奪われていた。ずっと巻き返しの機会を図っていたのだろう。関係各所に奉書を送り、菅浦退治を呼びかけた。明日にも大浦に軍勢が集結するという。


 清九郎は昼間っから政所を一歩も動いていない。今は真っ暗闇となった湖面を見つめている。細面に筋の通った鼻、刻みつけた無数の深い皺、鋭い眼差し。清九郎の視線は暗い湖のどこに向いているのであろうか。滝はその傍らで不安に怯えていた。視線の先は真っ黒な虚空。清九郎がまるで底が見えない深淵を覗いているかのようで怖かった。


「綺麗さっぱりではないか、何もかも。飛ぶ鳥、あとを濁さずってのはこのことだな」


 後ろで声がした。

 滝は聞き覚えのある声に振り向いた。

 棚田豊秋である。驚いた。惣の警戒網を潜り抜けてここまで来たのもそうだが、その姿を見るのが十四年ぶりなのだ。そのうえ、ただならぬ雰囲気の男らを三十ばかり従えている。


「清九郎、お前は諦めてないと思ったぜ」

「どうして来たの? なんで?」


 口についたその言葉。滝にはこの援軍の来訪をどうしても吉事とは思えなかった。が、すぐにその思いは心に閉まった。


「清九郎、おれたちも戦う。精鋭を連れてきた」


 清九郎も察するところがあったのだろう。真っ暗な湖畔を向いたままで、振り返りはしなかった。


「来ると思った」




 深夜になって菅浦の要塞化が止められた。阿弥陀寺において酒が振る舞われるという。死出の別れ。皆は酔いたかったのだろう。派手に騒いだ。踊ったり、歌ったり、泣いたり、笑ったり。しかしそこには清九郎と棚田豊秋の姿はなかった。皆の世話で働きづめの滝は、やっぱりそういうことですねと棚田が来た理由を察した。そして足のすくみ、身の震えに、必死に堪えた。





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