第5話 回向
政所の座敷では一族があさげを囲んでいた。滝は奥の座敷からめったに出てこない。正現入道はというと惣から寺をあてがわれ、善応寺の住職となっている。というわけで一族の長たる清次郎が上座に座り、左手に男たちが並び、右手に女たち。後継ぎの清権介はというと寝ぼけ眼で、箸が進まない。
目が覚めて、囲炉裏端に顔を出した重景だが、飯がないのに腹が立った。京に帰ったんでおれのは用意しなくてもいいとか、清権介の野郎がぬかしたのか。それで座敷を覗いた。
「おれの朝飯は?」
目が合って清権介が手元を滑らせた。碗が床に弾んで汁を撒き散らす。「鈴木様、すぐ用意します!」と後ろから下女が慌てて飛び出して来る。床に汁が広がっていた。硬直する清権介と右往左往する身内の女衆。それで下女はというと狼狽した。飯がなく、鈴木様が清権介様を怒鳴ったに違いない。清権介が汁を溢したのは、自分のせいだと下女が思い込んだようだ。清次郎らに端座して詫びる。「鈴木様が起きてからお出ししようとしたのです」 そして重景にも謝る。「鈴木様、なにとぞ、なにとぞ」
「いいの、いいの。あんたはなにも悪いことはしてない、あんたはね」と、重景は下女に声をかけて、清権介に目配せした。
「酒も用意してくれる?」
昼ごろ、浅井直種が訪ねてきた。
「昼間っから寝酒か」
寝そべっている重景は、定位置の囲炉裏端で徳利を三つ四つ並べていた。
「暇だからな」 うそだ。松のことが頭から離れない。
「清権介殿から聞いたぜ」
浅井直種があぐらをかいた。
やはりその話か。寝そべったままで、居住いは正さない。
「清権介はわざわざそっちに行ったのか。ご苦労なやつだ」
浅井直種は山向こう、半島を竜に例えるなら顎の尾根を越えた先、諸河と日指の耕地を警守するために、普段はそこに詰めている。足軽稼ぎの食いつめが雪崩れ込んで来た時には、それを追ってここまでやって来た。そう聞いていた。
「なぁに、舟で来れば疲れもしない」
菅浦がある竜の大口のほかに、もう一つ入り江がある。それは喉の部分、いわずもがな諸河と日指である。
「そりゃ、そうだ。で、なんのようだ。まさか叩き切るとか言わないだろうな」
「仲間がいるのか?」
「なんで?」
「昨夜、ギュウギュウに縛ったと言っていたぜ。それともなにか? 縄抜け出来るのか?」
「出来るわけないだろ。あれは体のあちこちの骨を外してもぞもぞやるんだ。ここらへんでは甲賀者か伊賀者かだ。それもごく一部の者だけ。なかなかお目にかかれるしろものではない」
「なら自分で仲間がいると言っているようなものではないか」
「どうしてそうなるんだ?」
浅井直種が眉根を寄せた。
「人を食ったやつだな、お前は」
なんとでも言ってくれと酒を煽る。
「なぁ、一体お前は何しにきた。おれにはさっぱり分からん」
「だから、起請文」
「それが人を食ってるっていうんだ、ったく」
浅井直種がため息をついた。
「十日で消えるんだろ? 菅浦から」
「今からでもここを出たいさ、正直言って」 めんどくさくなったし、どれもこれも面白くない。
「明日は清九郎殿の命日だ。この日は毎年、善応寺で念仏が習わしとなっている。お前も行かないか? 宿老らに話してやっていいぜ」
清九郎を英雄と崇めて惣の一体感を図る、いや、清九郎一族が政所職に就く正当性を惣に示す意図があるのか。だが、おれは茶番には付き合わないぜ。
「遠慮する」
「なんだ、なかなかこんな機会はないぞ。凄かったらしいぜ、清九郎殿は。三千とも四千とも知れない大軍に囲まれたその中、湖水に舟を一隻、悠々と走らせたそうだ。菅浦を助けようと自分の首を差し出すためにな」
あくび一つした。その爪の垢でも煎じろとおれに言いたいのか。だが浅井直種がそれを否定した。
「あやかれって言っているのではない。回向っての知ってるか?」
ああ、当然知っている。で次に出てくる言葉も想像出来たし、そのとおりだった。
「熊野先達と言っていたが、善行をしたためしがないのだな、お前」
これ以上話したって無駄だというのだろう、浅井直種は立ち上がり、背を向けた。
「おい」 重景は呼びとめた。
「浅井殿、棚田って者、ここら辺で知ってるか?」
浅井ならここだけでなく湖北一体に顔が利くはずだと、話しながらずっと考えていた。それでついつい。おれは酔ってしまったのか。
浅井直種が振り返って小首を傾げた。
「あんたがここに来た理由がそれか?」
後悔した。みじめったらしい。
「いいや」と気のない素振りを見せた。
「残念だが知らない。この辺では聞かない名前だ。他を当たるんだな」
浅井直種は真顔であった。嘘ではないだろう。やはり惣は棚田を隠している。
「悪かった。忘れてくれ」
居住いを正し、会釈した。
おかしな奴だというような顔をして浅井直種は出て行った。「あーあ」とひっくり返る。なんで気になるんだ。
「浅井が知らないのは致し方ないとして、あのばばぁ、なぜおれに棚田の話をしたんだ」
奥の座敷、滝と清権介の息子がいた。
「誰にも言うなって。それで怖くなった」
差し出した小さい手の平にそれを隠してしまうほどの大きな金貨がある。
「あれまぁ、いいもの貰ったね」
滝がおどけてみせる。その滑稽な反応に清権介の息子は安心したのか笑顔で「うん」とうなずいた。
「大事にしなさい」
清権介の息子は嬉しそうにまた、「うん」と答える。
「誰にも言わないって、鈴木のおじさんとの約束、守るんですよ」
清権介の息子は大判の金を胸に入れると障子を閉めるのを忘れてすっ飛んで行く。滝はその背を目で追っていた。その表情には暖かい笑があった。
葛籠尾崎の鼻先から一つ目の峰側に大きな板葺屋根が連なる。そこは西向きの敷地で必然、寺院が集中していた。高いところから順に長福寺、善応寺、阿弥陀寺、安相寺、真蔵院と他にもいくつもあり、それが惣の運営に一役かっていた。若者を鍛えるため蹴鞠や射的場を設けたり、宿老の会合に使ったりする。他には宿老の隠居先や文書に詳しい有識者を招く先であったりもした。また変わったところでは政争で負けた貴人の収容場所などにも使われたという。
この日は清九郎の命日であった。清九郎の菩提を追善する念仏を修するため惣の宿老全員が善応寺に集っていた。住職正現入道の後ろに清次郎を筆頭とした二十名が居並ぶ。そこに浅井直種も同席した。皆、念仏への熱の入れようはなかった。
この頃、鈴木重景は湖畔で酒を飲んでいた。平静を保っていたが本当は焦れていた。湖や庭先に惣民の姿がない。そこらかしこから念仏が聞こえてくる。皆、家にこもって熱心に念仏を唱えているのだ。
「望月殿はこんな絶好の機会になぜ攻めて来ないのか」
清九郎に遠慮しているわけじゃぁあるまい。あるいはおれがばぁさんを殺すのを待っているのか?
確かに正現入道やら清次郎を殺しでもすりゃ惣の存続も危ぶまれる。惣は合議を体裁としているが結局、やつらが大将。その誰かがいなくなりゃ結局ばらばら。やっぱり、殺すんなら当たり障りのないばぁさんしかねぇよな。それでもって、正現入道やらが怒り狂うし。だとしたら、大浦の日野裏松家の代官なんてもんはいちころよ。
しかし、それこそばぁさんが鬼女だったらどんなによかったことか。それだったら、なんの呵責もない。いや、望月殿が攻めては引き、攻めては引きし、それで癇癪を起した菅浦が逆に、大浦を攻めるでよかったんじゃないか。いや、いや、望月殿のせいにしてはいけない。面白がっておれが滝のばぁさんに会わなきゃよかったんだ。だが、しかし、本当にそうだろうか。
松に会わなきゃよかったんだ。
ばかな! んな、ばかなことを、何考えてんだ、おれは。それより望月殿。
「らしくない。望月殿の身に何かあったとしかおもえん」
とにかく、望月殿に一回会っておこう。それからでも事を起こすのは遅くない。
滝は政所の奥の座敷で念仏を唱えていた。
その傍らに二十歳位の青年が手を合わせている。
念仏を終えると滝は、青年の方へ向きを直した。青年はというと合わせた手を柔らかく解き、膝をずらして滝と向き合った。色白に細身で華奢に見える。名を棚田俵太という。そのやや紫立つ淡紅色の唇が動いた。
「そろそろ旅立ちます。これまでの御恩は一族、子々孫々に至るまで語り継ぎたいと思います」
滝は大きくかぶりを振った。
「それを言うならわたくしどもの方。われら菅浦は豊秋殿にどれだけお世話になったか」
豊秋とは棚田俵太の祖父である。
「無邪気に楽しんでいたのでしょう。あの人はそう言う人です」
「ご謙遜なさるな。菅浦が湖北で孤立して三千の軍勢に囲まれた時なぞ、豊秋殿はお仲間を従えていっしょに立て篭って下さったではないか」
「それは清九郎殿の大将としての器がそうさせたのです。武人はそういう人に心惹かれます」
「そうでしょうか。今度の起請文。あの人らしいやり方ではありませんか。まごころが伝わってきます」
滝は目を潤ませた。
「それは祖父がしたこととは限らすまい」
「起請文が書かれたのはわが夫が他界した翌年。書いたのは幕府管領の京兆家。間違いありません」
足利将軍家は執権を三家置いた。細川家、畠山家、斯波家である。それらの内、細川家の嫡流を京兆家と呼んだ。
「全ては幻です。もう忘れてください」
滝は棚田が本当の名ではないことを知っていた。そして本当の名を知らない。それは棚田豊秋から聞き及んでいた。“棚田”は世に出ることは許されない。それは“棚田”の始祖よりの厳命である。掟で結ばれるのが惣であるゆえ、その結びつきが強い菅浦はなんの疑問もなくそれを受け入れていた。
「家屋や中の物全て惣の物としてください」
「もう、来ぬのか」
「ええ。わが一族は清九郎殿との約束を果たすことが出来ました」
滝は袖で顔を覆う。むせび泣いていた。
「いつ旅立たれます」
「われらは幻。いつの間にか消えているでしょう。その前に」
滝は顔をぬぐって襟を正す。
「鈴木殿のことでしょう」
掟は絶対であった。滝はその掟を破った。しかも恩義を感じている“棚田”の掟である。棚田俵太は深く頷いた。
「そういった点で祖父は軽率でした」
「豊秋殿をせめてはなりませぬ。わたしが黙っていたら済むことでした。わたしが悪いのです」
「なぜ!」
棚田俵太の口調は厳しかった。それに滝は言葉を返す。
「鈴木殿は清九郎に似ています。分かるのです。子供の頃から清九郎を見ていました。あなたはあの世からこちらに来たばかりで分からないでしょうが、わたしはあの世に向かっているから自分が逝くあの世はどこなのか薄々分かります。到底、清九郎のもとに逝くことはかなわないでしょう。でも鈴木殿はきっと清九郎のもとに逝かれる。あなたはその鈴木殿を無下にしてはなりません。あなたも清九郎のいるあの世からこの世にやってきたのですから」
ずっとしかめっ面であった棚田が、聴き終わった後、その顔に含み笑いを走らせた。それも一瞬、残ったのは突き放したような冷ややかな目である。
「ばば様。残念ながらわたしはその鈴木なにがしを殺してしまうかもしれません。そうならないことを祈っていてください」
そう言い、滝を置いて棚田俵太は去って行った。
滝は沈んでいた。棚田に負い目を感じる。手を合わせた。
「だけど豊秋殿、あなたはわたしの気持ち、分かるはずでしょ。俵太殿を導くよう、なにとぞ、なにとぞ」
すぼまる肩と丸まった背とで滝はまるで空気が抜けてゆく紙風船のようであった。
善応寺の本堂では宿老の一人が隣の惣、大浦の異変を話していた。この男、塩津から湖南の大津へ荷を運ぶ廻船業を副業としていた。塩津は半島の東側の付け根にあり、陸路としては急な傾斜を縫って行く山道であったためほとんど使われず、そこへの往来は菅浦から舟で一旦南に下って半島を回り込み、それから北上する水路が利用されていた。その塩津で、足軽稼ぎや牢人らが大浦を乗っ取ったと聞きつけたのだ。半島は山で内陸と遮断されているし、元来、諸河と日指を己の領地と主張する大浦とは行き来するはずもない。その点、半島の東の付け根でもある塩津は西の付け根、大浦とは内陸で接していて、山で遮断されているとか地理的不都合がないので、菅浦同様に土地がらみで大浦といざこざはあるにはあったが、人の行き来は皆無ではなかった。
聞くところによると、ことは菅浦から諸河と日指を取り戻すため大浦の領主日野裏松家が足軽牢人七八十雇ったのが始まりだという。それがどの時点からか雇われもしないのに無数の足軽稼ぎ、牢人らが大浦に集った。当然、日野裏松家の代官、松平式部尉は追い払う。だが足軽稼ぎ牢人らも一揆して対抗。結果、松平式部尉は追い出され、政所を奪われてしまう。つい昨日のことだという。
「大判十枚だ」と男は両手を広げてみせた。
その足軽稼ぎや牢人が集まった理由。それが大判の金十枚だったというのだ。菅浦の政所から盗んだという者がいるらしい。それで菅浦には金がうなっていると噂が立った。
「やつらはきっと菅浦に攻めて来る」
清次郎らは、はっとした。大判の金を鈴木重景が持っていたことを思い出したのだ。だが、清次郎らはそのことを他の宿老はもとより惣の皆に言ってはいなかった。金欲しさに、起請文を書いたと名乗りを挙げたりする者も出てくるだろう。不用意に騒ぎ立てたくなかったのだ。
その理由も含め、清次朗はそれをこの場で話した。ただ、息子で宿老の末席、若衆の清権介は何人かに話してしまっている。この宿老が集まる席では浅井直種が聞いていた。
皆は小首を傾げた。腑に落ちないのだ。政所にそんな金が眠っていたことなぞ聞いたことがない。それでもってなぜ、ないはずの金が鈴木重景の手元にあるのか? 宿老の一人が清次朗らを疑った。政所職で私腹を肥やしていたのかと。浅井直種が、それはおかしい、盗人がわざわざ盗んだ金を差し出すわけがないと言う。一方で、こっちは惣のことでいっぱいでお前らみたいに家業に専念出来ないのだと清次郎。誹謗中傷、罵詈雑言、念仏の会合は住職を含めた言い争いの場になった。それに業を煮やした浅井直種が、鈴木重景に聞くのが早いと訴えた。考えてみれば大浦の足軽稼ぎや牢人たちがいつ攻めてくるか分かったもんじゃない。ことは一刻も争うのだ。果たして皆が顔を見合わせた。途端、弾けたように本堂を飛び出す。部落を走り回る。ところがどこにもその姿はない。どれだけ探したか、途方に暮れた宿老らが湖岸に集まり顔を突き合わせた。そこへ、やはり部落を駆けずり回っていた浅井直種が慌てて飛び込んでくる。
「鈴木には仲間がいる」
はっとして、清権介が口走る。
「そうだ。まずい」
が、言ったそばからすぐに気まずい顔を見せた。
清次郎が眉をひそめる。
「なんじゃ、申してみい」
清権介がぎくしゃくした口調で縄を抜けられた話をした。
「なぜそれを早く言わぬか、ばかものが!」
惣民に呼びかけて戦の準備と鈴木重景の捜索が始まった。
保良神社の裏に淳仁天皇の陵墓といわれる石積の小山がある。それを左手に見ながら鈴木重景は進んでいた。ほどなく二つの峰の鞍部に差し掛かる。そこにわら葺の門が立っていた。支柱が細く頭でっかちな、湖岸線に有ったのと同じ形状のものである。その両脇は石が積んであり、見張りも四人付いていた。
やつらに見られたら面倒だと道を外れて森の茂みに分け入る。道なき道を進む。山頂に達すると北に向かった。内陸へ伸びる尾根沿い。左手眼下に諸河と日指の入り江が木立の間から覗く。日の光が反射して湖面はほとんど真っ白であった。
数刻走ったか、尾根は峰となる。そこを山田峰と言った。振り返って俯瞰する。入り江、そして二つの耕地とその間になだらかな丘。半島を竜に例えるならそこは喉仏。耕地は双方とも堀を巡らせ、土塁を設け、柵を立てている。柵内には物見櫓があり、二つ耕地を遮断する丘には警護人たちのための宿舎が集められていた。
「この狭い土地はまさにこの世の縮図だな」
入り江に十艘ほど舟が入って来るのが見えた。
「おれを探しているとみた」
もう大手を振って菅浦惣に入れないことを覚悟した。そしてもし入るとするならば、夜陰に紛れて、ということになろう。
半島と内陸を隔てるように山田峰から先は北東、北西の二つの尾根に分かれる。その大浦方面、北西を進み、思った通り行く手にまたあのきのこのような門。それはここ、山田峰と湖岸線を行く道にそれぞれ一つずつあるという。そしてその二つを結ぶ線が大浦との境界であった。
門の見張りが右往左往している。それをしり目に迂回し、人里に下りた。大浦惣である。耕地が見渡す限り広がっていた。
「とりあえず政所へ行くか。といっても」
それがどこかが分からない。遠くに煙が一筋、上がっていた。
かくして焚き木を燃す男を前にした。胴丸だけの裸に近い。それが陣笠を鍋に代用し飯を炊いていた。政所の場所を聞くと口も開かずおっくうそうに指だけを差す。鈴木重景はその方向にしばらく歩いた。