第38話 金神
政元が旅立ったこの年、山中で修行中の若者が突然消えて騒ぎとなった。縦穴に落ちてしまったというのが真相であったが、当の本人はというと気が付いたら洞窟だったという。随分とさまよったらしく、どこをどう通ったのか偶然山腹の穴から出られて事なきを得た。といってもその事故というか、失踪自体を鴉党が騒ぎ立てた訳ではない。その若者が洞窟の中で見たという物がそうさせたのだ。重景は取るものを取らず現地に入った。政元の死は記憶に新しく、その政元に導かれたような気にもなったし、なによりもその場所は鬼幽斎に殺されかけた場所に程近かい。すでに厳重に警戒するよう命じてあった。その指示通り、縦穴の周りには手元にいた十二鴉九人の顔と、手練れ三十人の警護する姿があった。
「一人で入る」
この一言で、場は騒然となった。皆が反対したのだ。見つけに行こうとするものがものである。何があるか分かったものではない。そうでなくても足を踏み外すとか、事故も考えられる。鴉党は重景を失うわけにはいかないのだ。その気持ちは痛いほどわかる。が、しかし、重景には強い想いがあった。最後こそは己一人の手で決着を付ける。皆に取り押さえられようとする中、強引に押し切って一人、重景はその縦穴に入っていった。
湿った風、鼻を突く糞尿の匂い。
松明を燃す。
蝙蝠の群れが石壁に蠢いている。その排泄物が原因だろう刺激臭の中に、時より潮の香りが微かにする。どこからか、海岸につながっているだろう。松明の炎の傾きからして、風は左から来ている。そっちが洞窟の口なのが知れた。
子供の頃、鬼幽斎に殺されかけた状況からかんがみるに、おそらく鬼幽斎は海岸側の口を使わずに、この縦穴を出入口にしていたとみて間違いないだろう。探しものは海岸の口と縦穴の間にあるとも考えられるが、やはり大切なものは、いや、神聖なるものは人の目に触れにくくするものだ。進むべきは右、洞窟の奥である。
十四年も探していた。熊野の修行場とされる山中はもとより、まさかとは思って御鴉城も隈なく調べもした。抜け穴がないか、隠し戸はないか。だが、そのすべてが徒労に終わった。無益な努力と捨て去った時間から、このまま見つからないのではないかと考えることさえあった。それが目の当たりにしようとしている。
山本鬼幽斎。
恨んでないと言えば嘘になる。あなたはわたしの兄弟弟子全てを殺した。憎悪の念を払拭しようにもしきれない。
でも、それ以上に後悔の念が先に立つ。あなたが謝った時に、なぜおれは強引にも『太白精典』をその手から取り上げなかったのか。なぜあなたを幽閉しなかったのか。あなたも改心し得たかもしれないのに。飯道寺山であんなに多くの人が死ななくても良かったのに。
ふと、狭い岩の隙間から、奥に広がる空間を見とがめた。松明を向ける。
注連縄が二つに千切れ、だらしなく垂れ下がっている。幾つもの燭台が赤茶けている。
やはり、間違いではなかった。恐る恐る岩の隙間を抜ける。
神棚。そこに像が祀られていた。
二匹の龍にまたがる鬼の像。
そしてその前に一冊の冊子。
固唾を呑む。
手に取って眼前に引き寄せる。
松明の明かりが冊子の上で揺らめく。表紙に『太白精典』と書いてあった。
真贋を確かめる。松明の火が目線の高さになるような岩の突起を探し出し、松明をそこに立掛けた。明かりの前で冊子を弧に曲げ、弾力を利用して親指で弾く。目の前を紙がどっと通り過ぎて行く。早すぎて、いや、まとまって行ってしまって、まったく文字が見えない。何をやっているんだ、おれは。
はたと、心臓の鼓動に気付いた。逸っている。
飯道寺山の戦いは終わっていない。この十四年、一度たりともその実感は沸かなかった。『太白精典』がある限り第二、第三の鬼幽斎が現れるとも限らない。いや、もしかしてまだ鬼幽斎そのものの影に怯えているのかもしれない。心を落ち着かせよう。目を閉じた。
落ち着け、重景。すべてが終わろうとしているのだ。
目蓋を引き上げる。確かに今、『太白精典』は手の中にある。だがもしこれが写しだったら。
紙を摘まむ。指先が震えていた。一枚が摘まめない。
「チッ」
キリキリしているのだろう。舌打ちにしてはあまりにも音がデカい。
気息を整えよう。息を吸った。
喉がヒリヒリした。カラカラに乾いていたのだ。潤さなけらば、とギュッと閉めた唇を延ばしては緩める。まったく唾が出てこない。それでも何度も繰り返す。
全くらちが明かない。水がほしい。ぐっと流し込んでカラカラの喉を潤したい。ヒリヒリ痛いのだ。意固地になって唇を絞って唾を押し出そうと躍起になった。それで呼吸を忘れてしまっていた。苦しくなって口をばっと開ける。喉に痛みが走った。その激痛に心臓が驚き、鼓動を早める。気息を整えるどころか散り散り、吸っているのか吐いているのか分からない状態になってしまった。
頭痛とめまいに襲われ、まずは落ち着こうと息絶え絶えに腰を下ろす何かを探す。手で岩壁や地面をまさぐっていると、かかとに岩が当たった。座るのにちょうどいいかもしれない。振り向く余裕もなく、後ろ手でそこをまさぐる。やはり、腰を掛けるにはちょうどいい岩だった。腰を落す。座り心地も良い。座禅を組んで目を瞑る。なんとか頭痛も動悸も治まってきた。
ふと、思った。鬼幽斎がこの岩で瞑想していた。そしてこれが鬼幽斎の見ていた風景。
見渡す。壁岩の一画に目が止まった。
無数の刻まれた筋。
胸騒ぎがした。
近づいて松明が掲げる。壁岩に白い小さい何かが見えた。
指で摘まむ。
爪!
それも、眼の前だけで三つ。
心をごっそり持っていかれた。それから意志や感情が、苦しむ鬼幽斎の幻影と共に胸中に、引かれた潮が戻ってくるかのごとくどっと押し寄せてきた。
鬼幽斎はここで金神と戦っていた。そして自我を奪われてしまった……。
いや、そうじゃない! ならば鬼幽斎は早々に死を求めたはず。そうすれば鬼幽斎という殻から金神は飛び立てたはず。だがそうはしなかった。おそらくはここで戦った末、鬼幽斎と金神は混じりあい溶け合ったのであろう。と、すると飯道寺山のは金神であり……、
鬼幽斎?
あるいはまったく別のものになってしまったのか。
手にある冊子を見た。先ほどよく見えた表紙の文字が見にくい。墨は古くて劣化し薄くなってはいたが、さっきは見えないわけではなかった。だが今は、文字が幾つもの残像を造って重なり合い、ぼぉっと浮いて見える。
手の震え? いや、全身が震えている。
なんだ? この心の奥底で沸々とたぎる感情。
この震え、恐れではない。
……怒り。
『太白精典』……。
それは人を神にする法!
その夜、熊野御鴉山熊野社に大勢の人が集まっていた。
その者らに見守られ、『太白精典』は重景自ら手によって炊き上げの中に投じられた。
燃え盛る炎。
声をそろえての読経。
今になって思う。『太白精典』の真髄。それを知れば人の手でどうにかなるものでないことは分かる。おれが鬼幽斎を幽閉しようがしまいが関係ない。どのようなかたちになったとしても最後は飯道寺山でのような惨劇が起こった。
封印なんてなまぬるいか。……葉、おまえは正しかった。
炎の中で、『太白精典』は一瞬の内に灰になって消えた。
おれの役目はここまでだ。もちろん大鴉としてやることはやったつもりだ。だが清九郎とまではいかなかったのは確かだ。やつは舟一艘で数千の軍勢の真っただ中をゆらゆらと進んだという。百姓にもかかわらず武士も恐れず、一大宗派比叡山とも一人で渡り合った。おれなんかその足元にも及ばない。
滝のばあさんめ!
おれだってそんなこと初めから分かっていたさ。清九郎がおれと同じ種類の人? 笑ってしまう。やっぱりおれはおれだった。いくら血を継いでいたって清九郎とは違う。それはあんただって分かっていたんだろ?
おれはあんたに似たんだ。人をまとめるってのは苦手なんだ。一人で閉じこもって瞑想にふける方が性に合っている。あんたもそうなのだろ? でも、あんたはおれにそれを望んでいなかった。こうなってしまうと半分あんたにハメられたようなもんだ。
約束は果たされた。大鴉を辞任する。
……いいだろ? ばあさん。
滝の姿が目に浮かぶ。目鼻立ちのいい女。若い時の姿で現れた。それと共になぜか抱きしめられた感触が体に戻ってくる。
……ありがとう。感謝するぜ。
そしてもう一つ、重景には想いがあった。
最後の約束!
おれはそれを果たさなければならない。




