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第37話 『神足通』

 布団に松が横たわっていた。唇が本来の桜色に戻りつつある。鈴木重景は傍らでその松の長いまつ毛が動くのを見た。


「松!」


 松が薄目を開ける。


「松! 松!」


 気分がどうかを聴きたかった。その答えなのだろう、松の微笑み。そして布団の裾に白く細い指が差し出されていた。


 笹百合のつぼみのような指であった。

 この手が天下を、皆の命を救った。

 そう思って重景は、いまにも折れそうな指に触れ、そしてその手を包むように握りなおす。


「怖かった」


 松が小さく言った。

 ぐっと込み上げてきた。おれたちはこの少女になにをさせたんだ。


「ごめん。ごめんよ」


 オイオイ泣いた。涙で松の顔が曇って見えない。松も泣いているのだろう。小さな嗚咽が聞こえて、手が強く握り返される。




 飯道寺山。二人はここで二日間、一緒にいた。そして三日目の早朝、松が姿を消した。落合の里に帰ったのであろう、別れの言葉は無かった。




 重景はというと、生き残った熊野鴉党を率い、熊野への帰路に着いた。









 熊野御鴉山、熊野社。重景はその濡れ縁に立った。

 満天の星。

 月光とかがり火の明かり。

 境内は黒山の人だかりであった。それが皆、ひざまずいている。そして濡れ縁の下には重景を守るように興福寺の妙塵居士、呪師走りの高悦、刀禁呪使いの安楽太夫が立つ。沢慶は飯道寺山を攻めるのを反対したため鬼幽斎に殺されたのだという。


 愛洲移香斎にも御鴉城に留まってくれるように頼んだ。山本鬼幽斎が飯道寺山を攻めた時、松が死ななかったのはひとえに、彼のおかげであった。有象無象を統制し、防戦にあったったのは見事であったと聞いたし、事実、あの鬼幽斎相手に諦めず、ぎりぎりのところで持ちこたえていた。彼こそが真の英雄であることは疑うべくもなく、一緒に大鴉となって鴉党を立て直せればこんなうれしいことはない。だが、断られてしまった。彼もまた求道者なのだ。生涯を掛けて、剣の悟りを得んと修行を積むのであろう。でも気落ちはしまい。また何かあった時は姿を現すのだろう。愛洲移香斎はそういう御仁なのだ。


 重景は翼を広げるがごとく白羽織を羽織った。そして高らかに宣言した。


「全鴉党に命じる! 『太白精典』をすみやかに探せ! 写を取ろうと思うな! 見つかり次第、このわたしに伝えよ! 屹度、申し渡す!」


 皆が立ち上がった。そして地鳴りのような気勢の声。それがいつしか「鈴木!」と呼ばわる歓声に代わる。組織の再生を感謝する声か、あるいは願う声か、まるで仏の名を唱えるかのようにそれは、いつまでも鳴りやまない。


 熊野の山々。神々が住まうという。

 それも祝福しているのだろうか。

 幾つもの鈴木の名が熊野の山々に木霊していた。






 それから一年経ち、三年経ち、五年経った。ところが『太白精典』は見つからず、さらに九年経ったある夜。御鴉城の奥深く、その一室で重景はというと、いつものように書類に目を通していた。報告書、奉書、発給文、訴訟文などなど。読み終えると逐一返事を書き、名前を入れ、花押を押す。一息ついて机の右を見る。積み上げられた書類の山。おもむろにその一番上に手を伸ばす。幕府から熊野のある惣に出された発給文書。その内容は寛大であった。幕府は、いや、京兆家は我々を気に掛けてくれているということか。


 ……さぁ、どうかだかな。


 政元を思い出していた。最後に分かれた時の遠ざかる背中。今思うと悲しげでもあった。

 あれ以来、会っていない。

 その政元は赤沢、興仙を使って比叡山を焼き打ちしその主要伽藍を灰燼に帰した。それだけでなく大和では由緒ある寺院を焼き払い占領したとも聞く。その一方で前将軍義材一派と小競り合いを今なお続けているという。


 ……ずっと戦っているんだな、あいつは。


 望月家はというとそれに巻き込まれているらしい。四朗が頭領だと聞いた。本家へ養子に入ったそうだ。妻はあの葉。それを聞いたときには思わず笑ってしまった。色々と思い出す。男装した葉。神護寺で桃太郎気取りの葉。浜辺で夕日に立つ葉。そしておれを許してくれた葉。


 あの姫、ハチャメチャだったが情は深かった。男だったらいい大将になれたのにな。


「なんだ。楽しそうではないか?」


 政元が目の前に立っていた。


 !  ……『神足通』。


 それは思念体。姿が昔とまったく変わらない。思えばその能力は十三歳の頃、家臣に拉致され丹波に幽閉された心の傷そのものだといっていい。本人はその自覚がないかもしれないが、そんな体験がなかったとしたら政元ほどの男、もっと別の能力を手に入れていたはず。


「老けたな、重景」


 久しぶりの政元であった。重景はうれしくて感情が高ぶったのだろう、胸になにか込み上げてきた。涙が出る。だが恥ずかしくて、それを慌てて拭う。


「なんだ? 泣いているのか」

「いや、なんでもない」


 政元が笑みを漏らした。


「涙もろくなるほどまで老けてはおるまい」

「さ、さ、政元、座れ」と前の机を退ける。


 政元もうれしそうであった。どっかり座る。


「生身で来てくれたらいっしょに酒が飲めたのに」

「昔はよく二人で飲んだな」

「ああ、楽しかった」


 政元が照れくさそうに笑う。


「ほんとうか?」


「ほんとうさ。おれはおまえがいなかったらどうなっていたか分からない。最後は喧嘩別れしたが、それがいまでも残念に思うんだ」

「悪いことをした」

「いや、いや、おれもこの年になっておまえの気持ちがちょっと分かるようになった。おまえの考えも一概に間違えとは言えん」

「そうか? うれしいことを言ってくれる」

「ただし、一概に、だぞ」

「一概に、か?」


 二人は声に出して笑った。それから堰を切ったように、昔話を話し出す。あの時、二人は若かった。随分と馬鹿をやった。肩を組んで笑ったこともあった。酒に酔って取っ組み合いをしたこともあった。そうやって二人でいっしょに大人になった。それがどこかでずれ始めたのだろう。あの飯道寺山の戦いが決定的だった。それから二人、別々の道を歩むことになる。それでも二人はあの青春時代がよりどころであった。互いに片時も忘れることはなかった。今、二人はその青春時代に戻ったかのように言葉を重ねている。笑ったり、手を叩いたり、身振り手振りで昔にあったことを再現したりもした。そして時間があっという間に過ぎた。


「残念だが、帰らねばならん」


 もう朝か。「つぎはいつ来る?」


 政元が立ち上がった。


「重景。おれ達は親友だよな」

「なにをいまさら。ずっと親友だ。おれはおまえとの友情を片時も忘れたことはない」


 だが政元の目は悲しそうであった。その目のまま、含み笑いをする。

 そして消えていった。


 胸騒ぎを覚えた。やがてそれが間違いでないことを知る。早朝、細川政元が家臣に暗殺されたと十二鴉の一人に聞かされた。


「あれは政元本人であった……」


 随分と昔に政元と二人して山に登ったことがあった。何て名前の山かよく覚えていない。政元が行こうと急に言い出したのを覚えている。またいつもの気まぐれかとしぶしぶ行くままについて行った。どこをどう行ったのか、その山頂で政元が言った。


「向こうの山に一本だけピンと突き出た杉、神木なのだそうだが、それが明日、朝日と重なる。その時、ここから神木に願い事を叫ぶんだ」


 だれかに聞いたのだろう。そうすると願いが叶うというのだ。政元とおれは一晩そこで語り明かし、やがて稜線に朝日を見た。空がみるみる赤く染まっていく。高純度の光が全身に染み込んでゆく。やがて朝日は神木と重なり、神木は後光のごとく光を放つ。その機を逃さず、大きく息を吸った政元が叫んだ。


「おれたちはずっといっしょだ! なぁ! 重景!」


 思えばそれぞれ同じような心の傷を抱えていた。それから抜け出そうと死にもの狂いだった。おれは運よくそれから逃れることが出来た。政元はさらに泥沼にはまっていったのだろう。修羅の道であった。だが、あいつに逃れるすべがあったのだろうか。聡い政元だ。あの時から突き進む以外ないことは薄々承知していたろうし、それでいつかおれと袂を分かつことも分かっていた。だから杉の木に向かってあんなことを言ったのだ。あの日の政元は朝焼けを背に光り輝く笑顔であった。あの笑顔こそ本当の政元だった。


 政元よ。もう、おまえには狂気の笑いや曇った笑顔は必要ないのだぞ。


 そしてどうか神仏よ、慈悲を示してほしい。政元が安らかであることをなにとぞ、なにとぞ。












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