第35話 終わりの始まり
そこかしこで金神の神気が立ちのぼる。糸を引いて鬼幽斎の遺骸に向かう。半身を失った鬼幽斎。地べたに両手を高く振り上げたかっこで逝っていた。その上で神気が球を造って徐々にその姿を膨らましてゆく。雷鳴が一つ。それを皮切りに無数の稲光が空に走った。辺りが暗くなる。飯道寺山は黒雲に覆われた。突風が吹く。それが暴風に変わった。球体の神気が何かを象ってゆく。落合の惣、その森深くにある稽古場、そこで見たあれ。
戦慄した。背筋が凍る。
それが目の前に現れようとしていた。
……本物の金神。
数百の将兵僧兵らが呆然と立つ。恐怖で動くことも適わないのだろう。
深い青の肌。人程の大きさの二本の角。ギロリと光る三つの目玉。まさに鬼であった。それが穂先の付いた背丈ほどの大斧を杖突き、二匹の龍に跨っている。その金神はというと元三大師堂よりも頭一つ、大きかった。それが、頭の上でぐるりと大斧を回し、脇に収めた。突風が撒きおこった。元三大師堂、戒光院、行者堂の屋根が反り返って瓦が端から順に剥げ、次から次へと空に飛んでいく。一方で、重景の横を空気の塊がどっと押し通る。大斧を脇に挟んだ時、縦に回転させたその風圧である。それが味方に直撃した。一瞬である。囲んでいたその一画だけ味方は消えて無くなった。その直後、紙吹雪のように空を舞っていた瓦が浮力を失って落ちてきて、地面に当たってガシャガシャと飛び散った。
金神が笑った。その声は耳をつんざく、そんなものじゃぁなかった。頭が割れるように痛い。精神力の弱い者や負傷したりして体力を失っていた者はその声だけで卒倒した。龍がうねる。数百年生きた神木の如き胴。地に食い込む丸太の如き三本の爪。そして黒光りする鱗。二匹の龍が言い合っているのか、じゃれ合っているのか、牙をガチガチと鳴らし、髭でバチンバチンと地を打って鼻先で互いをつつき合う。それで感情が高ぶったのであろうか、その尻尾が跳ね上がった。
落ちてくる。
!
一つ、二つと元三大師堂に当たった。
粉みじんである。全て消し飛んだ。その破片が四方八方に走る。それが味方に直撃。破片と一緒になって次々に飛ばされてゆく。
金神がまた、笑った。
頭を押さえバタバタと卒倒する味方ら。
金神が大斧を薙いだ。先程は斧頭を扇のように使っていた。ところが今度のは見せかけではない。斧刃が空を切り裂く。数百の将兵僧兵らは初め元三大師堂を囲んでいた。今は金神を囲んでいるかっこになっている。そこへぐるりと円を描いて大斧が飛んで来る。
来た!
咄嗟に身を伏せて重景はそれをかわした。頭上を大仏殿の柱のごとく巨大な柄が轟音突風共々、通り過ぎて行く。助かったはいいが、心臓が凍る思いで重景は政元を見た。消し飛ばされず、政元も這いつくばってこっちを見ている。その喉仏が上下に動くのが分かった。今の一撃をかろうじてかわせたことに固唾を呑んだのか、それともこれから見ようとする光景にそうしたのだろうか、互いに周りを見渡す。柄で塵屑のように吹き飛ばされたか、あるいは巨大な斧刃で稲を刈るかのように両断されたか、立っている者は誰もいなかった。幸か不幸かすでに気を失って地に伏している者は生きているようだった。
「あれはなに?」
葉が立ち上がって空を指す。稲光が走るその前を多くの人が紙くずのように飛んでいた。そして巨大な何かが、折り重なる院の甍の向こうに頭を出していた。二つの角に三つの目、犬歯が上からだけでなく下からも生えている。この世のものでないのは明らかであった。それが笑っているのか、激昂しているのか、顔の中心に皺を集めている。何があそこで起きているのだろう。魂を抜かれたように見入る葉は慌てて目線を下げた。雷の明滅で、その何かが甍の向こうをにらみつけ、注意がまだそこにあるのはだいたい分かる。おそらくそこにいるのは重景らだろう。
大丈夫、わたしたちにはまだ気付いていない。だけどもし、あれが振り向いて視線が合ったなら、わたしたちはどうなるの。
「……金神」
四朗の大きな背中が言った。
「姫はその女を連れてここを出て下さい」
「なに言ってるの? あなた」
あまりの恐ろしさに葉は一刻も早く四朗ともども甲賀に引こうと考えていた。
「重景を置いて行くわけにはいけません」
「大丈夫、あの男は。それよりも四朗、あなたはだめ」
半分振り向いた四朗の目の色に怒りか、嫌悪か、強い光があった。葉はその目に怖気た。
「だって、あなたは『穏行法』が使えないわ」
その理由はうそだった。まだ四朗の目に射抜かれていた。言えない本心を、葉は心の中で言った。
四朗が死ねばわたしはどうやって生きていけばいいの?
そんな葉に構わず、甍の上に顔を出す金神に四朗の視線が向けられた。そしてそこへと足が運ばれる。
「待って!」
葉は叫んだ。
「二人が死んだら生きてられない。わたしも死ぬ」
口について出たのは熊野の森で重景と四朗に言った言葉。それは本心であり嘘であった。
四郎が足を止めた。振り向かない。
葉は息をのんだ。
短い時間なのだろうが、長い沈黙。四郎は止められない。そしてその背は言葉を掛けられるのを待っている。葉にはそう思えた。
「四朗! わたしも行く。わたしも戦う」
四朗が振り返った。爽やかな笑顔である。その四郎が片膝をつき畏まる。
「姫がいれば我らは百人力。必ずや金神を倒しましょうぞ」
どこへ行くにも四朗といっしょだった。四朗もわたしといっしょを望んでいる。
「よう言うた。それでこそ四朗だ」
主従の体裁を保つため気丈にもなんとかその言葉を吐いたが本当は、葉は喜びで体が震えていた。
「それと四朗、この女も連れて行こうぞ」
四朗が顔を上げた。戸惑っている。
「見ろ!」
この女、そう、夜叉蔵の名を騙っていた松。その松が目で訴えている。わたしも行きたいと。葉にはそれが分かっていた。おそらくは、これまでの重景の嘘はこの女を守るためのものだったろう。そしてこの女も重景を好いている。好きな男を失っては生きてられない。ならばいっそその男と死のう。その気持ちは、今の葉には痛いほどわかる。
「この女は果報者だ。重景ほどの男に好かれたのだからな」
葉には、なぜか動けないはずの松が喜んでいるように見えた。
「四朗、解毒薬を飲ませてやれ」
四朗も笑顔であった。
恐るべき破壊力。助かる見込みはない。絶望。だがそれが裏返ったのか、あるいはそれを通り越して麻痺してしまったのか、重景に闘志が湧いてきた。血がたぎるのを感じる。
これを野に放つ訳にはいかない!
その心を読まれたのだろうか、血も凍るような金神の視線、それが向けられた次の瞬間、大斧の薙ぎが飛んできた。ところがその攻撃は今までなんぞ問題ではない。その速さは文字通り、神速。辛くも『倶利伽羅剣』で防いだ。だが威力も並みでない。体が宙に飛ばされた。地に打ちつけられ気を失いかける。だがそうはさせてもらえない。
二撃目が来る!
構えた。ところが大斧は政元の太刀の前で止められていた。
「政元!」
たぶん政元の助けがなかったら、ずっとかなたに飛ばされていただろう。こんなものでは済むはずがない。だが……、
はっとした。
で、あるならばなぜ、政元はあの大斧を止められたのか? 金神をまじまじと見た。おかしい。むしろ金神は大斧を引き戻そうとしている。
「神刀ことひらか!」
この時、初めて分かった。神刀ことひらは気を吸う太刀ではない。本来の姿は……、
『神封じの太刀』!
そのことを政元は知っていたに違いない。政元の恐ろしさは『神足通』ではない。政元は誕生時、聖徳太子の化身と評判が立った。ともすればどちらが鬼神か分からない。やつならば出来る。いや、政元をおいて他にだれが金神をたおせるというんだ。
金神がやっとのこと、大斧を引き戻した。神刀ことひらを相当怖がっている。今にも飛び立とうとする構えだ。
逃がさない!
全ての気を解放した。全生命力を掛ける。その背中に炎が立つ。ごうごうと燃え盛る。そこから不動明王が現れた。
……不動金縛り!
金神は飛び立つ態勢で固まった。
「よし! よくやった、重景!」
政元が金神に近づく。そして神刀を金神に向けた。
「政元! 早く!」
金神の力は想像を絶した。そしてその大きさ。金縛りが完全にかかったわけでない。最後の押し込みとそれを跳ね退けようとする金神の力とが均衡を保っているだけでなのだ。気を抜けば弾き飛ばされてしまう。全身から脂汗が吹き出る。どれくらい金神を押さえていられるか? もって二十数えるほどか。
「神刀で金神を!」
ところが政元は動かない。その顔色は青いとうより冷たいものであった。それで金神を眺めている。薄気味悪い。金神に魅入られているのか。気力を保つんだ!
「政元!」
その声に政元は反応しなかった。血の気が引いた。すでに限界は越えていた。金神を押さえている気はもう薄皮といってよい。針の一刺しで一挙に弾け飛んで消えてしまう。救いと言えば金神がまるで檻に衝撃を加える猛獣のようなでたらめな力押ししかしてこないことであった。押し込んでくるのをなんとか気をたゆませたり縮めたりして、金神の外へ出ようとする力を逃がしている。だがそれも時間の問題。気が遠のく。
「お願いだ、政元」
もう焦点を合すことが出来なくなっていた。政元も金神も風景も、輪郭を失い、色はにじみ、ぐにゃぐにゃと曲がって見える。意識を保つのも限界。いや、生命力の限界。
もう、だめだ。
!
……… 暗闇。
おれは死んだのか?




