第33部 裏切り
飯道寺山は、飯道神社と幾つものお堂と院とで構成されていた。その一つ、戒光院は飯道山寺のほぼ中央に位置し、その周りには梅本院、岩本院、智積院、行満院、宝乗院などがあり、さらに離れたところには戒定院、常応院、吉祥院などがある。どの院も荒らされている形跡があるが、常応院だけは戸も窓も閉じられ敵の侵入を許していないようだった。
その常応院もすでに鬼幽斎の手勢に目を付けられていた。政元に攻められ、時間をかけてられなくなったのか、あるいは割り当てられた手勢が少なすぎたのか、院を丸ごと焼き払おうという魂胆である。押し入ろうとせず、一団は火矢を構えていた。
指揮しているのは二人。ともに背丈は人の倍。筋骨隆々にして大太刀の二刀流。炎に炙り出された獲物が常応院から飛び出して来るのを満を持するといった風である。そしてその後方、僧坊の屋根に腹ばいでその様子をうかがう二つの影。四朗と葉である。一団の移動を目ざとく見つけ、その背後を追跡していたというわけだ。
早速、四朗が懐より火薬玉を出し、導火線に火を灯し、それを投げる。爆音と共に爆風が、火矢を構える一団を襲った。獲物を狩るつもりが、狩られる羽目となる。獲物に集中し背後が無防備なだけに、せん滅させるのは容易だった。
ところが、地に降り立った四朗と葉は先に進めなかった。幾つもの帯となって流れいく硝煙の中で、立ち上がる阿と吽を見たのだ。双子なので似ているのは分かるが、その仕草まで瓜二つだった。ふたりとも目を見開き、眉間に皺を寄せ、肩で息をしている。太刀はどっかに吹っ飛んでしまったのだろう、手の平を一杯に押し広げて威嚇するように構えてみせた。その姿はまさに山門によく見る仁王像であった。
葉が眉を寄せる。
「すごいわ。今ので生きているんだ」
四朗は懐から組紐を取り出す。その端には錘が付いていた。それを投げる。防御のために前腕を盾にした阿であるが、丸太のような腕に錘が巻き付くのをただ眺めているだけだった。そしてあごをひん曲げる。この攻撃にどういう意味があるのだろうか、と考えていたに違いない。紐を巻き付けた相手は天下一を自負する力士なのだ。百歩譲って縄なら分かる。それを紐とは。
前腕を軸に勢い良く回転する錘は瞬く間に組紐を失ってピタッと止まった。四朗を馬鹿にしたのか、ニヤついた阿が渾身の力で組紐を引く。それがピンッと張ったかと思うと四朗の体が持って行かれる。だが四朗はその勢いに自身の跳躍を乗せた。ばっと宙を舞い、阿の背後に降り立つ。そこから阿の廻りを駆け始めた。どんどん阿の体に組紐が巻き付いてゆく。その光景は蜘蛛に捕らわれた虫のようである。
こんな紐、と甘く見ていたはずの阿だが、幾重にも巻かれればそれはそれで強力で、細いだけにゆるみもなく、しかも腕を体に密着させられては力をうまく使え切れない。そうのこうのしている合間に、四郎のなすがままに動きを封じ込まれてしまった。四朗はというと頃合いと見たのか、大股に足を止め、組紐を大きく引く。途端、阿の足が揃ったかと思うとその両足が宙に飛んだ。阿は天地さかさまとなって、大きな音と共にその巨体を地に打ち付けた。
思わぬ転倒に、吽が驚いている。注意は阿に向けられていた。葉はというとその機を逃さない。その吽の股下をすり抜ける。すると吽がグラつき、膝を突き、這いつくばった。葉は通り過ぎる瞬間、かかとの骨とふくらはぎを結ぶ腱を切ったのだ。そこから踵を返し、四つん這いに伏す吽に馬乗りにまたぎ、短刀をその首筋に押し当てる。飛び退きつつ短刀を引く。吽は血しぶきを上げ、うつ伏せに倒れた。
それを見届け、四朗は常応院に向う。しかし数歩進んだところで後ろから声が掛かった。
「待て!」
四朗が振り向いた。
吽を切った葉が、そこから動いていない。夜叉蔵を助けに行かなければならないのに、突っ立ったままなのである。
四朗が眉をひそめた。
「姫。急ぎましょう」
葉が冷たい目をしていた。それが言った。
「大体なんでわたしたちはあんなに急いでここに来たと思うの? 重景は夜叉蔵を助けたいんでしょうが、わたしも別に理由があってここに来たの。ある意味、わたしもあいつに死んでもらっては困るもの」
「と申しますと?」
「夜叉蔵を甲賀に拉致する。そこで洗いざらい吐かす。あいつは兄上の仇が誰かを知っている。方法はもう考えてあるわ」
甲賀には人を生ける屍に変える薬があった。摂取すると高揚感を味わえるという。ところが一旦薬がきれたら地獄の苦しみに襲われる。ゆえに摂取者はその薬を得るために何でもするようになる。葉はそれを松に使おうと考えていたのだ。
元三大師堂、その屋根の上。見れば鬼幽斎を守る棒手裏剣が一本も旋回していない。あまりに無防備であった。殺してくれと言わんばかりである。らしくない。腹黒く執念深い鬼幽斎がなんの思惑もなく自分の身を危険にさらすとは考えにくい。なにかの誘いか。よかろう。おれには時間がないんだ。お遊びに付き合ってはいられない。やいばで一瞬だ。一気にかたをつけてくれる。
! なんだ?
走る一閃。それを間一髪、かわした。が、思ってもみないところから白刃が飛んできていた。それで驚きもあって無理な体勢になり、膝をついてしまっていた。追撃が来る! しかし、どこからだ! 鬼幽斎が『太白精典』を使い、太刀を飛ばしてきたのなら、見逃すわけがない。一体どういうことなのか? 見上げるとそこには太刀を片手に、鎧武者が突っ立っていた。
味方? なぜ!
政元にも、味方の鎧武者が太刀を振り下している。それを神刀で受け止めていた。
鬼幽斎の笑い声が轟く。
「飯道寺山を地獄絵図に変えてやる!」
あちこちでむくむくと立ち上がる死体。百は超えよう。それは政元の将兵僧兵たちにとって、今日この瞬間までいっしょに戦った仲間たちなのだ。それが襲ってくる。おののき叫ぶ鞍馬や愛宕の僧兵が次々に殺されてゆく。なされるがままであった。鬼幽斎の仕業? やつは死体を操れるというのか?
だったら! それは冒涜だ! 神仏への冒涜だ。だけでない。生への冒涜だ! 自分以外は糞なんだ。人が死のうが生きようがどうでもいいんだ。鬼幽斎、あんたは人ですら捨ててしまっている。今、止めてやる!
気のやいばを幾つも放つ。ところが蘇った無数の死体が鬼幽斎の盾となった。宙を飛び、鬼幽斎との直線上に躍り出る。次から次へと、飛ぶやいばに向けて体をぶつけてくる。起き上がっては起き上がり、何度も何度も鬼幽斎の盾になる。まったく鬼幽斎にやいばが届かない。そして明らかに、生きていた時と違う動き。早い! 動作に移るタメもない! だがそんなことより、鬼幽斎! あんたは心底腐っている。おれに死者を痛めつけさせるつもりなのか。血が逆巻いた。おまえにくらわしてやる。『不動金縛り』を!
甍の上では鬼幽斎が腕を組んで眺めている。余裕綽々、白い歯をこぼしている。それが大音声に言った。
「重景! おれが『やいばの修験者』のおまえに、憎きおまえに、なぜ直接攻撃しかけないか分かるか?」
ぞっとした。そう、鬼幽斎の言う通りなのだ。ここから元三大師堂の甍まであまりに遠かった。『不動金縛り』は対象物を気で囲い、そこから圧縮してゆくことで完遂する。鬼幽斎に術を掛けるならばある一定量の気を飛ばし、鬼幽斎のところで圧縮させなければならない。つまり遠ければ遠いほど掛ける確率が下がるということなのだ。鬼幽斎はそれを理解している。その時点でまず『不動金縛り』は成功しない。さらに状況が状況。集中なんて無理だ。となれば、なんとしてでもやつに近づかなければ。奥歯を噛みしめた。時間をそう掛けてはいられない。焦った。でもそうする他ない。心が痛むが許せ。死者全てを屠る!
「僧兵ども! 目を覚ませ。まどわされるな。これは鬼幽斎の術だ。気後れするな」
一転、僧兵らは死にもの狂いで応戦した。ところが相手は死体。当然、話しかけても分かりぁしないし、切っても切っても倒れることもない。次々に僧兵らは倒れてゆく。死体に切られた者は別として、死体を切った者も地に伏せる。血反吐を吐いて息絶える。
金神の神気!
くそっ、何をやってんだ。まんまと鬼幽斎の術中にはまっている。
「僧兵ども! 引け! 引け!」と、連呼した。
生き残っている僧兵らは蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。もう自分を除いては政元以外いない。その政元が嬉々として斬りまくっている。果たして神刀の刀身に触れた死体は崩れ落ちて動かない。
「!」
鬼幽斎が操っているのは死体でなく鎧! そうか! それが狙い。それで鎧武者ばかり狙ったんだ。浅はかだった。それが多くの仲間を失わす原因となってしまうとは。やつの好きにさせてしまうとは。だが、これ以上は許さん。
「喝っ!」
『不動金縛り』を発動した。至近距離から順に何十体の死体を金縛った。
「政元! 分かってるな!」
「うひょー、重景! やはり術を隠していたか! 四朗から聞いたぜ。千早が死んだ時は止めたのは太刀一本だったらしいが、落合と行ってから腕を上げたな。考えていた通り! こりゃ、いただきだ!」
「考えてた通り? おまえ、こうなることを予測して落合と行かせたんか!」
「落合は世に出ない。だったら誰が出る? おまえしかおるまい!」
「そういうことか。よかったな。まいた種が実を結んで。んで、なった実の味はどうだ? さぞかし旨いのでございましょうなぁ」
「ご機嫌斜めだな。だが、それは見当外れだな。こっちとしては感謝してもらいたいくらいなんだ。四朗には千早と一緒だったってことは言っていないからなぁ」
「そういう問題か!」
「今更、ぐじゅぐじゅと女々しいこと言うな! おれは忙しいんだ!」
ますます政元の意気が上がる。斬るのがよほど楽しいのか、斬って斬って斬りまくる。
「重景! 後れを取るな!」
くそぉー、言われなくても分かってるわ! 次から次へと金縛ってゆく。動く死体はやっと半分になっていた。
その頃、常応院では組紐でグルグル巻きになった阿の喉笛を葉が掻き切っていた。血しぶきが上がっている。
「要するに重景に悟られなければいいの。全てがこいつらのせい、だったらいいでしょ」
一歩遅かった、とそんな風に重景に言うつもりなのだ。四朗が絶句した。
「なにが不服なの? 初めに嘘をついたのは重景の方よ」
葉が懐より薬玉を取り出す。
「夜叉蔵一人を連れ出して、あとは死んでもらう。常応院に火をかけるの。証拠は残らない」
葉が戸惑う四朗を素通りして常応院へ進む。
「大丈夫。大丈夫」
すれ違い際に葉が明るい声を四朗に掛けた。
その見当外れに気が晴れるはずもなく、四朗はというと顔を曇らせてたままである。
葉が濡れ縁に上がり扉の前に立つ。
「味方よ! 助けに来た! 開けて!」
その声を発してから一拍、間があった。
「名前を言え」
扉が少し開く。
構わず、葉は薬玉に火をつける。そして導火線の頃合いを見て、扉の隙間から投げ入れる。と同時に扉を背中で押す。中から扉を開けさせないよう渾身の力を籠めた。
中で爆音が鳴った。
ほどなく隙間から白煙が漏れてきた。
葉は即座にその場を離れる。白煙はしびれ薬であった。
四朗が立ち尽くす。ほぼ全てを重景から聞いていた。夜叉蔵は重景の想い人なのだ。重景の話しぶりからそれが分らぬほど四朗は鈍感ではない。
「姫……」
葉があきれる。
「ここまで来てしょうがないわねぇ。夜叉蔵は殿方の高尚なあそびの相手なんでしょ。でも、あそびはあそび。あんたがそんなに気に病むことはないじゃない」
《高尚なあそびの相手》とは、風流の相手、つまりは男色の相手を言っている。葉は腰に手を当ててため息一つ、つく。
「でも、生きているといいんだけどねぇ、夜叉蔵。死んでたらこれまでの苦労が水の泡だわ」




