第3話 起請文
鈴木重景は囲炉裏端で飯をがっついていた。遠慮する気など毛頭ないので食えるだけ食おうと腹に押し込む。そもそも貴人のつかいで来たのだ。惣民にはそのような態度を見せるのが筋なのだが、作法もなにもあったもんじゃない。のどに白米を詰まらせる。だがそんなこと、構っている場合じゃない。惣民が気を配ってくれるのも初めのほんの一時。いつ風向きが変わるかわかったもんじゃない。しかもここは菅浦惣。他と違うというのは分かり切っているのだ。というわけで、胸を叩いて白米を胃に落とそうとする。が、上手くいかない。徳利を手に取って、酒をがぶ飲みする。胸のつかえは解消。
「はい、おかわり」
そんな重景を、三十四五の男と十才位になる男の子が囲炉裏を挟んだ向こうで見ている。清権介とその息子だ。何か変わったものを見るかのごとく目を丸くしていた。
そこに袖なし羽織の屈強な男が太刀を片手に、床を踏みしだいて現れた。食いつめが暴れていた折、門を落とせと指図した男だ。肌のつや、流行りを先取りした袖なし羽織、無駄に意気盛んな様。見たところ同い年か、おれよりまだ若いか。その男が炉縁の左側に鞘尻を突いて、どかっとあぐらをかいく。何か因縁を吹っ掛けられてはかなわんと重景は切っ先を制するは言い過ぎにしても、その無駄に意気盛んな男にすかさず、「飲むか?」と徳利を向ける。
「いや」と男はあっけなく固辞し、ここにいない人の話をするかのように清権介に向かって、
「これが例の先達か?」と尋ねた。
清権介とその息子が大きく頷いている。
「ふふーん」と男が鼻を鳴らし、茶碗でも値踏みしているかのような目で舐めまわし、挙句、「悪い奴ではなさそうだな」と笑みをかけられる。
舐められたもんだな。重景は、徳利を置く。
「どういう評価だ? それは」
そして箸で男を指す。
「そういうお前は誰なんだ?」
「浅井直種と申す。以後、お見知りおきを」と会釈した。
すぐさま、二人の間を取り持つように清権介が、
「菅浦は浅井家にご尽力頂いていまして」と言ってなにやら微妙な笑いを見せた。
ご苦労、察するぜ。だが、
「そりゃ、安心だ」 関係ないとばかり飯をかき込んだ。
奥の座敷では重ね小袖の老婆が、二人の男と顔を突き合わせていた。その老婆が、ふふふっと笑った。
「熊野先達がねぇ、起請文をないがしろにするんじゃ世も末ですの」
男の一方、年老いた坊主が目を丸くする。
「そんなことよりも、起請文を書かせたのはおやじか? そんな話は聞いていないぞ。御袋は聞いていたんか?」
老婆は嬉しそうに首を横に降った。老婆と坊主は十才程しか違わない。老婆の名は滝といい、坊主を正現入道という。正現入道が《おやじ》と言った男の後妻が、滝なのだ。
男のもう一人、初老のごま塩頭が正現入道を見た。
「そうだとして、だったら菅浦宛に諸河と日指を安堵するという起請文をだれが管領家に書かせたというんだ?」
葛籠尾崎は竜をかたどった半島だと例えた。その大口に菅浦惣があり、喉の部分にあたる耕地が諸河と日指なのである。
正現入道が小首をかしげている。初老の男が続けた。
「聞いていようがいまいが、相手は天下の執権、管領家だぞ。そのような大それたことをするのは爺様しかいないじゃないですか」
この初老の男は清次郎という。正現入道の長男で惣の宿老であり、菅浦の経済的支配権を持つ惣政所職を世襲していた。
不意に、滝が立ち上がろうとした。反射的に正現入道と清次郎が両脇についた。
「どこにいきなさる?」と二人同時に言う。
「起請文はたぶん棚田殿のご厚意であろう。それを確かめたい」
いい心持ちだった。横になっていると酔いと満腹感と囲炉裏の温かさでややもすると眠りに落ちてしまう。それはまずいと徳利を口に運ぶ。手さえ動かしていたら眠ることはないだろう。そう安直に考えてそれを繰り返す。すでに浅井直種の姿はなく、目の前にあるのはあんぐり口を開けた清権介親子の顔二つだけである。そこに突然、滝ら三人が姿を現した。清権介の驚き様はない。滝を介錯した方がよいものか、速やかに席を開けたら良いものか右往左往している。それを尻目に重景は、やっとおでましかと気だるい体をのそのそ起こす。
「清九郎殿の夫人、滝殿とお見受けしますが」
巷では、滝は神意を告げると囁かれる。なにしろ事が起請文だ。そういう噂が立つからには面目躍如、きっと姿を現すだろうとふんでいた。といっても、ただ単に滝にからかい半分、興味を持っているということだけなのだ。今回の件をまじめに取り合うのであれば、残念ながら滝は全く関係ない。絡むなら政所職の清次朗とその父、正現入道である。もちろん菅浦に入る時に、熊野先達が訳の分からない話を持ってきたということをこの二人に伝わるように仕向けたのは仕向けたが、重景は内心、そんな要件なんてどうでもよいと思っていた。面白そうなことが目の前にぶら下がっている。本物か、偽物か、いや、そんなことはどうでもいい。時間はたっぷりあるのだ。さて、どうなぶってやろうか。
そんな考えもあって、どんな鬼女が現れるかと期待していた。ところが、毒気を抜かれた。滝はというと全く迫力がない上、逆に重景を見て驚いているようだった。まるで幽霊でも見たかのように目を剥いている。何に驚いているのだろう。そう思った次の瞬間にはもう、滝の表情は整えられていた。
なんだ? 今の。不自然この上ない。
「いかにも滝じゃ」
その声には、ちょっと貫禄があった。遅ればせながら重景は、それに反発心が沸いた。滝らをなぶってやろうという気概が戻って来たのだ。腰を落ち着かせる滝を待ち、懐から大判の金一枚を炉縁に置く。
男たちが色めきたった。その反応にすかさず重景は、熊野牛王符を広げる。
「一族の男たちもそろっているしちょうど良かった。《文明五年三月十九日の起請文はなかった》の一か条を書いて、皆の名前と血判をくれ」
「文明五年三月十九日?」
そう言葉をなぞった清次郎が滝の表情を伺う。その滝は深くうなずいている。
はて? 日付? そこでなんで引っかかる。普通、起請文をなしにする起請文を書くってとこに疑問が出るんじゃないのか。なんだこいつら。
その一方で腕を組んだ正現入道が目を閉じて言った。「それはできない相談じゃ」
「なんでだ?」と、そいう言われるのが分かっていた重景は不満な表情をつくり、続けた。
「現に諸河と日指は誰からも安堵されている状態ではない。湖北の国人どもの手助けでなんとかもっているんだろ。といっても、さる貴人は天下おおやけの人。あんたらを助けたいのは山々だが、しがらみってものがある。例えば日野裏松家とか、湖北守護京極家とか、比叡山とかだ。あ、もちろんあんたらにも気を掛けているさ。でも、こうもごちゃごちゃしちゃぁ、あっちを立てれば、こっちが立たず、こっちを立てれば、あっちが立たず。これではさるお方がご不憫だ。起請文を守れずに、祟りに会って血を吐いて地獄に落ちてしまう」
清次郎が眉をひそめている。
「そのさる貴人が他のもんを差し置いて諸河と日指の安堵を菅浦惣に約束をしたのだから致し方ないだろ。地獄に落ちるのがいやであれば武力なり財力なり使うんだな」
「だから金一枚持参した!」
清次郎がその言葉を流した。
「だいたい起請文を取り下げる起請文なんて聞いたことがない」
そらきた。話の論点はここなんだよと内心同意しつつ、「さる貴人もいろいろ考えたさ。挙句、この案しかなかったのだそうだ」と押し切る。
正現入道がため息をついた。
「鈴木殿、それは妙案とは思えんが。文明五年と言えば二十年もむかしじゃ。それにその時、おやじは墓の中。文明四年の十一月に骨になった」
死んでいた? それでさっきの日付で引っかかったわけか。
「百歩譲ったとしてそのさる貴人と約束した者がそのよく分からない起請文をたてないといけないのじゃないのか?」と清次郎。
そのさる貴人のことを重景は考えていた。あいつはなぜこんな大事なことを言わなかったのか。その心情が、顔色から読み取られたのだろう。清次郎が畳み掛けてきた。
「あんた、起請文を交わしたのがどこのだれだか主人に聞いてこなかったのか?」
図星だ。が、おれも悪いと思った。起請文は菅浦に乗込む方便で多くを知る必要がないと安直に考えていた。それに金一枚あるのだからなおさらだ。だがそうは言っていられない。
「いや、さる貴人と約束したのは菅浦の惣中と考えられないこともない。惣政所職を世襲するあなたたちなら十分だ」
「誰か分からないのに惣中ってことには出来まい」と正現入道。
おっしゃるとおり。
「しかも内容が内容だ」と清次郎。
あなたたちの言い分がごもっとも。しかし、それを言っちゃぁ話は終わり。はい、はい、金はいらないのね。重景は炉縁に置いた大判の金を懐に仕舞い込んだ。
「別にいやならいいんだ。ただ、十日、いや二十日間はここにいさせてくれ。このままでは帰れないし、あんたらだって気が変わるかもしれない。ましてや起請文を交わした者が出て来るかもしれない」
うまいこと言えたと思った。そのあと、正現入道が、「別にいいにはいいが」といった瞬間も抜け目がなかった。機会を逸することなく、「惣堂は勘弁してくれ」とも言えた。
葛籠尾崎には、頭から背骨のごとく北に伸びる尾根がある。それが諸河と日指を越え、内陸に入ると二又に割れて壁を作っている。その内陸と遮断している尾根が隣惣大浦との境界であり惣堂もそこにあった。どこの惣も原則、部落によそ者を泊めるのを許さない。ゆえによそ者は惣堂と決まっているのだ。
「ここのは特に不便だ。だったらむしろ大浦の惣堂に泊まった方がよっぽどましだ」
男たちは顔を近づけてひそひそと話をした。どうやら目の届くところに置いておいた方が安心だと言っているようだ。
舐められたもんだ。が、いい話の流れになっている。
とは、いうものの、男らが話に夢中で額を寄せる間、滝の視線はというとずっと向けられている。なんだか心を読まれているようで気持ちが悪い。
「よいでしょう」と正現入道が言った。
「ほっとしたぜ。おれにも立場っていうものがある。かっこさえつけさせてもらえれば十分。起請文を無効にする起請文なんて、おれも元々無理があると思っていたんだ。宮仕えはつらいぜ」
そして笑顔を振りまく。それには男たちも唖然としていたが、滝だけは気味悪く相好を崩している。その口が開かれた。
「鈴木様は変わってなさるな」
「そうか」と流したがよく言われる。それは、大抵良くない意味合いであり、あざけりを受けている時に発せられる言葉だった。
滝は構わず続けた。
「笑顔が光っておられる」
? どういう事か。光っている? そんなこと言われたのは初めてだった。褒められたはいいが、腹に一物あるのでなんだかむずがゆい。
滝がさらに言う。
「いかがわしいのに正直なとこともな。起請文のことなぞどうでもいいように見受けられる。他に用があって来られたのじゃな」
このばばぁはあなどれん、喜んで損した。といっても嫌味で言っているように見えない。滝の笑顔に屈託がないのだ。
「どうじゃろう、気が向かないかもしれんが、部落の南端に棚田という若者が住んでいる。棚田殿は惣の者ではないが、惣のことはよく知っている。起請文のことも知っているやもしれん。訪ねてみてはどうかな」
その滝の言葉に、男たちは驚いていた。互い違いに顔を見合わせている。その感じから察するにどうやら言ってはいけないことをこのばばぁが言っているようだ。それに棚田姓。地侍か。よそ者を嫌う百姓がその者を部落に入れて隠している。しかも湖北守護家の紐付きである浅井直種も棚田のことは多分、知らないとみた。起請文をかたって来た以上、方便でも訪ねるのが筋だが、そんなこと抜きにして面白そうだ。大浦の望月殿もこちらが菅浦に入ったことは知っているだろうし、慌てることはない。
鈴木重景は棚田という男に会ってみると決めた。