第2話 熊野先達
「ぐわっ!」と頓狂な声で飛び起き、身構えた。ところが見慣れない光景。
「はて? あ、そうか!って、て」 揺れる足元。
立ったはいいが、小舟の上なのをすっかり忘れていた。「て、落ちるっ!」と慌てて小舟のへりにすがりつく。が、弱り目に祟り目とはこのことをいうのだろう。飛びついた勢いで小舟は大きく傾き、その揺れ戻しから小舟はさらに大きく揺れ、しまいにはへりにある自分の頭をも揺さぶって、こともあろうか二度三度、頭を水中に出し入れさせた。
「なんてこった」
揺れが収まり体を起こすとひんやりとした水滴が首筋から背中に伝ってゆく。「ひやっ!」と慌てて額の滴を手でぬぐう。無常にもそこに北風が通り過ぎていった。
背筋から悪寒が突き上げてくる。ぶるっと体が震えた。
「さぶ!」
久しぶりの京を離れての一人旅だった、だったのに、
「くそぉ、またあの夢か」
うなだれて、頭を抱える。
「十五年も経つのに消えるどころか見るたびにはっきりしてくる」
むくっと頭を挙げて虚空を見つめる。無精髭をジョリジョリとかいた。
「いや、誇張されていってんだろうな、きっと」
灰色の雲間から陽光が斜に差し込んでいる。その中を水鳥の群れが飛んでいた。
「ま、しゃぁないか」と立ち上がって腰に太刀を差す。そして櫓を握ると小舟を北に走らせた。歳のころは二十五六。筋肉の束が透かして見えそうな前腕。細身であるが粘りのある足腰。流れるように動く幅広の肩。鍛え抜かれたのがうかがい知れる。鈴木重景は休むことなく櫓を動かし、やがて竹生島を見た。
薄墨を刷いたような陸地の稜線を後ろに、緑色染の綿のごとくふわっと丸く、青い水面に浮かんでいる。
ふと、水音が立つのに目を向けた。眼前に鵜の群れがあった。時折、羽で水面を叩き波紋を乱す。どの時点からか分からないが、帰巣する川鵜の群れと遭遇し、いつのまにやら逃げる鵜らを追うような格好になっていた。
しかし、鵜らの慌て様、一生懸命さ。害するつもりは毛頭ないのに、鵜らの心情を推し量ると滑稽に思えてしょうがない。笑えてしまう。すると悪戯心が騒ぎ出す。逃げろや逃げろと速度を上げてしまっていた。
それもつかの間、竹生島は棲家なのだろう、鵜らは直進する小舟を離れて右へと遠ざかって行ってしまった。追ってこないのを安心したのか、その悠然としたさまに、鈴木重景は寂寥感というか、風が体を吹き抜けるというか、かくれんぼの最中に逃げられた感じというか、こころを揺さぶられてしまう。
なんだい、なんだい、たかが鳥相手に、と自嘲しつつ右手にある竹生島から目を離し、正面を見た。
山があった。水面からそそり立っている。名は葛籠尾崎。そこは琵琶湖を南に突いた半島で、それは琵琶湖のケツに大口開けてかぶりつく竜をかたどっているという。とはいうものの、そもそも琵琶湖の頭がどっちなのかって話ではあるのだが、取り敢えず京に近い方としておこう。そのかぶりついている竜の大口は入り江である。そして比較的緩やかな傾斜地といえば、頭の尾根とあごの尾根の接点から入り江に広がる部分と喉にあたる部分だけである。一方は住居にすべて取られ、一方は耕地で占められているときいた。
菅浦惣。
板葺屋根が上下左右にひしめ合い、そこから二十五から三十ほど大きな茅葺屋根がぽっこり頭を出している。上に行けば行くほど家屋の数は減り、最も高いところが政所なのだろう。茅葺屋根の大きさが際立っていた。
まさに百姓の英雄、清九郎の城だな。
そう思うとごちゃごちゃしているのがかえって空恐ろしい。加えて護岸や建物の土台のための石垣である。
「されど、そこを攻めるあほもいる」
政所と思しき茅葺屋根から火の手が上がった。そこに人影。一瞬に消えた。
「精を出すねぇ、望月殿」
菅浦は戦闘の最中であった。惣を荒らしているのは十七八人。その風情から足軽稼ぎの食いつめであることが遠目でも分かる。それを惣民が四五人一組で追っている。
舟が進むにつれ状況が細かく掴めた。食いつめは一人二人と切り伏せられて数を減らしていっている。政所の方も鎮火されようとしていた。
噂には聞いていたが、なかなかのものだ。家屋の石垣の上で惣民だろう、四人が弓を引いて構えている。その眼下、石垣の下を食いつめの一人が血相をかいて走っていた。十中八九仕留めるだろうと思っていたが、すべて当てるとは思ってもみなかった。いや、当たるどころか放たれた四本のどれもが食いつめの背中から胸を貫いていた。そこから三段上がったところはというと、惣民が食いつめの手首を切り落としていた。太刀を握った手首が二度三度石垣に撥ね、家屋の後ろに消えていく。
一方で、はて? と思った。袖なし羽織の男が板葺屋根の上によじ登っているのだ。その風体から百姓には見えない。かといって食いつめでもなさそうだ。地侍? 用心棒ってとこか? それが門を落とせと叫ぶ。
出口を塞がれては一巻の終わりと食いつめらが、石垣の間から湖岸沿いの道に飛び出してくる。残っていたのはたった三人である。菅浦の百姓をなめ切っているとしかいいようがない。この辺りでちょっと人に聞けば、菅浦に押し入るのがいかに馬鹿げたことかすぐに分かるというものを。
とはいえ、そこに押し入ろうとそそのかした相手が相手、そういったことを生業とする望月殿では食いつめらばかりを責めるわけにもいかない。その望月はというと、すでに姿をくらましたのだろう、殺された者の中にも、生き残った三人の中にも見当たらない。
一心不乱に走っている食いつめらの目指す方向は、湾曲した入江の西端、竜のあごの先である。そこにはきのこを思わせる不格好な惣門があった。細い支柱に扉なしの簡素な造りではあるが、わら葺屋根はというと異常にでかい。そこを抜けようとしているのだが、細い支柱が倒されてしまう。ドサッとわら葺屋根が落ち、それがそのまま防塁となった。出口を塞がれ立往生となった食いつめらは惣民に取り囲まれてしまう。鈴木重景は思わずうなった。こりゃ、いい。もしかしておれの仕事はないかもしれん。
「いや、待てよ。かえって面倒になるかもしれん」
すでに小舟は、護岸で築かれた石垣のすぐそばまで来ていた。
「それにしても、まいったね」
護岸の西側には船溜まりがあり、そこに階段がある。だが困ったことにそこは、食いつめらが袋叩きにあっている惣門の前でもある。
「ま、しゃぁないか」と舳先の向きを変えた。
舟を護岸に沿って走らせて程なく、いくつもある舟の間に舳先を突っ込ませる。案の定、階段の上には人だかりが出来上がっていた。しかも手に太刀や槍がしっかり握られている。
へへっと笑いを造り、へつらって見せる。
痛い視線を全身に感じた。やっぱり間が悪かったかな。とはいえ、これは想定内と咳払い一つして背筋を伸ばし、うって変わって威厳のある態度を示す。懐より巻物を取り出し、階段上の人だかりに向けてうやうやしく広げる。熊野曼荼羅であった。
「熊野本願中より頂いた正真正銘の本物だ」と右下の花押を指差した。
惣民の反応はいまいちであった。竹生島に祀られる弁才天は江の島、厳島と並び三弁才天と称せられていたし、惣の氏神、保良神社は淳仁天皇を祀っていた。熊野の出る幕はないといいたいのだろう。だがそれも、百も承知。
「別に熊野詣をさそいにきたのではない。このおれが怪しい者でないということを示したまでだ。実はさる貴人に熊野先達として仕えている。んで、そのさる貴人が政所職の清次朗殿に折り入ってお願いしたいことがあるそうだ。それでだ、このおれが適任だということになり、ここによこされた」
貴人といってもどこの誰かも分からないし、お願いって言われてもいいこととは限らない。それを差し引いたとしても、畏れ多いってしぐさをちょっとは見せても損はないはずだ。だのにこの有様。惣民の冷たい視線が変わらないというのはいかがなものか。不遜極まりない。
が、ま、しゃぁないか。また咳払い一つして、熊野曼荼羅を手の平で泳がすように巻き取ると片手に持ち直し、それを左右に振って人払いに使った。信仰は違うといえども菅浦の惣民は信心深いのだろう、瞬く間に道を開けた。結局これが一番効果的な使い方だな。笑みを漏らした鈴木重景は、そこを悠々と進む。
ふと、鳥居と石段が目に入った。石段は鳥居の向こうから山頂に向けて一直線に伸びている。見上げると二つの峰。尾根はこの二つを結んで円弧を描き西に向かっている。竜のあごである。そして斜面は南向き。そこにあるのは間違いない、保良神社。その裏手の間道を行けば峠。菅浦惣へ陸路を使うなら半島西の湖岸沿いか、あるいは保良神社の峠を越えて東側に出た湖畔沿いか。鈴木重景は、湖のずっと南の近江八幡でそう聞いていた。聞いてはいたけど、結局どっちも使わず、一番楽そうな近江八幡からの海路を使った。
不意にドボンと水を叩く音が三つした。惣門で立ち往生した食いつめ三人が湖に投げ込まれたのだろう、目を遣るとやはりそうであった。もがいていたがすぐに水面から姿を消した。
やれやれと思い、目を戻すと出し抜けに、娘が一人、立ちはだかっていた。見たところ十五六か。浅黒の肌に黒目がちな眼の田舎娘であった。
じゃまだってぇの。
その眼の前で巻物を、虫でも払うかのように振ってみせた。ところが娘は動じずに手を差し出す。そして口をへの字に曲げて巻物を凝視していた。どうやら熊野曼荼羅を渡せというのだろう。惣の識者のところへ持って行って、真偽のほどを確かめる腹に違いない。ま、当たり前といえばそうだが、それにしてもこの娘、こまっしゃくれよって。
「これは生娘じゃないと触れられない。残念だったな」
どの惣でも夜這い婚が常識であった。人気のある娘は入れ替わり立ち代わり何人もの男と一夜を共にするという。それで揉めることもざらだと聞いた。
おまえはどうなんだ?
生意気な世間知らずには恥をかかせるにかぎる。が、しかし、なんのことはない。動じるどころか、まったく聞く耳を持っていなかった。巻物をひったくると娘はそれを手に、石垣の狭い階段を上へ上へ登って行く。
手に熊野曼荼羅を失ったためか、娘をからかったためか、鈴木重景は惣民に囲まれて足止めを食らってしまった。