第17話 腕試し
朝、広間に入った。
天井一杯に描かれていた二匹の龍が視界に飛び込んでくる。雲の中をうねり、その視線はこの部屋のどこにいても追ってくる、そんな気味の悪さを感じる。
それにもまして妖しいのは、神棚だ。そこにはまるで馬でも駆るかのように二匹の龍にまたがる鬼の像がある。明らかに猛り狂っている。隆起する筋肉、顔に刻む皺、うねる龍。今にも襲ってきそうだ。
その神棚の前で、不服でしょうがと重景は深々と頭を下げた。招かざる客だということは分かっています。用が済めば早々に消えますのでそれまではどうか御辛抱を。
小鳥のさえずりが聞こえた。昨日、てっきり惣堂に入れられるかと思った。しかし松に連れてこられたのはこの稽古場である。森奥深くの屋敷がそうであった。座禅を組んだ重景は心を、なにも定めず去来するに任せた。気息を整えていく。やがて体の感覚が失われ、意識世界を目で、耳で、鼻で、肌で感じられるようになっていく。
闇に輝く一筋の光。
それが二匹の龍にまたがり天駆ける鬼を象る。
……金神。
神棚にある像。凶神といわれている。異質にして凶悪。その金神は金星の象徴。
眼前に山谷の風景が広がる。それは熊野の記憶。黒く染まる稜線とそれに沿って真っ赤に燃える空。そして藍色の天空。そこに一点、輝く星。
……明星。
宵の明星を太白、明けの明星を啓明という。鬼幽斎は太白。この稽古場を見てもう間違いない。落合はきっとその一方の啓明。その啓明が過去、太白を封印したという。推測だが、その時、啓明もこの地に移り自らも封印した。だから忍んで暮らしている。その啓明は今度も太白を封印するというのだろうか?
神護寺での得意満面な鬼幽斎。
師父、あなたはどうするんだ? 妖しい者を集めて何をしようとしているのか? 次々にその妖しい顔が浮かんでは消える。
呪師走りの高悦。
軽技の鷲太ら三兄弟。
力士の双子。
興福寺の妙塵居士。
声聞師の蛟太夫。
刀禁呪使いの安楽太夫。
幸若舞の祥太夫と福太夫。
あなたのことだ。もう新たに十二鴉を補任して一人大鴉に収まっているのだろう。それでもおれはその師父を慕っている。なぜ、慕っているのだろう。あなたがおれを育ててくれたためか?
鬼幽斎の優しい笑顔。
嘘ではない。あれは本心から滲み出た表情。優しくて強くて正義感があった。だからこそ、誰もがあなたを尊敬していた。当然、おれもだ。そのあなたがどうして堕ちた?
熊野で襲われた時の鬼幽斎の形相、悪鬼の様である。
まさに『太白精典』に魅入られていた。そうさせたのがおれで、おれはその罪の意識にさいなまれているだけじゃないのか?
松の体から現れた光芒。
あれがおれの体内に入っていて、長年にわたりおれを苦しませていた。鬼幽斎がおれを恐れているためだと落合らは言った。おれのどこが信用おけないというのか。あるいはおれのことを、殺しても飽き足らないとあなたは思っていたのか。
嘔吐する自身。
でもあなたを憎むことが出来ない。それはあなたを慕っていたということでなく、やはり罪の意識があるということなのか? あなたを救いたい。そしてその方法は一つ。あなたは世間から遠ざかるべきなのだ。このままでは間違いなく破滅する。いや、もしかしてあなたは放っておいても身を崩してしまうのではないか? そしてその時こそあなたを救う機会。そうだ。問題はこちらのほうにあるのかもしれない。あなたの一挙一投足にこちらが右往左往しなければいい。落合もそう思っているのかもしれない。そう、やつは何も手を下さないつもりなのだ。では落合はなぜ、修法対決を見に来たんだ? 鬼幽斎の『太白精典』がどの程度かを確かめるためだと言っていた。
神護寺の演舞台に落合の姿。歯ぎしりしているのだろう、顎の筋肉をピクつかせている。
やはり落合は師父を殺めるつもりなんだ。なら、おれは落合と戦わなければならない。それに望月殿の仇でもあるんだ。
望月千早の腹に食い込んでゆく太刀。刃に血が滴っている。
政元だっていつ塁が及ぶか分からない。政元といえば、あいつはとんでもない。
「おれの手腕! 見ろ! 重景!」と雄叫びを上げ、立ち上がる政元。「どうだ! 驚天動地だろ!」
今度のことで懲りていてくれればいいがそうもいかないだろう。人には性分というものがある。あいつは蛇を見たさに藪をわざわざ突く性質の男だ。
土下座する政元。「そうゆうことなら、鈴木に始末させる。山本鬼幽斎と重景は師弟だし、こいつしかもう事を収められん」
政元。おまえは実際、わずらわしい。菅浦もだいぶ迷惑した。大浦は迷惑を通り越して崩壊してしまった。滝のばあさんは息子の命と惣を引き換えにしたと言っていた。百姓らは惣を守るのに必死なんだ。それを政元、お前は酷だぜ。大浦を至極簡単につぶしてしまった。その片棒を担ぐおれは最悪な男だ。それを滝のばあさん、まっとうになれっていう。
目を血走らせている滝。その指先がわなわな震えている。「なにをくすぶっているんじゃ! 鈴木殿とてどこぞの惣の地侍か国人であろう! 紀州は古くから寺社がある! われらと状況は変わらんじゃろう! そんなことは止めて一刻も早く惣のために働きなさい! 鈴木殿ならそれができるはずじゃ!」
えらい剣幕だったが、体の方は大丈夫なのか。もう歳だしいつ逝ってもおかしくない。そういえばおれを清九郎と似ているとも言っていた。実際は清九郎の身代わりになった息子の方だとおれは睨んでいるがな。ま、落合はというと滝の言葉を信用すると言っていたし、事実、落合はおれの神気を抜いてくれてここへも連れて来た。そこんところが面白いんだが、滝はともかく落合から見て、おれってほんとに清九郎に似ているのか。ほんと笑える。おれはろくでなしだぜ。師父にもそう言われてきた。自他ともに認めるってやつだ。もしかして政元とはおあつらえ向きなのかもしれない。類は友を呼ぶというし。
三十一年前の悲劇を話し終えた滝。目を潤ませている。
滝のばあさん、かわいそうにな。清はどう思ってんだろう。後妻だった滝の一人息子が死んだのだから血はつながってはないのは明白だけれど、清にしてみればやはり祖母だ。心配なんだろうな。っていうか、それにしても清の刀技。なぞだ。いつ、あれほどのものを身に着けたのか?
京の土倉で敵を切った清。太刀筋は緩慢であった。
清が歌舞う。そこに枯葉がふわりふらりと落ちてくる。
緩慢? いや、優美な動きだった。太刀を振る清と舞っている清と重なっていく。
どうもにも解せない。それを言うなら松もだ。太刀を佩かず二尺の棒を腰に刺している。『粋調合気』というらしいが……。にしても変わった娘だ。おれのことを一体どう思ってるんだろう。詰まる所、敵だぜ。それなのにあの笑顔。
松の大きな眼の目じりが下がって半輪になる。
心底、楽しそうだな、お前は。世の中っていうもんは悲しみや憎しみ、それに怒りに溢れているんだぜ。そんな笑顔を見てるとおれまで能天気になってしまうじゃないか。それにお前は子供に毛が生えたような歳だから分からないだろうが、世の中に絶対ってものはないんだぜ。おれには落合を倒せないとでも思っているのか。もし、もしだ。おれが落合を、お前の兄を殺したらお前はどうする。おれはこの惣をとんずらだが、お前は変わってしまうのだろうな。そこら辺にいる普通の人間達のようにおれのことを一生恨み、そして仇として追ってくるのだろうよ。
はたと瞑想を止めた。耳を澄ます。
外で人の声がする。女の声と男数人の騒ぐ声であった。それが近づいてくる。やがて声の響く感じが変わった。屋敷に入ったようだ。程なく稽古場の板戸が一尺程開かれ、その間から松の顔が現れた。にっこりとしている。
「おはよう」
松の後ろに数人男が控えているようだが姿は見えない。
「おはよう」と重景は戸惑いつつ答える。
松が戸の狭い間から風呂敷に包んだ四角い箱と瓶子を見せ、かわいく目配せをし、顔を引っ込めピシャッと戸を閉めた。松の足音が奥の座敷に向かう。男たちの足音もバタバタとそれを追っていた。松の足音と歩調が合っていない。どうも男たちは松の前と後ろを行ったり来たりしているようだ。時折聞こえる声も押さえてはいるが荒い。それが奥の座敷に行っても聞こえてくる。おれが寝食している部屋だ。とはいえ大体は察しがつく。昨日は松と二人っきりであった。初め松は屋敷を案内するとすぐ帰ったが、その後がいけない。夕方に一人で食べ物と酒を持ってきた。それでたわいもない話を一刻程しゃべくっていった。
やがて松らの足音が稽古場に戻ってくる。松がまた、戸を小さく引き顔を出した。
「お酒が減ってないのね。とりあえず今日持ってきたのも置いといたから」
顔がにやにやしている。意味ありげな含み笑いだ。感じが悪い。おれだって飲みたくない時もある。ってそこはおいといてだ、松にはちゃんと言わなければならん。重景は、松の顔だけ出している戸を掴んで、バンと勢いよく開けた。
五人、松と同じ年頃の男らが、むっとして突っ立っていた。
「入れ」
松は、えへっと舌をだし、稽古場に座る。
「あんたらもだ」
五人もすごすご中に入って座った。
なぜだか、松はうきうきしている。調子が狂う。だがそうそう松の調子に合わせてはいられない。強い口調で言う。
「あんたら、松への心配は結構だし」
若者五人の表情が敵意満面だ。よっぱどムカついているらしい。
「松もわざわざ来ることもない。用がある時はおれの方から行く」
松は正座した膝の上で腕をつっかえ棒のようにして上体をギコギコ前後に揺すっている。
まったく聞いていない!
どうしたものかと重景は腕を組んだ。
他の五人はというと、こっちはこっちで肘をぶつけ合っている。
絶句した。
勝手にしろとばかりにしばらく放置しておいたが、このままでは埒が明かないと意を決したのだろう、五人のうち、一人が言った。
「あんた、あの不動の術。おれにやってみてくれないか?」
そういや、落合のやつ、『不動金縛り』は『粋調合気』を極めれば利かないとか言っていたな。こいつらも太刀を佩かず二尺の棒を腰に指している。『粋調合気』を使うんだな。それでか。腕試ししようというんだな? んっ。いや、待てよ。こいつら、松に乗せられたな。どうせこいつら、松に鈴木のところへ行くなとか、上からものを言ったのであろう。それで松に、私より弱いくせにとか何とか言われたに違いない。かわいそうに。だが笑える。ちょっと付き合ってやるか。




