第16話 『不動金縛り』
鈴鹿山脈を越え、伊勢湾を眼下に望む。折り重なる山々。そしてその向こうに平地。大河や耕地、雑木林、さらにその先には真っ青な海が広がっていた。鈴木重景と落合ら三人は沢沿いを下り、やがて斜面に幾つもの茅葺き屋根のかたまりを見た。惣は、道程であった沢と別の沢の合流点の内側にあり、その一方の沢沿いには細く長く敷かれた棚田や段々畑、それに材木置場があった。
甲賀者の仇を討ちたいのだろ? その言葉につられ京を離れたはいいが、伊勢まで来てしまっていた。不思議な気分だった。仇はそばにいて、いつでも手を出せる。ところが好奇心というものもある。金神とはなにか。その名で何となく想像は出来るのだが、実際『太白精典』とはどういう術か、『啓明祓太刀』となにが違うのか。さらには落合と熊野三山はどう結びついているというのか。
殺された望月千早殿を考えれば裏切りと取れようが、いつでも手を出せると思うと好奇心が勝ってしまう。ましてや自分の体から金神が抜かれたのだ。あの光芒、蛍のような術でも、吐き気は催さないだろう。万全を期して戦える。落合の物言いから想像するに、落合自身もそれを望んでいて、あえて金神を抜いたはずだ。が、それも手放しで喜んではいられない。馬鹿にされているように気もするし、それ以上に恩を感じてしまっている。落合はというと、おれのそういう甘っちょろい性格も見抜いてしまっているのだろう。
ともかく、どうのこうの理屈を並べたとしても早い話、おれは金神の秘密とか、望月千早殿の仇とか、餌を目の前にぶら下げられた馬みたいなもんだった。何日もかけて落合ら三人と伊勢くんだりまでの馴れ合いの旅。道中、金神とか何も話してくれてなかった。それでさらに疑問が沸く。なぜ、おれは落合の惣まで連れてこられたのか、と。果し合いなら別にどこでもいいところはいっくらでもあるのだ。すでに落合の惣に入っていて、惣の者らはまだ、おれ達の存在に気づいてない。遠目に、材木置き場で四、五人の男たちが談笑しているのが分かるし、ほんの目の前を腰の曲がった婆さんが杖を突いてひょこひょこ歩いている。ちょっと向こうのじいさんも庭で唐鋤を片手になにやら馬に一生懸命話しかけている。子供たちなんて、何人か集まってじゃれ合っている。
真っ先に出迎えたのは、犬たちだった。数匹が激しく尻尾を振って猛烈に向かってくる。松がしゃがんで犬たちの熱烈な歓迎に答え、案の定、べろべろにされている。どの庭にも柿か枇杷か果実のなる木が植えられていた。その足元には何羽もの鶏が徘徊している。家屋も大きさはどれをとっても変わりがない。政所はどこにあるのか? 寺風な建家を除けば一段と大きな家屋もなければ武家屋敷風なのもない。惣が山入権を持ちその利益を均等に配布しているのだろう。突出した者が見当たらない。それでもって山入権を争う惣が別にあるわけでもない。視界に広がる山々。木材は無限にあると言っていい。
「あれま、帰ってきなさった」
やっと気づいたのか、腰の曲がった婆さんが目一杯体を起こし、こっちを見ている。
馬の背に唐鋤を載せているじいさんも固まっている。それで、遊んでいた子供たちも気付いたのだろう、手を止め、ひそひそと話し合ったかと思うと一転、奇声を上げて群がって来た。
「この人がお嫁さんか?」
ガキ大将らしき子供が代表してそう言った。他の子供たちが清をまじまじと見ている。
松が、「そうよ」と言って、ふふふと笑う。そして興奮する子供たちを置いといて、弾けたように走って行って、
「兄様がお嫁さんを連れて戻ったよ」と呼ばわって回る。
皆、この瞬間を心待ちにしていたのだろう、瞬く間に人が集まった。清に群がり、
「清九郎殿にはお世話になった」
「清九郎殿の面影がある」などと口々にいう。
かくしてその黒山の人だかりに向かって、清は丁寧に挨拶をした。
「ささ、こちらへ」
老人の一人が清を招いた。清と落合がその老人の先導で先に進む。皆が二人を取り巻いて付いて行く。
正直、重景はここが落合の惣かと拍子抜けしていた。政元の話によると、先代京兆家勝元ほどの男が落合清澄を鬼だと恐れたというし、滝の話だと手練れが揃っているかのようであった。野盗か、山賊かの部落を想像していたし、そうでなくとも剣を振るうとか武を競うとか荒々しい声があちこちから聞こえてくるような惣だと思っていた。重景が育った御鴉城はそうであったし、城は言い過ぎとしても、少なくとも菅浦のように物々しいさはあるはず。この惣がそうでないのは隠れ里であるからか。いや、熊野にも隠れ里はいくらでもある。幕府の管領家畠山の内紛もあってどれもすさんでいた。それから察するに、本格的な戦火がまだ及んでないこともあろうが多分、山間部を出た平地の国人領主に大切されているに違いない。といっても世の中は偽善に溢れている。特別な待遇には特別な対価。一体どういった約束を交されか知る由もないが、落合がそれに関わっているのは間違いない。
「あなたはわたしが案内するわ」
はっとした。いきなり松に手を取られた。
その様子を見とがめた老人の一人が、
「松、この方は?」と寄って来た。すると前方を進む皆が立ち止まり、振り返ってじろじろ見てくる。嫌な感じだ。いつものように作り笑いをして、へつらって見せた。
やはり反応はいまいちである。どの目もしらけている。松が肩を叩いた。
「ちゃんとしな、重景」
あ、つい癖で。重景は丁寧に挨拶し、名乗った。やはり耳が早い。師父の噂がもう届いているようだ。あるいは熊野鴉党が『啓明祓太刀』の使い手を探しているのも知っているのかもしれない。熊野鴉党十二鴉筆頭という言葉で騒然となった。白髭の老人が、
「清澄殿、これはどういうことか?」と問いただす。えらい剣幕だ。どうやらこの男、惣の宿老なのか、ともかく顔役なのだろう。そして白髭の老人の言う清澄という名前。それは政元から聞かされた。祖父か親父か分からないが、先代京兆家勝元が会った人物と同じである。察するに代々その名が世襲されているのだろう。そしてこの惣で一人侍姿の落合は、沙汰人か地侍格というところか。その落合が平然と答えた。
「鈴木殿は文覚様の嫡流だ。粗相は許さん」
なにぃー、って顔をした白髪の老人。それが言った。
「文覚様の名を出せば許されると思っているのか? やいばの修験者なら何人もいる。嫡流かどうかなんて誰も分からん」
「今にわかるさ」
「そんないい加減な返答で掟を破るのを許せると思うか?」
「もう連れてきてしまっている。それとも何か。この男をここで殺すのか?」
惣民の空気が変わった。この張り詰めた緊張感。やはりどいつもこいつも一筋縄ではいかない。肌に触れる空気の感触から分かる。菅浦のもんらも強かったがこの者らはそれとは桁が違う。
「鈴木、あれを見せてやれ」
あれとは多分、大浦で戦った時に使った術だろう。やいばは珍しくもなんともないみたいなことを老人に言われて、この期に及んでやいばもへったくりもない。ああ、わかったよ、もう引き返せないしな。剣指を造った。
「この白髭のじいさんにかけてみよ」
口うるさい傍らの老人を落合が指差した。そしてその老人にも声を掛ける。
「じい、絶対に動くなよ。半端なことをするとかえって危ないからな」
白髭の老人は、ふふんと余裕綽々である。
じゃあいくよ。気を発散させ、剣指をその老人に向ける。気が体を離れ、老人に向かう。
「かーっ」 気合いの声もろとも老人の一点に気が凝縮。
!
老人が固まった。その白い髭を落合が摘んで抜く。まったく動かない。黒山からどよめきが起こった。
落合が言った。
「鈴木、これはなんという術だ?」
「不動金縛りと名付けた」
子供たちが固まった老人をいじくって笑っている。固まっている余裕綽々な顔がかえって面白いようだ。一方で大人たちは目を剥いていた。松も唖然としていた。
「鈴木、解いてやれ」
剣指を切った。白髭の老人が動く。
「こらぁ! 悪がきども!」
蜘蛛の子を散らす子供たち。松が笑っている。
感心しきりに落合が言う。
「不動明王から取ったか、いい名だ。文覚様も喜んでいらっしゃるだろう。みんな、これこそ文覚様が目指した術でないのではないか? いや、文覚様はその使い手であったかもしれぬ」
場が騒然とした。
「じゃが!」 さっきまで固まっていた老人が口を挟んだ。
「じいよ。口うるさいのもいいがもう少し修行に力を入れなければならんな」
「どういうことだ!」
「たぶん、鈴木の術は自身の気で相手の気を抑え込み、その体の動きをも封じる、そんな術だ。されど、『粋調合気』の奥儀を極めればそれなぞ取るに足らん」
老人がムッとして口をつぐんでいる。頭の中では京で襲撃されたのが思い返される。あの時、松が不思議な術を使った。太刀を振り下ろしてきた相手は己の脛を切っていた。それがたぶん『粋調合気』なのだろう。そして皆、松と同じように二尺の棒を腰に指している。
「じいよ、そう怒るな。実はな、もう二つ、鈴木を連れて来たことに理由がある。おれの金神がざわめくのだ。祖父の姿を借りて夢に現れ、この男を導けという。それと滝殿だ。清九郎殿を追善する念仏の日に滝殿は言ったんだ。この鈴木を清九郎殿と似ていると。この二つでおれは考えを改めた」
皆に落合の中の金神のことなぞ分かるはずもない。口から出任せということもあり得る。ところが清九郎と聞けば話は違った。清九郎は湖面を埋め尽くす軍勢の真っただ中を、息子を連行しようとも堂々と小舟一つ走らせた男である。このことは後で知ったのだが、それをその目で見たものが何人も生き残っているという。彼らは皆、惣の勇者で、失礼なことをしてしまったのだが、白髭の老人もその一人であったらしい。彼らには清九郎の雄姿が目に焼き付いているのだ。物語にもなっていよう。滝殿の言葉ならと、重景の来訪に異論を唱える者はもういなかった。
松が傍らに寄って来た。そして松の指先が手に当たる感触。どきりとした。
「さ、重景。行こ」
ぐっと、松に手を握られる。それに松の笑顔。大きな目を半輪にして笑っている。どうも調子が狂う。いつものように悪ふざけとか憎まれ口とかが出ない。
それにしても、自分の手に比べて松の手がなんとも小さいことか。木綿の平織紐が自分の手に結ばれているようにも見える。松が進んだ。重景はというと、松に引っ張られるままその小さな背に従った。




