第15話 経蔵
なにを直すのか? 傷もなければ病気もない。吐くのはこころの問題だ。戸惑いながらも重景は、松の前に座った。
「反対を向いて」
松が手をクルっと回す。
素直に従った。松に背を向ける。その背に松の手が当てられるのを感じた。松の手の温もり。
「気を発して」
気もそぞろだったが、あっ、そうだったと思い直した。発する気の圧力には自信がある。なんたっておれは『やいばの修験者』だ。松を驚かせてやろう。妙なところで虚栄心が沸いた。
一気に、気を開放する。
ところがそれを松がどんどん吸い込んでいく。気力を失いかけたとき、背中から松の「入った」との声である。
「鈴木、もういいぞ」
そう言って傍らにしゃがんだ落合が、「どいてくれ」とおれに催促してくる。
なにがなんだか分からず言われた通りに席をずらすと、体が軽くなったのが分かった。目に見える世界も変わったようにも感じる。
「さて、問題はおれの金神が受け入れてくれるかどうか、だが」
今度は落合が向かい合う形で松の前に座った。松の顔色がこころなしか悪いように思える。その松に落合が手をかざす。すると松の胸から米粒大の光芒が浮き出てきた。それが落合の手の平に吸い込まれていく。その間、いつもの吐き気も不快感もなかった。
「どうやら今回は、大人しく受け入れてくれたようだ」
松が大きくうなずいた。ほっとした落合が、言った。
「鈴木、おまえは鬼幽斎に攻撃されたことがあるだろう。その時、鬼幽斎はほんの微量、おまえの体に己の金神を残しておいたようだ。悪い夢にうなされていただろ。寝込んでいた時、見てたよ。吐くのもそうだ。鬼幽斎のやおれのに反応しておまえを苦しめていたんだよ。おれはそれを大浦で知った。で、おまえを倒し助けた時に、それを抜いてやろうとしたんだ。小さすぎることもあったが、おまえの気が邪魔をする。なによりおれの金神がおまえのを受け入れようとしていなかったしな、それでふと思ったんだ。取り敢えずこのままにしておこうってな。おれの金神もそれを望んでいるようだったし、実際おまえは信用置けなかったしな。それで今回はやり方を変えた。おまえの気ごと松に入れたんだ。われらは子供の頃からそういう鍛錬を積んでいる。金神使いとなったおれには人の気を入れることはもう叶わぬ。それで松に頼んだ。こう見えても松はおれ以上に才があるんだよ」
金神使い? 落合と師父鬼幽斎は金神を使う。その一方で『啓明祓太刀』と『太白精典』は正邪、相反している。そしておれの中にもその金神がいた。
「もう、苦しまないのか。おれは」
しかし、落合の話ぶりから言えば、松に入った金神がもし出なかったとしたなら松は一体どうなっていたというのか。
「ああ。それにしても山本鬼幽斎はおまえをよっぽど恐れたんだな」
そう落合が言うと、松がくすくす笑った。
清も笑顔を見せている。
ちょっと心外であった。こう見えても十二鴉筆頭なんだ。とはいっても気分がいいためか、二人の笑顔につられて笑いそうになる。
「さ、行くぞ」
落合が現実に引き戻した。去って行った十二鴉の男が言った。伝説の『啓明祓太刀』を探すと。落合らは世に出ない。つまり追われる立場になったのだ。当然、姿を消すのだろう。言い換えれば、鬼幽斎のことは完全におれに預けられた。金神の苦しみから解き放ってくれたのがその証拠なのだ。
だが、がっかりはしていない。そもそも師父鬼幽斎の問題は熊野で解決せねばならない。それを落合の助けにすがろうとしたのが間違いであった。それでも恥を覚悟でどうしても知りたい。二度と会えなくなるのだ。
「まってくれ。聞かしてくれ。おれを苦しめた金神とはなんなんだ?」
「聞きたいか? それはお前次第だ。ついてこい」
ここで分かれると思い込んでいた。落合の言葉に戸惑いを隠せない。
「甲賀者の仇を討ちたいのだろ? あの後、菅浦に行ったろ。逃げずにな」
驚いた。挑発的な物言いもそうだが、落合は大浦で悪党らにおれを預けた後、ずっとおれを張っていたんだ。
だが、よくよく考えればそれは至極道理。おれの体の中に居てはならないはずの金神が居て、それはどうみても、師父が弟子に注入したものだ。しかもその弟子が注入された金神で苦しんでいるにもかかわらず、その原因を作った師父本人に放置さてている。不思議と言えば不思議な話だ。いきさつも気になっただろうし、しかも色々事情があったにせよ、それを抜いてやろうにも抜けなかった。落合としてはそのまま放置するわけもいかず、おれが望月千早殿の仇と落合を探し回るように、落合もおれを見失わないように里に帰らず追跡に努めていた。
そう考えると滝と二人であったあの夜、落合は闇に潜んでおれの様子を窺っていたのかもしれない。話は聞いていたろうし、もし滝に手を出していたならどうなっていたのか。その落合が続けた。
「鬼幽斎うんぬんの前に、おまえは仇さえも取れていないんだ。相手してやるよ。さぁ、行くぞ」
京、細川邸。その奥深くに間口三間、屋根が宝形造の建家があった。経蔵である。そこに細川京兆家政元が篭っていた。家人らはその経蔵の廻りを落ち着きなく、あっちこっちへ行き来している。政元に邪魔をするなと命じられていた。そうは言われてもどうしても政元に裁決をあおがないといけない案件がある。そしてそれがそうであればあるほど天下国家に係わる。神護寺から通算するとその準備を含め十日間、まったく手つかずだった。それからさらに経蔵に篭り、姿を現さない。これ以上、滞らせる訳にはいかないのだ。それだけでない。なによりも政元の体を気遣っていた。政元は過去、経蔵から出てから何日も寝込んだことがある。一度や二度ではない。それが数えきれない、何度でも、である。どれも修法修行が原因であった。
その政元が経蔵から姿を現した。篭ってから六日経っていた。家中は騒ぎとなる。それはいい意味である。今度の政元は予想に反して、晴れやかな表情をしていた。血色も良く、英気に満ちているようだ。全身から湯気が立っている。
家人らのだれもが胸をなでおろした。神護寺で感化され急にまた、修法修行をやっているのかと恐れていた。今回の引き篭りは秘蔵の書物を読み漁っていただけであろう。そしてその表情から何か答えを見つけたに違いない。もう当分は引き篭らない。そう思って家人らは喜びのあまり政元にすがりついた。
だが、家人らは知らない。神通力、修法、呪法、方術、妖術、神術、そのあまたな術において政元は答え、いや、真の答えを未だかつて見出せなかったことを。そして篭った経蔵から英気に満ちて出できたのは八歳の時の一度きり、応仁の乱を終結させる直前だったということを。
「時は熟せり」
政元が遠い視線でそうつぶやいた。
家人らはあまり喜びで騒ぎ立てたため、その声を聞き洩らす。発した言葉がなにか大切なことであったらそれは大問題だ。「御舘様?」と聞き返す。ところが政元の口からもう言葉が出ることはなかった。家人らは戸惑って顔を見合わせる。そして政元の顔をまじまじと見た。その表情は目が見開き、口角が上がって歯を剥き出していた。




