第1話 悪夢
「はぁ、はぁ、はぁ」 高鳴る鼓動。
「はぁ、はぁ、はぁ」 疾走している。
一刻も早く知らせたい。
「大鴉! 大鴉!」
大木の幹が次から次へと迫りくる。
「大鴉! 大鴉!」
間断なくそそり立つブナの木。それを繋ぐ葛の蔓。絶え間なく何かに接触し、はからずも打ち身や切傷が重ねられていく。
「大鴉! 大鴉!」
苔に覆われた岩々。生茂る熊笹や大型のシダ。地表を網目に走る大木の根。子供の身体ではきつかった。難険なる大地。何度も足を取られそうになる。
「大鴉! 大鴉!」
どれくらい森を駆け回ったのだろうか。空が赤く染まり、足元から闇が迫ってきていた。
「お見せしたいのです」
中腰に屈み、膝の上に手を置く。どこにいらっしゃるのか、大鴉、いや、師父。あえぐ上体をなんとか腕で支えている。
「凄いことなのです」
ままならない胸の鼓動は走り疲れた訳でない。師父からの言葉、それが欲しかった。うつむきざまで笑顔をこらえる。よくやったと師父に頭を撫でられている自分を想像していた。
「大鴉、大鴉。お出ましを!」
両手を掲げ、茜に染まる虚空に叫ぶ。
「大鴉! いや、師父よ! ぜひとも、ぜひともお見せしたいものが!」
一瞬、宙に影が走った。
次の瞬間、その影は目と鼻の先にあった。それがいきなり掌手を飛ばしてきた。逃げられなかった、いや、予想だにしなかったのかもしれない。不意に受けた胸への衝撃、もんどりうって倒れる。
激痛。
それだけでない。吐き気に襲われた。地で体をよじり身もだえする。それでも起き上がろうと無我夢中に這いつくばった。ふと、眼前に影の足。
こ、殺される!
恐る恐る見上げた。
真っ赤な空がぽっかりと人型に切り抜かれている。実在していたはずの、打撃を加えてきたはずの、その人影は切り絵の破片の如くどこかに消え失せ、そこにぽっかり穴が開いていた。恐ろしいことに開いたそこは奈落の暗黒。
現世は冥府の中に浮いているとでもいうのだろうか。途端、猛烈な痛み、極度の不快感、凄まじい恐怖が同時に押し寄せてきた。それが体内で溶け合い煮えたぎり一気に膨張、五臓六腑では収まりつかず、どっと出口に向かう。喉を駆け上がってきた燃えるような液体に逆らうことも出来ず、一挙に吐き出す。一面が鮮血に染まった。
吐血。
もう生きてはいられない。
すると痛みも不快感も恐怖も消えた。果たして視界が狭まり、やがて全てが真っ暗になった。
目を覚ました。
天井の板目がぼやけて見える。
頭がうつろで何が起こったか今一つ掴めない。
ふと、障子の向こうで声がする。大人たちがひそひそ話をしていた。
「痛めつけたのはきっと大鴉の山本鬼幽斎さまだろうな。ご自分が十年かかるところを鈴木殿は一年で成し遂げる。衝撃ってもんじゃない。それを通り越して憎んだらしいぜ。今回のことだって、とうとうやっちまったかって噂になっている」
「いや、それは間違いだ。今回が初めてじゃない。ずっと前に鈴木殿が修行中、滝壺に落ちたことがあったろ。あの時、助けるのを躊躇していた。実際にこの目で見たから間違いない」
意識の焦点が、拒む力をものともせず強い力で絞られてゆく。
声をのんだ。
茜空を切り抜ぬいた暗黒。そこに山本鬼幽斎の姿が浮かび上がった。身悶えしている様子を観察しているのだろうか、鬼幽斎はしばらく動かなかった。それがおもむろに手の平を向けてきた。とどめを刺そうというのだろうか。いや、違う。手の平は、こっちに向けてかざされている。
ふと、気付いた。どういうわけか、必死に起き上がろうとしている自分の体から光芒が立っているのを。
どうにも理解できなかった。それはあまりに妖しく、まがまがしい気なのだ。
違う。
これはわしのじゃない。だが、戸惑う間もなく、鬼幽斎の手の平にそれは渦を巻くように吸い上げられていった。
記憶が戻った。震えが止まらない。
目に焼き付いた鬼幽斎の表情。それは信じられないものであった。
鬼幽斎は快感なのだろうか。それとも苦々しいのだろうか。吊り上った眼。小刻みに動くこめかみ。隆起した頬肉。むき出した白い歯。しわをうねらせた顎の肉。
まるで悪鬼のようであった。