第3章
1
6月も半ばをすぎた日曜日。
昨日の雨とはうってかわり、からりと青空が広がった。
「二日連続で来てもらって悪いわね。……最近、調子どう?」正面に座っている茉由理が尋ねる。
「まぁ、ぼちぼち……」緑茶を一口含んで、英里佳が答えた。
昨日、打ち合わせが終わった後、茉由理に耳うちされたのだ。日曜日、ギャラリーに来てほしい、と。怪訝に思いながらも、ギャラリーMにやってきた。
「そう? 最近、なんか浮かない表情をしていたから気になっていたんだけど」茉由理はそう言うと、英里佳の様子を伺うように、見つめた。
何も言わない英里佳に、
「サトカさん、良かったら一緒にお昼、食べにいかない? いろいろ話したい事もあるし」茉由理は言う。
「は、はい……」
(話したい事ってなんだろう?)そう思いながらも、茉由理の誘いに英里佳はおずおずと頷いた。茉由理と一緒に、ギャラリーを後にした。
2
梅雨の合間とも思えぬ日差しが容赦なく照りつける。
茉由理が、黒いレース地の日傘をさして歩いている。暑苦しさを人に感じさせない佇まい。
(茉由理さんって、一体何歳なんだろう?)英里佳はちらりと茉由理を見ながらそう思う。
十代半ばの子どもがいるくらいだから、きっと英里佳よりずっと年上なのは確実だ。
(でも、あんな大きな子どもがいる年齢にはとても見えないんだよね……)いろいろ考えていたら、茉由理と目が合ってしまった。
どうしたの、と聞かれ、
「す、すみません!」英里佳は目をそらす。
ギャラリーから歩いて二十分程のところのカフェに入った。
木目調を活かした落ち着いた内装。茉由理の行きつけのお店らしい。
「日替わりランチ、飲み物はホットコーヒーで」オーダーを取りにきた店員に、茉由理が伝える。
「お飲み物はいつお持ちしましょうか?」店員が聞くと、
「食後でお願いします」にこやかに応えた。
何を頼んだらいいか分からなかったので、英里佳も同じものを頼んだ。店員が、メニューブックを下げていく。
店員が退いたのを見計らって、茉由理は口を開いた。
「……まだ、書きたい事は見つからない?」
問われて英里佳は、
「……見つからないっていうか、何を書いたらいいのか、分からないんです」ボソボソと言う。
「何でもいいのよ」笑いながら茉由理は言う。
「何でも……ですか」そう言って口ごもる。何でもあり、が一番困る。
「いい? 難しく考えちゃダメ」そう言って、英里佳の目をジッと見つめる。
「アカリの作品、カードを選んでてわくわくしてこなかった? その時の気持ちを思い出して」
茉由理は言う。
確かにカードを選んでいる時は、楽しかった。英里佳はそう思う。
でも、作品を創らないと考えると途端に何も浮かばない。
まるで、扉が頭の中にあるようだと英里佳は思う。何年も放ったらかしにされていて、朽ち果てた扉。鍵もかかっていてどうやったら開くのか、見当もつかない。
「日替わりランチセットお持ちしました」唐突に声をかけられて、英里佳は我に返った。
茉由理が店員に、お礼を言う。
「とりあえず食べましょうか」
茉由理がナイフとフォークを英里佳に渡すと、
「ありがとうございます」英里佳はぺこりと頭を下げて受け取る。運ばれてきたのは、おろしハンバーグがメインのプレートランチだ。さっぱりしたポン酢とジューシーなハンバーグが絶妙だ。
美味しくて、ただでさえ少ない口数がさらに減ってしまう。
英里佳は夢中でランチを平らげた。
「ふふっ、美味しいでしょ? ここ、私のイチオシの店なのよ」自慢げに茉由理は言う。
流行っちゃったらゆっくりできなくなるからあまり教えたくはないだけどね、と茉由理は苦笑を浮かべて付けくわえた。
食後のコーヒーも来て、一息ついた頃、
「……ちょっと、昔の話をしようか」
茉由理は唐突に話を切りだした。
「昔の話、ですか?」
一体、なんの話がはじまるんだろう?
英里佳の疑問をよそに、茉由理は語りはじめた。
「高校3年の時かな。親にさ、料亭に連れていかれたの。とても高そうな」
いつもと違う様子の茉由理の言葉に、英里佳は戸惑いながらも耳を傾けた。
「料亭では二人の男の人がいたわ。おじいさんと、20代ぐらいの若い男」そこで言葉を切り、ため息をつく。
「その若い男が、啓の父親よ」
さらりと言った茉由理の言葉に、英里佳は息を呑んだ。
「ぶっちゃけお見合いだったのよね、それって」自嘲めいた笑みを浮かべて茉由理は言った。
「結婚して、いい妻であろうとしたわ。でも……」茉由理は痛みを堪えるように、すこし眉をひそめた。
「私はただの道具でしかなかったのよね。世間体っていうものを手に入れる為だけの」
外に女どころか、子どもまでいたのよと、茉由理。
「ひどい……」
思わず英里佳の口から、言葉がこぼれる。泣きそうな表情の英里佳を気遣うように茉由理は微笑みかけた。
「私の人生ってなんなんだろう……そう思ったら何もかもがくだらないって思っちゃって」
離婚届をリビングに置いて、まだ小さかった啓を連れて飛びだしたらしい。
「啓にはずいぶん迷惑をかけたと思うわ。寂しいって泣かれた事もあった」
あの明るい啓に、そんな一面があったなんて……。英里佳は話に引きこまれていった。
「でも、自分がやりたい事ができるっていうのは本当に天国よ」
食べていくために働きながら、通信制の芸大にも通った。
やっとの思いで、今年、小さいながらも、ギャラリーを開くことができた。
小さい頃からの夢だったのよ、と茉由理は照れたように笑う。
「別れた旦那さんは……茉由理さんの好きなようにはさせてくれなかったんですか……?」気になって、英里佳が尋ねると、
「あの人は、女性が目立つことは嫌がってた」茉由理は静かに笑いながら続ける。
「それに、アートのことを見下してたようだったしね」
思いもしなかった茉由理の壮絶な過去の話に、英里佳は言葉をなくした。
(茉由理さん、すごい……)それでも、苦労を感じさせない茉由理の姿勢にただただ、圧倒される。
「だからね、」真っ直ぐ英里佳の目を見て、茉由理は言う。
「今のサトカさんの状態がとても心配。
間違ってたらごめんなさい。……あなた、こわがっているんじゃない?」
「こわがって?」
茉由理の質問に、英里佳は首を傾げた。
「また、しんどくなってしまうのを」茉由理が笑う。気遣うような微笑みに、英里佳は目をそらした。
創作は精神力を使うからね、と言った茉由理の言葉に、
「そうなのかも、しれません」ポツリと呟く。
「多分もう、無理なんです。物語を書く力が……」ないんです、としぼりだすように、言う。
茉由理の顔を見ていられない。
認めたくない。
認めたくないけど……これが今の自分。
こんな自分が、本当に情けない。
「そんなに気負うんじゃなくて、今の自分にできる作品を創りなさいって言ってるのよ」うつむく英里佳に、言葉をかける。
なにも超大作、創れなんて言ってないわよと、笑いとばして茉由理は続けた。
「今の自分にできる……」
長い物語は今はまだ無理だ。
でも……。
「前みたいな作品、できないかもしれないけど……」
それでもいいの? そう目で問いかける英里佳。
茉由理は笑って、言いきった。
「何気ない、ささやかな日頃のつぶやきだって、見せ方考えたら、立派な作品だわ」
(不格好でも、それが今のわたし、それでいいんだ)
そう思ったら、英里佳の脳裏にいろいろな思いが溢れてきた。
書いてくれ、書いてくれと騒がしくささやく声が聞こえるようだ。
「書きたい事、つかんだようね」満足気な表情で、茉由理は言った。
「ーーはい」
英里佳は頷いて笑った。
こんな風に笑う事ができたのは、久しぶりだった。