表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

第2章

 1


 英里佳えりかの携帯に電話が入ったのは、5月最後の日だった。


「はい、もしもし……」

「英里佳さん? 私、茉由理まゆりです」

「あ、ど、どうも……あの時は……すみません」


 逃げるようにギャラリーを後にしたあの日以来、あそこには足を運んでいない。気まずくて、そう言ったきり、何も言えなくなってしまった。

「ちょっとね、あなたに折り入って話したい事があるの。急にで悪いけど、明日、ギャラリーにきてくれる?」

 柔らかい口調だったが、有無を言わさない雰囲気に、英里佳はわかりました、と答えた。


 翌日――。


 英里佳はギャラリーMの前にやってきた。

 ドア越しに中を伺う。どうやら、誰もいないようだ。

 約束の時間より、少し早いからかもしれない。

 鍵はあいているだろうか? 確かめようとドアノブに手をかけた時。


「うちに用?」


 後ろからの声に、英里佳はビクッと振りかえった。

 大きなトートバッグを抱えた少年が、訝しげな表情をして立っている。

「す、すみません! 茉由理さんと約束があって……」英里佳が慌てて言うと少年は、

「あぁ、母さんと約束してるってひとか」納得したように言った。

 少年はドアの鍵を開けると、

「ここじゃなんだから、中に入っといて下さい」そう言って、英里佳を招きいれた。


 室内に入ると、温められた空気がむぁっと、英里佳の頬を撫でていった。少年がエアコンのスイッチを入れる。

「すみません、早く来すぎちゃって……」英里佳の言葉に少年は、

「いや、母さんはいつもギリギリだから」と笑って言った。

 少年は英里佳を椅子に座るように勧めた後、

「おれ、二階で作業してるし、適当に寛いでて下さい」と言って、姿を消した。


 ガランとした部屋の中で、空調の微かな音だけが響いている。

 あの日の展示は終わってしまったのだろうか。壁にも、備え付けのテーブルにも作品はなかった。

 程なくして、ドアの開く音がした。

「あら、待たせてしまってたかしら?」

 茉由理だった。

「あ、あ、おはようございます!」

 英里佳はパッと立ちあがって、挨拶をする。完全に不意打ちだった。

「あぁ、あぁ、慌てなくていいから、座ってちょうだい。……面白い子ねぇ」クスリと笑われて、英里佳は顔が熱くなる。

 お茶を用意するから、と茉由理はキッチンスペースの方に行く。冷蔵庫の開ける音が、奥から聞こえた。

「鍵はけいに開けてもらったの?」茉由理に聞かれて、英里佳は首をかしげた。

「大きなトートバッグ持った男の子に開けて貰いました……」

 英里佳が答えると、

「そいつが啓よ。わたしの息子。啓は二階かしら?」茉由理が、麦茶を持ってやってきた。

「はい、二階で作業するって言ってました」

「そう……はい、麦茶」

 茉由理は英里佳にグラスを差しだすと、向かいに座った。

「あの、それで話っていうのは……」麦茶のお礼を言ってから英里佳が話を切りだすと、

「そうね……」そう言って、茉由理は英里佳の目を見つめた。

「次の展示の企画でね、あなたに作品を創ってもらおうと思ってね……」

「はい?」英里佳は思わず、素っ頓狂な声をあげた。

 茉由理の言っていることが、わからない。

 そんな英里佳に、茉由理は区切るようにゆっくりと話す。

「だから、あなたに作品を創ってほしいの。詩でも小説でも、何でもいいわ。……あなたなら創れるはずよ、サトカさん」


「――っ!」


 茉由理の言葉に、息が止まった。ひょっとしたら、鼓動も一瞬、途切れたかもしれない。

「な、何を……」

 こわばる喉を無理やり動かして、英里佳は言う。

 身体中からイヤな汗が吹き出してくる。

「あなた、あの時いきなり帰ってしまったのは、アカリからサトカの名前がでたからでしょう。違う?」

「……」

 茉由理の真っ直ぐな視線に何も言えず、英里佳はうつむいた。

 茉由理は少し、口調を和らげて続けた。

「私、人を見る目はあるつもりよ……、カードを選ぶ時のあなたの表情、ホントにキラキラしてた」

 茉由理はそう言って、口を閉ざす。空調の音だけが、しばらく響いた。

 シンとした空気に耐えられず、英里佳はため息をつく。


「……茉由理さんに、ごまかしは効きませんね……」

 伏せていた顔をあげて、英里佳は言った。

「わたしが、アカリさんのいうサトカでした」


「“でした”?」

 茉由理が、過去形を目ざとく問いただす。

「夢は、夢。そういうことですよ……。物語を創らなくても、生きていける」英里佳は自嘲めいた笑みを浮かべた。

「いつか夢が叶えば……って思ってました。でも、そのためにはちゃんと食べていけるだけの力がいるんですよね……」


 茉由理は人形めいた無表情のまま、英里佳の話を聞いている。

 視線がこわくて、英里佳は目を逸らしたまま話を続けた。

 作家になる夢ばかり見ていた学生時代。アルバイト経験もなく卒業した英里佳を待っていたのは、世間の荒波だった。

 たび重なる残業。締め切りに追われ、ピリピリしている職場。


 一年も経たないうちに、英里佳の身体と心はボロボロになった。


 外に出れば、周りの人の視線や声に怯える日々。次第に、外出することに途轍もない恐怖を感じるようになっていった。

 外出することが大丈夫になるまでに、ずいぶんと時間がかかった。気がついたら、小説も創らなくなっていた。

 英里佳の話を聞いて、茉由理は口を開いた。


「やりたいことを、やればいいんだ。何をためらうの?」

 茉由理の言葉に、英里佳は答えることができない。

(わたしには、それだけのキャパシティがない……)

 英里佳は唇を噛み締めた。胸の中にじんわり広がってゆく、無力感。


「とりあえず、会期は7月12日から15日までで考えてるの。……いい作品、期待しているから」


 そう言って、茉由理は席を立った。 


2


 一週間後の土曜日。


 英里佳はギャラリーMに向かっていた。

 サンサンと照りつける太陽を、英里佳は恨めしげに眺める。

(あぁあ、日傘、忘れた……)心の中で呟く。


 半ば強引に、展示会に参加することになってしまった。

 今日は一週間に一度の会議なのだ。

 ギャラリーのドアを開けると、先客がいた。

「あ、こんちは」

 顔だけを英里佳の方に向けて、啓が手を振った。

「……こんにちは」

「なんか、浮かない顔してるねサトカさん」にこやかに啓が言う。

 英里佳はムスッとした顔で口を開いた。

「……その名前で呼ばないでくださいよ……」

 一週間前の日、話し合いが終わった後、茉由理が二階にいた啓を呼んだ。あろうことか、茉由理はサトカの名前で英里佳を紹介したのだ。

 それ以来、英里佳の気持ちを知ってか知らずか、啓は英里佳のことをサトカと呼ぶ。

「えー、だって、サトカさんとして、うちの企画展に参加するんでしょ?」

「……ま、まぁ」啓の言葉に、英里佳は曖昧に頷いた。

「だから別にいいじゃん、サトカさんって呼んだって」

 そう言って、啓はにっこりと笑った。

(結構いい性格してる……)英里佳は心の中でため息をつく。

 英里佳をテーブルに座らせると、啓は奥の方へ行った。

「麦茶と、緑茶と、オレンジジュースあるけどなに飲む?」啓の声に、英里佳は思わず立ち上がる。

「あ、いいです! お気遣いなく」英里佳がそう言うと、

「いや、そっちこそ気、遣わないでいいって。どれにする?」笑いを含んだ声で啓が返した。

「じゃあ、緑茶で……」

「オッケー」

 お盆に緑茶と、オレンジジュースを載せて、啓がテーブルに戻ってきた。

「はい、これ」啓は英里佳に緑茶を差しだした。

「ありがとうございます」英里佳はぺこりと頭を下げた。

 オレンジジュースは、自分用に持ってきたらしい。意外な気がして、啓とオレンジジュースを見ていたら、甘党なんだと照れくさそうに啓が笑った。


 しばらくお茶を飲んでいると、啓が口を開いた。

「……母さん、遅いなぁ……ところで、」啓は言葉を切って、英里佳の目をのぞき込んだ。

「はい?」

 啓のまっすぐな視線に、英里佳は何となく身構える。

 こういう時、茉由理と啓は、ホントに親子なんだなぁと思ってしまう。

「展示会に出す作品、どんなのにするか決めた?」

「……」


 あんまり触れられたくない話題に、英里佳は目をそらした。

 書きたいことが見つからない。アイデア帳を眺めても、何も浮かんでこない。

 こんな自分が展示会に参加してもいいのかとすら思ってしまう。

 啓の問いに何も答えられないでいると、ドアの開く音が聞こえた。

 その音にふり返ると、茉由理が入ってきた。

「こんにちは」

「あ、お、お疲れさまです!」英里佳は慌てて立ち上がってお辞儀する。

「ごめんね、遅くなって」

「いえ、わたしもさっき着いたばかりですし……」英里佳は首をふるふる振った。

「まるで子犬みたいね」

 クスリと茉由理が笑いながら、可愛いわねと言う。

 また、茉由理に笑われてしまった。

「あの……アカリさんは?」

 おずおずと茉由理に尋ねる。

「あ、遅れるって言ってた」

「そうですか……」

 ブランクがある上に、経験もない英里佳に一人でギャラリーを埋めるのはあまりにも酷だということで、今回はアカリとの二人展ということになっている。

(あの時、変なふうに帰っちゃったからなぁ……どうしよう、会いづらい)困惑する英里佳をよそに、茉由理が口を開いた。


「じゃあ、アカリがまだ来てないけど打ち合わせをはじめるわね」

 宣言するように茉由理が言うと、雰囲気がぴりっと引きしまった。

「会期は前にもチラッと触れたけど、7月12日から15日まで。当日は金曜日だから、木曜日の夜に持ってきてもらえたら、セッティングはこっちでやっておくわ」

「何か小道具で欲しいモノかあれば啓に言ってちょうだい」茉由理が啓を一瞥する。

 茉由理の言葉に啓は、

「大抵のモノは創るよ」と言って、任せとけとばかりに力こぶを出す仕草をした。

 聞けば、茉由理に出逢った時に着ていたドレスと人形は、啓が創ったものらしい。

(まだ十代半ばぐらいなのに……)

 英里佳は信じられないというふうに、啓を見つめていた。

「ところで、サトカさん」

 茉由理の声に、英里佳は我に返った。茉由理もまた、英里佳をペンネームで呼ぶのだ。

「展示する作品だけど……何か考えている?」

 聞かれて英里佳は、口ごもる。

「それが……まだ……」うつむきながら、そう言った時。

 ドアを開け放つ音とともに、誰かがギャラリーにあがりこんできた。


「茉由理さん、茉由理さん! 大ニュース、大ニュース!」

 アカリだ。


「な……なに?」

 目を白黒させる三人にお構いなしに、カバンの中から雑誌を取りだす。若者に人気のある、エンタメ系の文芸誌だ。

「いいから、これ、見てよ!」

 そう言って、雑誌のとあるページを開く。見出しにデカデカと小説大賞中間発表と書かれている。

 アカリが指さしたところをみんなで見てみると……

「二次選考通過!? すっげー!」

 啓がアカリの顔を見て、感嘆の声を上げた。

「でしょでしょ?」自慢気に英里佳が胸を張る。

「やったじゃない」茉由理も目に喜びを滲ませて、アカリをねぎらった。

「二次に通ったってことは、これが最終選考ってこと?」啓が尋ねると、アカリはひょいと肩をすくめた。

「ううん、三次があるんだよね〜、そのあと最終選考」

「うわぁ、道は長い!」アカリの言葉にすかさず啓は返した。まるで漫才だ。

「でも、今回のはかなり自信があるんだ」

 そう言うアカリの頬はあかい。目が爛々と輝いている。

「もしかしたらデビューしちゃうかも!?」

 英里佳の方を見て、プロと二人展なんてプレミアだよ〜と、おどけるように言った。

「はぁ……それは、どうも……」何とコメントすればいいか分からず、英里佳はとりあえずそう答えた。

(なんか住む場所が違うんだなぁ)英里佳はぼんやりと考える。

 公募で評価されたアカリと、何のアイデアも浮かばない自分。

 心の中にもやりとしたものが広がっていく。英里佳はため息をついて、うつむいた。

 この頃、うつむいてばかりだ。

「アカリ、まだ結果はわからないわよ」アカリをたしなめるように、茉由理が言う。

「ほら、これがあなたのライバル」

 茉由理は雑誌を指さして言う。見てみると、ざっと五十人ほど二次に残っているようだ。少なくない人数だ。

「あー、これからバシバシ落とされるな」雑誌を見ながら、啓も同調する。

「う、そっか〜、厳しいなぁ、二人とも……」

 茉由理と啓に言われて、アカリはしょんぼり肩を落とした。でもぉ〜、ホントに上手く出来たんだけどなぁ、と、口を尖らせながらごにょごにょ呟いている。

 茉由理はそんなアカリを気遣うように、

「でも、なんにしても、二次に通ったのはすごいじゃない」そう言ってギャラリーの奥に行った。

 茉由理がキッチンの方から、飲み物をアカリに尋ねた。

「麦茶でー!」キッチンへ身を乗りだすようにして、アカリが言う。

 お盆に麦茶の入ったグラスを載せて、茉由理がキッチンから戻ってきた。

「はい、これ」

「あざーす」アカリはくだけた口調でグラスを受け取って、空いている椅子に座った。


 一時間ほどして、打ち合わせはお開きになった。

「ねぇ、ちょっといい?」

 帰ろうとした時、アカリから呼び止められた。

 ドキリと心臓が跳ねあがる。最初の時のことを怒っているのかもしれない。

「……あの、あの時はすみませんでした……急に帰ったりして」

 おずおずと英里佳が謝ると、

「あの時? ……あぁ。いいですよ、気にしてないし」サバサバした口調で答えた。

 茉由理さんから、その辺の事情は聞いたしね、と付けくわえた。

「まぁ、あなたがサトカさんだったのは驚いたけどねー」そう言ってアカリは笑う。


「そういやさ、」

 アカリは、急に真剣な顔をして切り出した。

「会議ん時、全然意見言ってなかったけど、ホントにアイデアないの?」

 グサリと痛い指摘が飛び出した。

「……はい……」消え入りそうな声で英里佳は言う。

「書きたいと思うものが見つからないんです……」

 英里佳の言葉に、髪の毛をぐしゃりとしながら言った。

「参ったなぁ〜」苛立ったようなため息をつく。

「なんでしたら、アカリさんのやりたい方向に合わせます!」

 英里佳がそう言うと、アカリは厳しい表情で睨みつけた。

「それは、違うよ。あたしの作品とあんたの作品。二つのアイデアが揃ってこその二人展でしょ?」

 あなたにはプライドってものはないの、と問われ、英里佳は何も言えず下を向いた。

 涙が滲みそうになるのを、必死に堪える。


「キツイ事を言うけど、あたしはパワーのある人とやりたい。

 ーーあたしと二人展するんなら、見せてよ」

 それだけを言い放ち、じゃねと挨拶をして、アカリは去っていった。


 アカリの言葉が、鉛のように深く英里佳の心に沈んでいった。

 重くて重くて、しばらくそのまま立ちつくしていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ