第2章
1
英里佳の携帯に電話が入ったのは、5月最後の日だった。
「はい、もしもし……」
「英里佳さん? 私、茉由理です」
「あ、ど、どうも……あの時は……すみません」
逃げるようにギャラリーを後にしたあの日以来、あそこには足を運んでいない。気まずくて、そう言ったきり、何も言えなくなってしまった。
「ちょっとね、あなたに折り入って話したい事があるの。急にで悪いけど、明日、ギャラリーにきてくれる?」
柔らかい口調だったが、有無を言わさない雰囲気に、英里佳はわかりました、と答えた。
翌日――。
英里佳はギャラリーMの前にやってきた。
ドア越しに中を伺う。どうやら、誰もいないようだ。
約束の時間より、少し早いからかもしれない。
鍵はあいているだろうか? 確かめようとドアノブに手をかけた時。
「うちに用?」
後ろからの声に、英里佳はビクッと振りかえった。
大きなトートバッグを抱えた少年が、訝しげな表情をして立っている。
「す、すみません! 茉由理さんと約束があって……」英里佳が慌てて言うと少年は、
「あぁ、母さんと約束してるってひとか」納得したように言った。
少年はドアの鍵を開けると、
「ここじゃなんだから、中に入っといて下さい」そう言って、英里佳を招きいれた。
室内に入ると、温められた空気がむぁっと、英里佳の頬を撫でていった。少年がエアコンのスイッチを入れる。
「すみません、早く来すぎちゃって……」英里佳の言葉に少年は、
「いや、母さんはいつもギリギリだから」と笑って言った。
少年は英里佳を椅子に座るように勧めた後、
「おれ、二階で作業してるし、適当に寛いでて下さい」と言って、姿を消した。
ガランとした部屋の中で、空調の微かな音だけが響いている。
あの日の展示は終わってしまったのだろうか。壁にも、備え付けのテーブルにも作品はなかった。
程なくして、ドアの開く音がした。
「あら、待たせてしまってたかしら?」
茉由理だった。
「あ、あ、おはようございます!」
英里佳はパッと立ちあがって、挨拶をする。完全に不意打ちだった。
「あぁ、あぁ、慌てなくていいから、座ってちょうだい。……面白い子ねぇ」クスリと笑われて、英里佳は顔が熱くなる。
お茶を用意するから、と茉由理はキッチンスペースの方に行く。冷蔵庫の開ける音が、奥から聞こえた。
「鍵は啓に開けてもらったの?」茉由理に聞かれて、英里佳は首をかしげた。
「大きなトートバッグ持った男の子に開けて貰いました……」
英里佳が答えると、
「そいつが啓よ。わたしの息子。啓は二階かしら?」茉由理が、麦茶を持ってやってきた。
「はい、二階で作業するって言ってました」
「そう……はい、麦茶」
茉由理は英里佳にグラスを差しだすと、向かいに座った。
「あの、それで話っていうのは……」麦茶のお礼を言ってから英里佳が話を切りだすと、
「そうね……」そう言って、茉由理は英里佳の目を見つめた。
「次の展示の企画でね、あなたに作品を創ってもらおうと思ってね……」
「はい?」英里佳は思わず、素っ頓狂な声をあげた。
茉由理の言っていることが、わからない。
そんな英里佳に、茉由理は区切るようにゆっくりと話す。
「だから、あなたに作品を創ってほしいの。詩でも小説でも、何でもいいわ。……あなたなら創れるはずよ、サトカさん」
「――っ!」
茉由理の言葉に、息が止まった。ひょっとしたら、鼓動も一瞬、途切れたかもしれない。
「な、何を……」
こわばる喉を無理やり動かして、英里佳は言う。
身体中からイヤな汗が吹き出してくる。
「あなた、あの時いきなり帰ってしまったのは、アカリからサトカの名前がでたからでしょう。違う?」
「……」
茉由理の真っ直ぐな視線に何も言えず、英里佳はうつむいた。
茉由理は少し、口調を和らげて続けた。
「私、人を見る目はあるつもりよ……、カードを選ぶ時のあなたの表情、ホントにキラキラしてた」
茉由理はそう言って、口を閉ざす。空調の音だけが、しばらく響いた。
シンとした空気に耐えられず、英里佳はため息をつく。
「……茉由理さんに、ごまかしは効きませんね……」
伏せていた顔をあげて、英里佳は言った。
「わたしが、アカリさんのいうサトカでした」
「“でした”?」
茉由理が、過去形を目ざとく問いただす。
「夢は、夢。そういうことですよ……。物語を創らなくても、生きていける」英里佳は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「いつか夢が叶えば……って思ってました。でも、そのためにはちゃんと食べていけるだけの力がいるんですよね……」
茉由理は人形めいた無表情のまま、英里佳の話を聞いている。
視線がこわくて、英里佳は目を逸らしたまま話を続けた。
作家になる夢ばかり見ていた学生時代。アルバイト経験もなく卒業した英里佳を待っていたのは、世間の荒波だった。
たび重なる残業。締め切りに追われ、ピリピリしている職場。
一年も経たないうちに、英里佳の身体と心はボロボロになった。
外に出れば、周りの人の視線や声に怯える日々。次第に、外出することに途轍もない恐怖を感じるようになっていった。
外出することが大丈夫になるまでに、ずいぶんと時間がかかった。気がついたら、小説も創らなくなっていた。
英里佳の話を聞いて、茉由理は口を開いた。
「やりたいことを、やればいいんだ。何をためらうの?」
茉由理の言葉に、英里佳は答えることができない。
(わたしには、それだけのキャパシティがない……)
英里佳は唇を噛み締めた。胸の中にじんわり広がってゆく、無力感。
「とりあえず、会期は7月12日から15日までで考えてるの。……いい作品、期待しているから」
そう言って、茉由理は席を立った。
2
一週間後の土曜日。
英里佳はギャラリーMに向かっていた。
サンサンと照りつける太陽を、英里佳は恨めしげに眺める。
(あぁあ、日傘、忘れた……)心の中で呟く。
半ば強引に、展示会に参加することになってしまった。
今日は一週間に一度の会議なのだ。
ギャラリーのドアを開けると、先客がいた。
「あ、こんちは」
顔だけを英里佳の方に向けて、啓が手を振った。
「……こんにちは」
「なんか、浮かない顔してるねサトカさん」にこやかに啓が言う。
英里佳はムスッとした顔で口を開いた。
「……その名前で呼ばないでくださいよ……」
一週間前の日、話し合いが終わった後、茉由理が二階にいた啓を呼んだ。あろうことか、茉由理はサトカの名前で英里佳を紹介したのだ。
それ以来、英里佳の気持ちを知ってか知らずか、啓は英里佳のことをサトカと呼ぶ。
「えー、だって、サトカさんとして、うちの企画展に参加するんでしょ?」
「……ま、まぁ」啓の言葉に、英里佳は曖昧に頷いた。
「だから別にいいじゃん、サトカさんって呼んだって」
そう言って、啓はにっこりと笑った。
(結構いい性格してる……)英里佳は心の中でため息をつく。
英里佳をテーブルに座らせると、啓は奥の方へ行った。
「麦茶と、緑茶と、オレンジジュースあるけどなに飲む?」啓の声に、英里佳は思わず立ち上がる。
「あ、いいです! お気遣いなく」英里佳がそう言うと、
「いや、そっちこそ気、遣わないでいいって。どれにする?」笑いを含んだ声で啓が返した。
「じゃあ、緑茶で……」
「オッケー」
お盆に緑茶と、オレンジジュースを載せて、啓がテーブルに戻ってきた。
「はい、これ」啓は英里佳に緑茶を差しだした。
「ありがとうございます」英里佳はぺこりと頭を下げた。
オレンジジュースは、自分用に持ってきたらしい。意外な気がして、啓とオレンジジュースを見ていたら、甘党なんだと照れくさそうに啓が笑った。
しばらくお茶を飲んでいると、啓が口を開いた。
「……母さん、遅いなぁ……ところで、」啓は言葉を切って、英里佳の目をのぞき込んだ。
「はい?」
啓のまっすぐな視線に、英里佳は何となく身構える。
こういう時、茉由理と啓は、ホントに親子なんだなぁと思ってしまう。
「展示会に出す作品、どんなのにするか決めた?」
「……」
あんまり触れられたくない話題に、英里佳は目をそらした。
書きたいことが見つからない。アイデア帳を眺めても、何も浮かんでこない。
こんな自分が展示会に参加してもいいのかとすら思ってしまう。
啓の問いに何も答えられないでいると、ドアの開く音が聞こえた。
その音にふり返ると、茉由理が入ってきた。
「こんにちは」
「あ、お、お疲れさまです!」英里佳は慌てて立ち上がってお辞儀する。
「ごめんね、遅くなって」
「いえ、わたしもさっき着いたばかりですし……」英里佳は首をふるふる振った。
「まるで子犬みたいね」
クスリと茉由理が笑いながら、可愛いわねと言う。
また、茉由理に笑われてしまった。
「あの……アカリさんは?」
おずおずと茉由理に尋ねる。
「あ、遅れるって言ってた」
「そうですか……」
ブランクがある上に、経験もない英里佳に一人でギャラリーを埋めるのはあまりにも酷だということで、今回はアカリとの二人展ということになっている。
(あの時、変なふうに帰っちゃったからなぁ……どうしよう、会いづらい)困惑する英里佳をよそに、茉由理が口を開いた。
「じゃあ、アカリがまだ来てないけど打ち合わせをはじめるわね」
宣言するように茉由理が言うと、雰囲気がぴりっと引きしまった。
「会期は前にもチラッと触れたけど、7月12日から15日まで。当日は金曜日だから、木曜日の夜に持ってきてもらえたら、セッティングはこっちでやっておくわ」
「何か小道具で欲しいモノかあれば啓に言ってちょうだい」茉由理が啓を一瞥する。
茉由理の言葉に啓は、
「大抵のモノは創るよ」と言って、任せとけとばかりに力こぶを出す仕草をした。
聞けば、茉由理に出逢った時に着ていたドレスと人形は、啓が創ったものらしい。
(まだ十代半ばぐらいなのに……)
英里佳は信じられないというふうに、啓を見つめていた。
「ところで、サトカさん」
茉由理の声に、英里佳は我に返った。茉由理もまた、英里佳をペンネームで呼ぶのだ。
「展示する作品だけど……何か考えている?」
聞かれて英里佳は、口ごもる。
「それが……まだ……」うつむきながら、そう言った時。
ドアを開け放つ音とともに、誰かがギャラリーにあがりこんできた。
「茉由理さん、茉由理さん! 大ニュース、大ニュース!」
アカリだ。
「な……なに?」
目を白黒させる三人にお構いなしに、カバンの中から雑誌を取りだす。若者に人気のある、エンタメ系の文芸誌だ。
「いいから、これ、見てよ!」
そう言って、雑誌のとあるページを開く。見出しにデカデカと小説大賞中間発表と書かれている。
アカリが指さしたところをみんなで見てみると……
「二次選考通過!? すっげー!」
啓がアカリの顔を見て、感嘆の声を上げた。
「でしょでしょ?」自慢気に英里佳が胸を張る。
「やったじゃない」茉由理も目に喜びを滲ませて、アカリをねぎらった。
「二次に通ったってことは、これが最終選考ってこと?」啓が尋ねると、アカリはひょいと肩をすくめた。
「ううん、三次があるんだよね〜、そのあと最終選考」
「うわぁ、道は長い!」アカリの言葉にすかさず啓は返した。まるで漫才だ。
「でも、今回のはかなり自信があるんだ」
そう言うアカリの頬はあかい。目が爛々と輝いている。
「もしかしたらデビューしちゃうかも!?」
英里佳の方を見て、プロと二人展なんてプレミアだよ〜と、おどけるように言った。
「はぁ……それは、どうも……」何とコメントすればいいか分からず、英里佳はとりあえずそう答えた。
(なんか住む場所が違うんだなぁ)英里佳はぼんやりと考える。
公募で評価されたアカリと、何のアイデアも浮かばない自分。
心の中にもやりとしたものが広がっていく。英里佳はため息をついて、うつむいた。
この頃、うつむいてばかりだ。
「アカリ、まだ結果はわからないわよ」アカリをたしなめるように、茉由理が言う。
「ほら、これがあなたのライバル」
茉由理は雑誌を指さして言う。見てみると、ざっと五十人ほど二次に残っているようだ。少なくない人数だ。
「あー、これからバシバシ落とされるな」雑誌を見ながら、啓も同調する。
「う、そっか〜、厳しいなぁ、二人とも……」
茉由理と啓に言われて、アカリはしょんぼり肩を落とした。でもぉ〜、ホントに上手く出来たんだけどなぁ、と、口を尖らせながらごにょごにょ呟いている。
茉由理はそんなアカリを気遣うように、
「でも、なんにしても、二次に通ったのはすごいじゃない」そう言ってギャラリーの奥に行った。
茉由理がキッチンの方から、飲み物をアカリに尋ねた。
「麦茶でー!」キッチンへ身を乗りだすようにして、アカリが言う。
お盆に麦茶の入ったグラスを載せて、茉由理がキッチンから戻ってきた。
「はい、これ」
「あざーす」アカリはくだけた口調でグラスを受け取って、空いている椅子に座った。
一時間ほどして、打ち合わせはお開きになった。
「ねぇ、ちょっといい?」
帰ろうとした時、アカリから呼び止められた。
ドキリと心臓が跳ねあがる。最初の時のことを怒っているのかもしれない。
「……あの、あの時はすみませんでした……急に帰ったりして」
おずおずと英里佳が謝ると、
「あの時? ……あぁ。いいですよ、気にしてないし」サバサバした口調で答えた。
茉由理さんから、その辺の事情は聞いたしね、と付けくわえた。
「まぁ、あなたがサトカさんだったのは驚いたけどねー」そう言ってアカリは笑う。
「そういやさ、」
アカリは、急に真剣な顔をして切り出した。
「会議ん時、全然意見言ってなかったけど、ホントにアイデアないの?」
グサリと痛い指摘が飛び出した。
「……はい……」消え入りそうな声で英里佳は言う。
「書きたいと思うものが見つからないんです……」
英里佳の言葉に、髪の毛をぐしゃりとしながら言った。
「参ったなぁ〜」苛立ったようなため息をつく。
「なんでしたら、アカリさんのやりたい方向に合わせます!」
英里佳がそう言うと、アカリは厳しい表情で睨みつけた。
「それは、違うよ。あたしの作品とあんたの作品。二つのアイデアが揃ってこその二人展でしょ?」
あなたにはプライドってものはないの、と問われ、英里佳は何も言えず下を向いた。
涙が滲みそうになるのを、必死に堪える。
「キツイ事を言うけど、あたしはパワーのある人とやりたい。
ーーあたしと二人展するんなら、見せてよ」
それだけを言い放ち、じゃねと挨拶をして、アカリは去っていった。
アカリの言葉が、鉛のように深く英里佳の心に沈んでいった。
重くて重くて、しばらくそのまま立ちつくしていた。