第1章
午後5時半。鍵を閉めて、英里佳は職場をあとにした。相変わらず、強烈な日差しだ。
足早に向かうのは、路地裏にあるちいさなギャラリー、M。
「こんにちはー」ドアを開けると、涼しい空気が英里佳を迎えた。
「あら、いらっしゃい」
奥にある事務スペースから、茉由理が顔を出した。英里佳は軽く、会釈をした。
ここ最近、仕事が終わるとここにくるのが日課になっている。
昨日までなかった、椅子とテーブルが隅に置かれていた。
「今日から、新しい展示になっていてね、ゆっくり見ていって」茉由理が奥から、麦茶とクッキーを持って出てきた。
「あ、ありがとうございます……」ぺこりとお辞儀をして、英里佳は一口、麦茶を飲んでから、あたりを見渡した。
アイボリーの壁に無数のちいさなカード。机の上にも同じものが。何だろうと、手にとって見ると、文字が書かれていた。
【溺】と書かれているカードを手にとって、
「……どういう作品なんですか? これ」傍らに立っている主に尋ねる。
「そろそろやって来る頃だし、本人に聞いてみたら?」腕時計をちらりと確認して、茉由理が言った。
ほどなくして足音が近づいてくる。
「どーもでーす! 遅くなりました!」
溌剌とした声とともに、若い女性が入ってきた。
その人は、短い髪の毛に緩くパーマをあてている。大学生くらいだろうか? ホットパンツからのぞく脚がスラリとしている。英里佳は心の中で、羨望のため息をついた。
「アカリ、お客さん」
茉由理の言葉に、女性は英里佳の方を見た。
「あ、すみません!」そう言って、ガバッとお辞儀をした。
「どうも、茉由理さんとこでお世話になってる、アカリっていいます。来てくれてありがとうございます!」
女性はそう言って、勢いよく右手を差しだした。
英里佳はおずおずとアカリの手を取り、名前を告げた。
「アカリはね、彼女が学生の頃からの知り合いでね。その縁で私んとこで展覧会してもらってるの」
学生の頃から、ということはもう卒業しているのだろうか。ずいぶん若くみえる。
「今は働きながら、こうやってちょこちょこ作品創ってます」
茉由理さんはいろいろアドバイスくれるから、ありがたいんですよ〜と、アカリは満面の笑顔でそう言った。
「この作品、面白いですね。どういう作品なんですか?」
自己紹介が終わったところで、英里佳は気になっていたことについて切り出した。
「ああ、これね。……なんだと思います?」
いたずらっぽい目をして、アカリが聞いてきた。
質問に質問で返されて、英里佳は目を逸らした。
壁に貼ってあるカードが目に入る。よく見ると、文字だけではなく、句読点やカギカッコの書かれているものもあった。
「もしかして、これを繋げると何かの文章になるとか、……ですか?」英里佳がそう言うと、
「正解です」
にんまりと満足げに笑って、アカリは言った。
「今まで書きためた超短編を一文字ずつバラバラにしてみたんです。それで、」そう言って、アカリは壁にあるカードをいちまい手にとった。
「新しい物語が生まれないかなーっと……」
机の上に、カードを置く。
「そうなんですね……」
【傘】、と書かれたカード見ながら英里佳は相槌を打った。
【溺】と【傘】。
机の上に、ふたつの文字がのっている。英里佳は、心の中で何かざわめくものを感じた。
「文字を選んでも?」英里佳がそう聞いたら、アカリはにこやか頷き、いいですよと言った。
「そういえば、英里佳さんってこの辺ですか?」
壁のカードを選んでいる英里佳に、アカリは尋ねた。
「はい……大学時代からずっとこの近くで働いています」カードを探す手を止めずに英里佳は答える。
「へえ、どこの大学ですか?」
「C大学です」
「えぇぇ! マジですか!?」驚きの入りまじったアカリの声に、英里佳は手を止めた。
「わたしの彼が、そこ行ってたんですよ!!」アカリが弾むように言いながら、英里佳の方に近づいてきた。
「は、はぁ……奇遇ですね……」手を取りあわんばかりのアカリのテンションに、英里佳はタジっとなる。少々、苦手なタイプだ。
「彼がね……文芸サークルに入ってて、その影響ですかね〜、あたしも文章、書くようになっちゃって」
「彼の先輩にサトカって人がいたみたいなんですけど、すっごい彼が尊敬してて」
思いもしなかった名前の登場に、英里佳は息を呑んだ。
「で、あんまり彼がサトカ先輩はすごいって言うもんだから、読んでみたんですけどね、」
アカリは言葉を続けた。
「うーん、確かに読みやすいとは思うんだけど、華がないっていうかね……
これぐらいならあたしでもできるんじゃない? って思って書きはじめたんです」
英里佳は、そう言いながら笑うアカリを見ることができなかった。
「……わたし、そろそろ帰らないと……」英里佳は、そそくさとテーブルに置いた鞄を取った。
「失礼しました!」
「え? え? ちょっと!」
アカリの呼びかけにも答えず、逃げるようにギャラリーをあとにした。
「……あたし、何か変な事、言ったかなぁ?」
ギャラリーに残されたアカリと茉由理は顔を見合わせた。
「いや、そんな事はないと思うけど……」
そう言って、茉由理は考えるように顎に手をあてた。
片づけるねと言って、アカリはテーブルに置かれたままの食器を流しに持っていく。
「アカリ、サトカって人の作品、読める?」
茉由理の言葉に、アカリはキッチンから問いかける。
「家に載ってる部誌があったと思うけどー、……何で?」
「いや、ちょっと気になる事があってね」
キッチンから戻ってきたアカリに、茉由理は微笑みを浮かべるだけだった。