8章 6話
「という訳で、こちら猫先生。俺たちの記憶を取り戻すために来ていただきました」
エリーと猫先生を引き合わせて、お互いを紹介していく。
猫先生はエリーのこともちゃんと覚えておいて、成長したニャと感心していた。
「エリザ坊やは無料の杭コースと有料の魔法コース、どっちで記憶を戻すニャ? 」
「もちろん有料コースで!! 」
エリーの反応を待つまでもなく、俺が即答した。
「じゃあ、川魚二年分ニャ」
エリーがこそっと、無料コースのほうがいいんじゃないの? と主婦魂を見せたのだが、却下しておいた。
頭を杭で打たれるんだぞ。性格変わるかもしれないんだぞ。痛いんだぞ! 却下させていただきます。
「じゃあ早速お願いしてもいいですか? 」
「いいニャ。二人とも椅子を持ってきて座るニャ」
大人しく従い、座り慣れた椅子を持ってきて、横並びで俺とエリーは猫先生の前に座った。
「二人はなんだかお似合いニャ。夜とかいろいろ楽しいことをするのかニャ? 」
やめて!!
「羨ましいニャ。アタイはムラムラしてもなかなか釣り合う相手がいないから辛いところがあるニャ」
もうやめて!!
「子供ができたらまた見に来るニャ」
まだ未婚です!!
「……記憶の件、お願いします」
「そうだったニャ。つい気になって聞いてしまったニャ」
エリーも恥ずかしそうにしているし、本当に早いこと記憶を取り戻す治療に入って欲しい。猫先生が帰った後、しばらく緊張しそうだ。エリーと暮らし始めて長いのに、また初心な気持ちに戻ってしまうのか。
「じゃあ治療のほうにもどるニャ」
いきなり治療とはいかずに、まずは猫先生からの大体の説明があるらしい。何か気を付けることでもあるのだろうか。
「そもそも、記憶というのは魚の骨の様に複雑に枝分かれしているニャ」
……なんか聞いたことがあるような説明だな。その魚バージョンな気が……。
「背骨の様に太い骨、つまり太い記憶は何かあっても早々消えることはないニャ。だからクルリ坊やもエリザ坊やも記憶がなくても根本的な性格はほとんど同じニャ。昔通りニャ」
へぇー、そんなことが……。つまり俺もエリーも記憶をなくす前と性格は変わっておらず、それは猫先生の印象と理論によって説明されたわけだ。なんだか少しホッとする情報だった。
「魚が成長するにつれて、細かい骨は成長し、数も増えていく。それと同じように記憶もどんどん細かく分岐して増えていくニャ。しかし、何かしらの事故があり、細かい骨を失ってしまった。けど、背骨が生きている限り、魚の細かい骨は結構再生可能ニャ」
魚なの? 俺たちの記憶は魚の骨なの?
「魚は細かい骨がないほうが食べやすいニャ。背骨一本だと取り除くのも簡単、上手に焼けば背骨も美味しく食べることができるニャ」
いや、魚の話になってんだけど。
「けど、小骨がないとそれはそれで抵抗がなくてつまらないニャ。やっぱり小骨を取り除いて苦労して食べる焼き魚のほうが上手いニャ。それに小骨が喉に詰まるあのリスクが、なんとも言えないニャ」
いや、知らんよ。魚の骨が喉に詰まるリスクなんて、なんとでも言えるわ! 主に不快だと!
「魚の骨もだけど、人の記憶も同じニャ。記憶のない状態のほうが一見してさっぱりしているけど、面白みがないニャ。つまらないニャ。だから昔、記憶を取り戻す方法を研究したことがあったニャ」
あっ、そこにつながるんだね。てっきり完全に美味しい魚の食べ方講座になったのかと思った。
「ちなみに魚の小骨を再生する魔法も完成しているニャ」
……お願いすることはないです。
「魚は一度事故で小骨を失うと、なかなか再生させようとしないニャ。それはできないではなくて、させないのニャ。それはまた同じとろこを再生させると再び失うリスクも出てくるということだからニャ」
ほー、なんだか先生っぽい。猫なのに。
「生物は一度失うと、恐怖するニャ。だからもとに戻ろうとしないニャ。それをアタイが無理やり恐怖を押し殺して、再生を促すニャ。それが記憶を取り戻す魔法の正体ニャ」
さっ魚の話か、最終的に納得できる話に展開された……。なんだろう、この圧倒的敗北感は……。魚の話なのに、魚の話なんかに、なんだか関心してしまっている自分がいる。
「そもそもだけど、記憶を取り戻してどうするニャ? 」
「え? 今更? 」
いや、確かにそうかもしれない。なんか戻るというから戻してもらおうとしているが、改めて理由はあるのだろうか? ……まずい、ないかもしれない。今、なんだかんだで幸せだし。
「んー、実家のことが気になるかな。なんだか全然思い出せないし」
答えたのはエリーだった。
そうだった、残念な父親と早々に再開した俺とは違い、エリーの実家に関してはあまり情報がない。エリーの行き届いた教育や、体からにじみ出る上品さから、ただの家とは思えないのだが、本当に情報が入ってこない。
ラーサーやアーク王子なんかは知っていそうだが、向こうからは何も言ってこない。
「確かに気になる」
娘さんを預かっている身からしてもそこらへんは知っておくべきだろう。いずれ挨拶に行くとになるかもしれない。
「クルリ坊やは? 」
猫先生が俺に質問してきた。
さっきのはエリーの理由であり、俺は俺で理由を求められているのか。
うーん、本気で理由がないかもしれない。
いろいろ悩んだのだが、明確な希望というものがない、ただ一つ疑問点はあった。
「俺はなぜ鍛冶職人になったんだろうか? 」
「それが気になるかニャ? 」
「それくらいかな。それほど気になるわけじゃないけど、こうして貴族としての仕事があるのに、なぜ俺は剣を鍛え、作ることに精を出したのだろうか? 全く思い出せないからちょっとだけ心に引っ掛かっていた」
「十分ニャ。案外大事なことだったりするからニャ」
そうなのかな? 猫先生がそういならそうなのかもしれない。
魚の話もひと段落して、いよいよ椅子に座った俺とエリーに魔法をかける時が来た。
「ところでクルリ坊の好きな食べ物は? 」
「リンゴです」
「エリザ坊やは? 」
「しふぉん……」
「芋です! 」
俺がすかさずフォローを入れておいた。大事な記憶を取り戻す魔法をかけてもらうときに、嘘をつくんじゃない! 芋好きがダサいなんて誰が決めた!
「そうかニャ。じゃあ、行くニャ」
猫先生の両手の肉球からバチバチとはじける音が聞こえた。
あまりの音に俺たちはそれを凝視した。
どうみても雷の質を伴った魔力だった。えっ!? 治療ですよね? 猫先生……。
「あのー、雷の性質を持った魔力がバチバチ言ってるんですけど……。めちゃくちゃあないんですが……」
「気にしないニャ。さて、右手はリンゴの形に。左手は芋の形に」
バチバチと音を立てた青い魔力が曇状から徐々に輪郭をはっきりとさせていき、ついには色こそ違えど綺麗な形をしたリンゴとなった。もう片方も輪郭がしっかりしてきて、甘い種類の芋が誕生した。
「恐怖で戻ろうとしない記憶を如何にして戻すかニャ? 正解はそんな恐怖がどうでも良くなるほどの衝撃を与えればいいだけニャ」
「いや、まさか……」
でも、それだとなぜリンゴや芋にあえて形を変形させた?
「人間は痛みに対して心を閉ざすニャ。それだとこの苦しい治療を繰り返さなければならないことがあるニャ。だから好きなものの形に似せた雷の球を、一瞬開いた心の隙を狙って頭に直撃させてやれば……」
苦しい治療って言った! 今言った!
有料コースとは!?
杭は嫌だけど、雷の球も嫌なんですけど!?
バチバチと雷の球はさっきよりも勢いが増している。好きなものの形に似せたところで、心なんて一切開けませんよ!? もはやただの気休めでしかない!
猫先生が床を蹴って、高く飛びあがった。
ニャーー!! と甲高い声が響いた後、俺とエリーの脳天に雷の球が叩き込まれた。
「ふぅ。これで二年はただ食いニャ……」
意識が遠のく中、かすかな声とニヤリと笑う猫先生の顔が見えた。
目を覚ましたのは実に丸一日も後だった。やたら眠った感覚と空腹感があるにもかかわらず、外の景色は猫先生に雷の球を叩き込まれる前のままだったのだ。それでしばらく錯覚していたのだが、猫先生から一日も眠ったままだと教えられた。全くなんて危ないものを叩きこむんだ、この人は。そういえば学園にいた頃からそうだった……。
あれ? 学園にいた頃から? あれあれ!? なんか来ている! 来ているぞ!
「瞳孔が大きく開いてるニャ。どうやら早速何か思い出しつつあるかニャ? 」
「そんな感じです。ぶわーっと滝のように押し寄せてきて、整理しきれない情報がランダムに流れてきて」
「それでいいニャ。そのうち慣れるし、段々と記憶の整理が付いていき全て思い出すニャ」
ていうことは成功なのか? 今はまだ実感がわかないが、それでも確かに猫先生の記憶が戻りつつある。
そうだ、あれは猫先生に特別な魔法を教えて貰いに行くため、空き教室に行ったときのことだった。待っているはずの猫先生はおらず、そこには魅惑の大人の女性がいて、俺は時が止まったかのように彼女を見つめて……うっ。そこから先がどうも思い出せない。というか思い出すことを体が拒否しているかのような。その先には絶望しかないぞと知らせてくれるかのようなこの感覚。
うむ、思い出したくないことは思い出さないでおこう。
それより、まだ隣で黒いすすを頬につけたエリーが目覚めない。エリー、エリー、いやエリザ・ドーヴィルだ。エリザだ。あのエリザが隣に寝ている!? エリーと共に過ごした日々は覚えている。たまに見せる激しい気性の持ち主で、それでも根はやさしくて、芋料理が得意で、朝早く起きて家事をやるのが好きだったエリー。
あれ!? ちょっと待て、俺の記憶にあるエリザとはだいぶ違うぞ。くそっ、確かに全部思い出せない部分はあるものの、記憶の通りだとエリザはかなり傲慢な女性だ。取り巻きの女性たちが大量にいて、視線は常に相手を見下したもので、そしてエリーと同じく気性がかなり激しい!
一致している部分はあるが、だいぶ違う。エリーは楽しく家事をするイメージができる。実際に見ているしな。エリザ・ドーヴィルが楽しく家事をする!? 無理無理無理、絶対にイメージできない。エリーがほほを膨らませて美味しそうに芋を食べるイメージはできる。これも実際に見ているしな。でもエリザ・ドーヴィルがほほを膨らませて美味しそうに芋を食べる!? ないないない、そんなの絶対ない。
なんなんだ、この圧倒的違和感は。記憶の整理が付いていないのはもちろんなのだが、それにしてもエリザ・ドーヴィルとエリーがどういつ人格とはとても思えない。……とりあえず、エリザ・ドーヴィル、もしくはエリーが目覚めるのを待とうか。
俺がパニックになっている間に猫先生は屋敷のものを勝手に頂戴して旅支度をしていた。どこに行くのかと尋ねれば、いい人物がいるという。
「もしかして裁判長にふさわしい人材を連れて来てくれるんですか? 」
「そうニャ。良い人がいたことを思い出したニャ」
「おおっ! それは助かります! 記憶のことも含めてなんとお礼を言えばいいのか」
「お礼はいらないニャ。川魚二年分と、今回の人探しはまた別の報酬を貰うニャ」
「なんなりと! 」
猫先生は今一度要求を考えて、ポンと手を打った。
「クルリ坊やにいつも薬草臭い匂いを纏った友達がいたニャ」
「ああ、たぶんトトのことですね」
「そうニャ。トト坊やニャ。ヘラン領で大きな商会をやっているって聞いたニャ。そのトト坊やから猫が気持ち良くなる類の薬草を調達して欲しいニャ」
「……はい」
「気に入ったら次回からは買うから、とりあえず種類を揃えて欲しいニャ」
「……快楽がお好きなんですね」
「大好きニャ。じゃあ、行くニャ」
猫先生は大量の食材とおそらく毛を整えるためのブラシをバッグに詰めて、屋敷から歩いて旅立った。猫先生の短足具合では一歩一歩が小さいため、進む速度が遅い。だいぶ歩いてもまだ視界に収まる距離までしか行っていなかった。
猫先生の進路に馬車が近づくのが見えた。
猫先生の体から体毛が見る見るうちに消え、ドラム缶体系だった体はスラリとした美しい人の体になっていた。馬車は無事餌に食いついたようで、猫先生の擬態を乗せて走り去っていった。
ああ、猫先生の変身魔法はああやって使うのかと、また一つ教えられた。
かなり目立つ存在が消えて、屋敷には俺とエリザ・ドーヴィルが取り残された。俺の彼女に対する記憶は、まだ半端なものしか戻っていない。彼女は全部戻っているといいのだが、目が覚めてみない事には確認しようもない。
結局俺から遅れて数時間後にエリザ・ドーヴィルは目を覚ました。
「あれ? なんか頭が痛いわ。ねえ、誰か紅茶を入れてくれないかしら? あと服の着替えも持ってきて頂戴」
うわっ、目を覚ましたのはエリザ・ドーヴィルで間違いなかった。
「あれ? この屋敷では紅茶をいつも入れていたのは私で、なんで私がそんなことをしていたのよ! 爺や! 紅茶を! 」
「爺やはいないよ、エリザ。ここはヘランの屋敷だ。記憶が混濁しているだろうけど、落ち着いてはなそう」
「あなたは……。クルリ・ヘラン。私と共にしばらく過ごしていた……。辺境の領主の息子で、私とは格の違うなんちゃって貴族で……」
やっぱエリーとエリザ・ドーヴィルの記憶が混ざっている。彼女も全部を思い出せない様子だ。
エリーとの生活は確かに幸せなものだった。しかし、エリザ・ドーヴィルとの思い出は思い出せている分ではあまり幸せなものでない。彼女も同じく葛藤していて、頭を抱えている。
「ううっ……」
「エリザ、ゆっくりでいいんだ。ゆっくり思い出そう」
「ううーーー」
「大丈夫か? 」
そーっと近づいていく。エリザ・ドーヴィルが苦しむのはなんとも思わないが、エリーが苦しんでいると思うと心配してしまう。
「あなたは……クルリ……」
「そう、クルリ・ヘランで、前は鍛冶屋で共に、今はこの屋敷でともに楽しく暮らしてきた」
「そう、一緒にご飯を食べ……、でもあなたは田舎臭くダサい貴族もどきで……」
「ああ!! 頑張れ、エリー! エリザ・ドーヴィルなんかに負けるな! 」
「うううう!! 図が高い!! 」
エリザ・ドーヴィルは俺に飛び蹴りを食らわしてきた。
エリーとエリザ・ドーヴィルの感情のぶつかり合いは、どうやらエリザ・ドーヴィルが買ったようだ。
ちくしょう! あの優しかったエリーを返せ!