8章 5話
何だろうこの気持ちは……。そう、これは淡い青春!
猫先生という方が泊まる宿まで来てみれば、なんだか宿の前に人だかりができていた。集まっているのは大半が男で、皆がそわそわしながら、時折ちらちらと宿の中を覗き込んでいる。宿の従業員であるおばちゃんが出てきて、本当に冷水をぶっかけて男たち退散させようと試みるのだが、熱い火がついた様子の男たちには焼け石に水である。おばちゃんは総ブーイングを浴びて、泣く泣く宿の中に引き下がるのだった。
一体何がこの場で起きているのかわからない俺は、しばらく男の集団の外で様子を見守るしかなかった。ちらほらと聞こえてくる話によると、どうやら先日からこの宿にとんでもない美女が泊まっているらしいのだ。とんでもない美女がいるなら群がるのが男の性! 俺も仲間に入れよ!
という訳にもいかず、俺は集団を押しのけて宿へと入っていった。宿の扉を開いたら、たっぷりと冷水が入ったバケツを構えたおばちゃんが鬼の形相で立っていた。
「ひっ!? かけないで」
「また勝手に入って来て! って、あれ? 領主様じゃないのかい? 」
「その通り。だからバケツは置いて」
「あっはい」
良かった。勢いでぶっかけられるところだった。こんな寒空の元冷水なんて浴びた日には風邪をひいてしまう。風邪をひいたらエリーの芋スープが飲めるので、それも悪くないが。
「領主様がどうしてこんな昼間からこちらへ? 」
落ち着きを取り戻したおばちゃんがそう尋ねてきた。その視線には強い疑惑の色が籠っていた。
「仕事だよ、仕事。大事な客人がこちらに泊まっているんだよ」
「ああ、そうでしたか! 」
おばちゃんの顔がパッと晴れた。
「てっきり領主様もうちの客目当てに見に来たのかと思いましたよ。全く外の連中ときたら。仕事を頑張っている領主様を見習って欲しいもんだよ」
あははは、めちゃめちゃ興味があるなんて言えないよなー。あわよくば一目見させて欲しかっただが、この様子じゃ切り出した瞬間にバケツの中身が飛んできそうだ。
「変な疑いを持たないでよ。外の連中と一緒な訳ないじゃないですか」
「そうですよね。エリー様もいらっしゃるのに、そんなわけないですよねー」
ほほほっ、と乾いた笑い声が響いた。
さっ、本題に入ろう。
「こちらに猫先生という方が泊まっていると聞いたんだが、その方を迎えに来たから案内してくれないか」
「えー!? あの方が領主様のお客様!? もう、早く来て欲しかったです。ようやく引き取ってくれるんですね!? はぁー、全く目立つ方でしたので本当に助かりますよ」
目立つ方?
聞けば、猫先生とやらはライオンのような体格を持った二足歩行の猫らしいではないか。うむ、確かにそれは目立つ。これだけ従業員に疲労感を与えているということは、やはりかなりの曲者なのかな? 偏食が目立つとか、もしかしたら夜中に鳴たり、なんてことあるのかもしれない。ニャー!!
ふんっ、可愛いものじゃないか。何を隠そう、プーベエに慕われている点からして、俺は全ての生き物に愛される自信がある。そして愛す自信もある! 二足歩行で歩く巨大猫!? もふもふしてくれるわ。どんな光景が待っていようと動揺するはずもなく、そして無事ヘラン領の裁判長のポストに座らせてやろうじゃないか!
おばちゃんがこちらの部屋ですといって、扉をノックする。なかから女性の声が聞こえた。どうぞ、という言葉が聞き取れた。
おばちゃんは扉を開き、猫先生に来客を告げる。中から、通していいわ、という言葉が聞こえてきた。おばちゃんが出てきて、同じことを俺に告げた。
入室の許可を得た俺は、心の準備をした。例え巨大猫でも、子猫のように扱えばひとたび心はこちらに向くだろう。
俺は扉をくぐり、扉を優しく閉めた。
……部屋の中、視線の先、淡い青春がそこにはあった。
えっ!? 何これ!? 全然予想していたものと違う! 猫先生!? 猫先生だよね!? あれっ!? 部屋を間違えた!? いいや、こんな分かりやすい名前の人が他にいるはずもない。じゃあ、なんだ、この目の前の圧倒的光景は!!
木製のリクライニングチェアに全身をあずけ、茶色いツヤのある髪を窓から吹き付ける優しい風にやびかせ、穏やかな顔をした大人の女性がそこにはいた。顔の造形が美しいことは言うまでもなく、特筆すべきはその肌の美しさ。輝くように透明感のある肌は、顔だけではなく、腕や脚も同様に透けているかのような錯覚をさせる。両腕、両足はこのヘランの地域じゃなかなか見かけないようなスラリとした長さを持ち、細すぎず太すぎず、ちょうど良い肉づきをしていた。更には、ウエスト周りは綺麗に引き締まっており、胸元はというと……、素晴らしいの一言に尽きる。
彼女は顔にほんのりと微笑を携えて、俺に視線を向ける。
なんなんだろう、この淡い気持ちは。甘酸っぱい、爽やかな香りが鼻元をくすぐる。
ああ、初恋を思い出しているのかもしれない。まだ蝶々を見ては追いかけ、川の魚を見てはすぐに飛び込み、なぜ空は青いのかと思い悩んだあの若き日々。そんな平和な田舎町に、突如現れた都会の色を持つ大人の女性。
見たこともない色鮮やかな服を着て、歩きづらそうな靴を履いているにもかかわらず普通に美しく歩く姿。日に当たったこともないんじゃないかと思うような白い肌にはほんのりと汗水は浮かび上がり、お姉さんはふと立ち止まるのだ。
こちらに視線をくれて、手を振っている。若き日の俺はというと、木の上に登って虫の幼虫を観察していた。大人の女性とのあまりの違いになんだか恥ずかしくなり、木から飛び降りて、木の裏に回って隠れるのだ。ひょこっと顔を出して、まだ手を振るお姉さんも覗き見る。
行きたい。言って、おそらく道を聞きたがっているお姉さんに優しく道を教えてあげて、エスコートしてあげたい。でも、なぜか体は固まって動こうとしない。行けっ! ダメだ! いや、行け! やっぱダメ! なんという不毛な葛藤。世界は動き続けているというのに、あの人の少年は……。
はっ!! なんだ今の回想は!?
いやいや、俺の記憶じゃないぞ! そんな若き日を経験したことなどない! 断じてない!
この目の前の、大人の女性を一目見ただけで幻覚を見てしまったのだ。なんという魔性の魅力。あの日の少年の様に固まったままじゃだめだ。俺はあくまで仕事をしに来たんだ。聞いた話と違うだけで戸惑うな。目の前の人は仕事を任せる相手、法の番人にふさわしいかもしれない相手、猫先生なのだ!
かつての俺はどうやってこの人から授業を受けていたのだろう。きっともっと冷静になる秘訣があるのだ。一度深呼吸をして、彼女の視線から目をそらしながら質問をすることにした。
「あなたが猫先生であっているのでしょうか? 」
言葉での返事はなかった。彼女は前髪を書き上げ、イメージ通りの大人しい仕草でこくりと頷いただけだった。
ダメだ、仕草の一つ一つがセクシー過ぎて、頭がヒートアップしてしまう。
ああ、もうダメかもしれない。俺はこの人の魅力にやられてしまうのか?
本当に外の連中の仲間入りをしてしまうのか? おばちゃんに冷水をかけれれるぞ、いいのか!? いいのか!? クルリ・ヘランー!!
「久しぶりニャ。クルリ坊や」
ニャ?
「長いこと見なかったニャ。おひさニャ」
ニャニャ!
「元気にしてたかニャ? アタイは元気だったニャ。なんだか結構大人になったニャ? 」
ニャニャニャッ!?
気が付けば、猫先生の美しいほっぺから長い髭が生えていた。ポンッと頭から三角の耳も飛び出してきた。
「えっ……」
俺が戸惑っている間にも、猫先生の体にはポンポンと立て続けに変化が訪れていた。
スラリと長かった腕はモフモフの腕に変わり、脚は短いく太いモフモフした足に変わった。ちらりと見えた肉球が柔らかそうである。変化は止まらない。顔もだんだんと人から猫に変わっていき、とうとう全身がモフモフの毛に覆われた完全なる巨大猫に変身してしまったのだ。
あの美しい顔も体もどこへ行ってしまったのか。猫先生の体はドラム缶体系になっていた。
「やっぱりこっちの格好のほうが自然で美しいニャ」
……夢が覚めたよ。
「猫先生なのでしょうか? 」
「そういっているニャ。久しぶりで忘れたかニャ」
こんな強烈な人まで忘れてしまっていたのか。
「すみません。少し記憶があやふやでして。猫先生のことも完全に忘れてしまっているようです」
「そうかニャ。面倒くさいことになっているニャ。どうするニャ? 治してやろうかニャ? 」
「えっ!? 記憶を取り戻すことができるんですか? 」
「可能だニャ」
凄い! 既にすごく衝撃を与えられているのだが、まだ隠し玉があったのか。流石は猫なのに魔法を教えているだけはある。
「すぐにでもお願いします」
「それはちょっと難しいニャ。道具もいるし、環境も整える必要があるニャ」
「それくらい準備しますよ、何が必要なんですか? 」
猫先生は治療の行程を考えるように沈黙し、必要なものを整理していった。
「まずは頭を割るための杭が必要ニャ」
「待って!! 」
「何ニャ? 」
今なんて言った? 俺の聞き間違いじゃあないだろうか。
「猫先生、記憶を取り戻すために、まず杭で頭を割るんですか? 」
「もちろんニャ。杭じゃなくてもいいけど、個人的に杭が使い慣れているニャ」
なぜ杭を使い慣れている! 頻繁にわら人形を打ち付けているの!?
「他に方法はないんでしょうか? 」
「ないニャ。杭を打ち込むのはまだ序の口ニャ。その後脳みその中を少しいじくるニャ。多少性格が変わる可能性があるけど、大丈夫ニャ」
「大丈夫じゃないんだけど! いじるの!? 脳みそを!? 」
「そうニャ。杭で」
「杭で!? 」
他にいくらでもあるでしょうが!!
ダメだ、これは当てにしてはいけないやつだ。記憶は戻りました、しかし性格が変わって暴君になりました、じゃなんだか破滅しか待っていない気がする。そもそも杭で脳みそをいじくりまわされたくない。せめてさきっちょが丸いものにして。尖がっているものは怖すぎ。
「やっぱりいいです。怖すぎなので、やめておきます」
「全く、臆病ニャ。仕方ない、有料コースなら魔法をかけるだけで大丈夫だけどどうするニャ? 」
「あるの!? 他の方法!! 」
「無料だとさっきのしかないけど、有料ならもっと簡単なやつがあるニャ」
払うよ!! そのくらい!! 記憶が戻るんだもの。無料ほど高いものはないんだねー。
「ちゃんと説明してくださいよ。危うく頭に杭を打ち込むところでしたよ」
「ちょっと高いけどいいのかニャ? ヘラン産の川魚一年だニャ」
「払うけど!? そのくらい!! 」
川魚をケチって杭を受ける奴なんていないと思うけど!? 猫先生、次の患者様には是非有料コースからオススメ下さい!
「そうだ。猫先生のファーストインパクトと記憶が戻る話で忘れていた肝心なことある。そもそも猫先生には仕事の依頼に来たんだよ。知識が深く、長いこと生きている猫先生にヘラン領の裁判長になって欲しいんだ」
「え? 絶対に嫌ニャ」
おう……。あっさり断られてしまった。
魔法の腕は凄そうだし、俺の記憶を取り戻すような深い知識の持ち主。やはり適任な気がするのだが、こうもはっきり嫌と言われると交渉もしづらい。
「な、なんでですか? 」
とりあえず、理由を聞いてみることにしてみた。
「美女は束縛が嫌いニャ」
あんた猫じゃん! 別にいいじゃん!
でも、猫って束縛を嫌うっていうしなぁ。仕事に集中したりして、来なくていいときには来るくせに。
「でも魔法の先生はしているじゃないですか? あれは束縛じゃないんですか? 」
「あれは暇つぶしニャ。アタイが束縛と感じたら束縛ニャ」
うっ、そんなことを言われてしまうと、本当に勧誘が無理っぽいな。こういう美女気質がある人ってどう口説けばいいんだろう。
「仕事、楽しいかもしれないですよ? 」
「アタイは一人が好きなのニャ」
ダメだ、孤高だ。高値の花の位置にいる人だ。
「わかりました。他をあたります。じゃあ、記憶を取り戻す件だけお願いしていいですか? 」
「分かったニャ。ここの宿代は任せるニャ」
えっ……。
それは聞いてない……。
無事猫先生を屋敷に招くことはできたのだが、なんだか掌で転がされてる感が凄い。流石は猫先生、半端ないっす!