5章 16話
決行一日前。
早朝、一人早く起きて静かに家を出た。
まだ空は薄暗い。この一帯を除いて、ヘラン領は現在進行形で呪いに蝕まれている。まだ日が出ていないので薄暗いのは当然なのだが、この薄暗さも呪いのせいだと思えてくる。それだけ、頭の中は呪いのことでいっぱいだった。
エリザとは別れのあいさつを済ませていないままだ。あれからすれ違ってばかりで、話があまりできていない。でも、これで良かったかもしれない。はっきりと別れを告げれば、お互いに辛いはずだ。こんな中途半端な別れが、案外一番楽な形だったかも……。そんなことを考えながら、森の中を進んでいった。
モラン爺とペタルさんはまだ眠りの中だろう。きっと彼らなりにいろいろと悩んでくれている。エリザも寝ていると思う。彼女も複雑な思いを抱えているだろう。俺だってそうだ。思うことが多すぎて、頭がパンクしそうになる。でも、やることが決まっているだけ、俺はそれに集中できる。悩みで頭を抱える点では、俺が一番楽かもしれない。
道を進んでいくと、硬かった地面が徐々にぬかるんだ地面に変わってきた。俺は今、一人”呪いの沼”へと向かっていた。焦れて様子見に来たわけじゃない。
……今日、これから一人で究極魔法を発動させようと思っている。
早ければよりいい訳だし、究極魔法もすでに完成している。手順は全て頭の中に叩き込んでいる。あとは、日にちを待つばかりだったのだ。その日にちも俺たちが勝手に決めたもので、だから勝手に破ったって究極魔法的には何の問題もない。
ぼんやりいろんな思いでを思い出しながら歩いていたから、”呪いの沼には感覚的にすぐにたどり着けた。
目の前に広がる、広大な沼。
真っ黒な沼が一面を覆い、絶えず何かを飲み込まんとするかのように泥が地面に吸い込まれるようにうごめいている。ところどころで泡が立っているが、あれは何かを飲み込んだ後のように、満足げに沼から発せられているように見えた。
なんとも不気味な場所だ。魔力どうのこうのより、純粋に気味が悪い。もしも沼に足を踏み入れたら、それが最後、底なし沼にあの世まで連れされられるだろう。この場所を人が生み出したという事実が心底恐ろしかった。
一度腰を下ろし、この場に流れる魔力を感じてみた。
目で見るのとはまた違った恐ろしさが、そこにはあった。力づよく、ねっとりした暗い魔力がこの場には充満している。何もかもを欲して、全てを飲み干したがるような貪欲な悪意が感じられる。
呪いが復活したのは、まだそんなに前のことじゃない。でも、この”呪いの沼”はこの短期間で信じられないほどの生命力を吸収してきている。究極魔法が完成したのに呼応するがごとく、その勢いは今現在も増しつつあった。
俺は今一度、決意した。
今日、俺は究極魔法を行使して、この呪いの沼と決着をつける。
モラン爺もペタルさんも、そしてエリザも結構の日は明日だと思っている。
彼らの前で、究極魔法を行使するのはなんだか、すごく寂しい。見守られているのは、きっと心強くあるんだろうけど、それを遥かに上回る寂しさも同時に襲ってくるだろう。
これは、彼らを悲しませないために、前日に行うんじゃない。俺が、俺自身が寂しくて、わかれが辛いから前日に行うと決めた。これくらいの我がままなら、きっと許してくれるよね。
そういえば、初代ヘランも前日に一人で究極魔法を行使したんだったな。今、急にそんなことを思い出した。
きっとご先祖様もこんな気持ちだったのだろう。彼の死を寂しがる同士たちのためじゃない。彼自身が寂しさに耐えられなかったのだ。
彼の死後、多くの幸せをもたらしたし、多くに人が彼を忘れなかった。今回も、彼の半分でもいいから、そんな未来が待ってくれているといいと思った。
もう、うじうじ考えるのはやめた。
片手を力強く天に掲げ、魔力を全て解放した。
掌に赤い光が集まる。薄暗かった一帯が力強い光に照らされた。
光は徐々に熱を持ち、一度収束した。すぐに、光は膨張し、先ほどの10倍の大きさまで膨れ上がった。それと同時に、辺りに強烈な突風が吹いた。乾いた風だった。このあたりの陰気さを全て吹き飛ばすかのような心地よいものだった。
腹の中におさまる、大渦が回転を始めた。
こちらも力強い魔力と、熱を持ち始めた。大渦の回転が徐々にだが、活発になっていく。体への負担は、すでにとても大きく、今すぐにも倒れて休みたくなるほどだった。
この大きな魔力の動きに、”呪いの沼”も反応した。共鳴するかの如く、この地に渦巻いていたくらい魔力が動き出す。
ようやく、戦いの場に立てた。
深呼吸をして、目を閉じた。
全ての、本当に一滴も残さないように、体中に残る最後の魔力を解放させる。
掲げた手の光はより強まり、腹の中の渦は更に回転を速める。
準備は整った。
究極魔法がいまここに目覚めたのだ。
『クルリ・ヘランの名のもとに。我が体に宿りし、太古なる魔力の大渦よ。今こそ、その大いなる力を解放し、暗黒なる魔力を食い尽くせ』
行使条件が整い、詠唱も終えた。
これで、あとは俺の体が死に絶えるのが先か、呪いの沼の底に眠る呪いの魔力が飲みつくされるのが先か……。
魔力と魔力がぶつかり合い、その衝撃で風が地面から吹き付けてくる。最初の衝突が終わっていこう、大渦は呪いの魔力を吸い込み始めた。徐々に、俺の腹の渦が真価を発揮し始めている。
呪いを吸い込むにつれて、体には負担がのしかかってきた。気だるさや、吐き気が襲ってくる。体の重さが倍増したかのような気分になる。腕はもう鉛のように重く、固まってしまっていた。
痛みはない。それがまたなんとも怖いのだが、だからこそ耐えられてもいた。
この呪いを飲みつくすまで、俺は絶対に死なない! 今一度、決意した。
呪いも渦も、どちらも底を見せようとはしない。
どれほど膨大な存在と戦っているのか、理解させられた。苦しんでいるは自分だけで、この化け物たちはただあざ笑っているだけ……。心が弱ると、そんなことを思った。
ふっとした瞬間、鼻血が出た。感覚だけじゃない、確実に体へのダメージは積もっていた。
究極魔法を発動すれば、万事解決する。そう思っていたわけじゃないけど、ここまで辛いとも知らなかった。
脚も、一瞬でも気を抜けば、挫けてそのまま二度と立ち上がることができなくなりそうだ。
楽しいことを考えて乗り越えようにも、現状が辛すぎてとても無理だ。意識も飛びそうだ。一体、初代ヘランはこの苦境どう乗り切ったのか。やはり、とんでもない人物だったんだなと、俺だけが共有できた苦痛を経て、彼の凄さを知った。
もう、どうしたらいいかわからない。ただ耐えるだけなんだけど、それが厳しい。
もう! なにか、何か俺を発ちなおさせるような出来事は起きないか!? 頼む、何か!
「クルリ様……」
エリザの声が聞こえた気がした。
これには驚いた。ちょっとだけだが、体の苦痛が和らいだ気がした。こんな時まで、彼女には救われてばかりだ。
しかし、ここら一帯、暴風や強烈な熱に包まれ、もはや人が簡単に近づける場所ではなくなっている。残念ながら、今のは彼女の声じゃない。これの作り上げた幻聴だ。
「クルリ様! 」
耳元に大きな声が響いて、同時に頬に、とても鈍くはあったが、つねられた痛みが走った。
「え、えええ、エリザっ!?」
なんでこんあ場所にまでエリザがいるんだ? 幻か? なぜ、会いたいとき、いてほしいときに、彼女はいつも側にいるんだ!?
「クルリ様! 勝手なことをした罰ですよ」
再度強く頬をつねられた。もう、あまり痛みを感じない……。それが寂しかった。
「エリザ、ここにいたら危険だ。魔力が暴走している」
「クルリ様なら、やりかねないと思いました。一人で全部背負って遠いところに行くんじゃないかって。そんな勝手許しません! 私もここにいます」
「だめだ。君を巻き込みたくない!」
「いいえ、巻き込まれさせていただきます!」
「こんな時まで、何をそんなご丁寧に! 君ならまだこれから先の世界で、輝かしい人生を謳歌できる。ここで命を捨てる必要はない!」
「それはクルリ様も同じはずです! 絶対どこにも行きませんわ」
そういうと、エリザは胸元に飛び込んできて、ギュッと強く俺の体を抱きしめた。今更、抵抗する力なんてない。彼女が抱き着いてきた感覚ですらわずかに感じられたほどだ。それに、抵抗したくもなかった。
「ここにいたら、死んでしまう」
「かまいません」
彼女を巻き込むことがすごく怖かったが、同時に彼女が側にいることですごく安心した。もう、苦しみに負けることはないと確信もした。このままエリザが最後の時までいてくれるなら……。
「クルリ様が背負っているもの、私にも分けてください」
「……わかった」
もう、彼女はこの場から逃げられないだろう。なら、最後まで一緒にいたい。
「よかった。クルリ様がいない世界なんて、芋の入っていないシチューと同じなんですもの」
彼女のその声を聴いたのが、最後だった。
掌に集まっていた光が天にまで駆け上り、一本の赤い線を作り上げた。大渦が、最終段階の活動に入った。辺りは衝撃波に包まれ、森の木々がなぎ倒されていく。
大渦が腹の中から飛び出し、世界に顕現した。
それが最後だった、大渦は呪いを飲みつくし、同時に姿を消した。
俺の目がとらえた最後の映像は、それが最後だった。
呪いは消えた。それを何が何でも確認して、死にたかった。でも、欲を言えば、そのあとに一目でも側にいるはずのエリザを見たかったのだけど、それはかなわなかった。
クルリ・ヘランの道は、どうやらここで終わったみたいだ——。
大渦も、呪いの沼も消え失せた後の世界。
ヘランの空を覆っていた砂嵐は消え、乾いていた土地には奇跡が起き始めた。ぱさぱさの死んだ土から、一本、また一本と花が生えてきて、その花びらを満開に広げていく。
そんな奇跡が続き、あの乾いた土地が、呪いの沼が消滅してわずか数週間ののち、以前のヘラン領よりも自然豊かな土地がそこに誕生した。川に水が流れ、鳥が訪れる。虫もわき、魚の姿も見られるようになった。そして、ヘランの地を去らねばならかった人々も戻った。しかも、300年後の憂いなどない、正真正銘、豊かな土地がそこにあったのだ。
誰がやったのかはわからないが、人々の間ではすぐに噂が広がった。あの人しかいないだろうと。
この出来事は、世間で”クルリの奇跡”と呼ばれるまで、そう長いことはかからなかった。しかし、それから皆が待ち望んでいた人物、クルリは一向に姿を見せない。消息を消したまま、連絡もない。彼がいつ戻ってもいいように、新しい領主の館が建てられた。復興のシンボルの役割も果たしていたが、結局、人々が待ち続けていた間、クルリが戻ることはなかった。館は、誰も住まない空っぽの空間であり続けた。