Lesson:08
(――居た!)
ほっとする。自分でも情けないと思うが、あの翠の少年は言葉の分からないこの町で、唯一友人に近い存在なのだ。
向こうもあきらにすぐ気づいて、駆け寄ってきた。
「○%◇#」
――相変わらず、何を言っているかは分からないが。
とりあえず、先ほど覚えた挨拶らしきものを使ってみる。
「ヨラ」
「――! ヨラっ!」
ぱっと少年の顔が明るくなり、ニコニコと同じ言葉を返してきた。どうやら間違っていないようだ。
それから少年は、あきらの腕を掴んだ。
「ん? またどっか行くのか?」
昨日のことがあるので、あきらも逆らわずについていく。すると一軒の家へ連れて行かれた。
「えっと……ここ、何?」
訊いたところで、言葉が通じないから答えが帰ってくるわけも無い。
少年のほうはあきらに構わず、扉を叩いた。
「ヤー?」
中から声がして、女性が顔を出す。
「$△*□?」
少年があきらを指差しながら何か言うと、女性がすぐに戸を開けた。
「◎☆※&」
何といわれているかは分からないが、ずいぶんと丁寧な扱いをされている気がする。
だが中へ誘われたあきらは、何をすればいいのか分からなかった。ヴァイオリンとバッグを持ったまま立ち尽くす。
女性のほうはあきらと少年とを入り口に残し、一度奥へと消えた。そしてすぐに、子供を抱いて戻ってくる。
抱かれているのは薄青い髪の、可愛らしい女の子だ。年は三歳くらいだろうか?
ただ、ずいぶんと苦しそうだった。熱でもあるのか、荒い息をしながら母親に抱かれている。
と、横からつつかれた。
「何だ?」
見ると隣に居た少年が、しきりに背中のヴァイオリンを指差し弾く真似をするというのを、何度も繰り返している。
「……弾けってことか??」
首を捻りながらも、少年の言うとおりあきらはケースからヴァイオリンを取り出した。何が理由かはさっぱりだが、具合の悪いこの子に何か音楽を聴かせてやってくれ、ということらしい。
(余計悪くなったりしないだろうな)
心配になりながらも弦の音を合わせ、構える。
(何弾くかな……)
具合の悪い子供の前で、昨日のチャルダッシュなどもってのほかだろう。かえって熱が上がりそうだ。
少し迷ってから、あきらはおもむろに弾き始めた。
「アヴェ・マリア」。数ある同名の曲の中でおそらくもっとも有名な、グノー作曲のものだ。長い音がゆったりと続き、聖母マリアへの賛歌を歌い上げる優雅な曲だった。本当ならバッハの平均律からなる伴奏が欲しいのだが、ここで望むのはさすがにムリだろう。
人の声に最も近いと言われる、ヴァイオリンの音色が響き渡る。
――そして、光も。
いつの間にかG線上のアリアのときと似た、柔らかな光が周囲を舞っていた。
あきらは構わず弾き続ける。既にもう三度目で弾くとこうなるのは分かっているから、演奏を止める理由にはならなかった。
最後、高い音をゆるやかにフォルテへ、そしてピアニッシモへと下げて曲は終わった。
曲の余韻が消えるにつれ、光も消えていく。
「◇$*○」
母親が何事か叫んだ。
(熱、上がったか……?)
だいたい病人というのは安静にさせて、寝て治すのがセオリーだ。なのに抱いて起こして音楽を聞かせようなんて、無茶としか言いようが無い。
だがさすがに心配で、ヴァイオリンを持ったまま様子を見る。
(――え?)
よく見ると母親に抱かれていた子供が、先ほどのような荒い息をしていなかった。
(し、死んだんじゃないよな……)
自分の曲を聴いて死なれたなど、寝覚めが悪いどころではない。もう二度とヴァイオリンなど弾けない。
だが母親の様子を見ていると、どうも違うようだった。
大事な我が子が死んだりしたら、たいていの母親は半狂乱だろう。けど目の前の母親は最初だけは叫んだものの、あとは穏やかな表情で微笑さえ浮かべながら、子供を抱きしめている。
どうやら死んだわけではなさそうだと、あきらはほっと胸を撫で下ろした。
母親が振り向く。
「@¥#▽」
子供を脇に座らせた彼女は、やおら床に突っ伏した。額を床にすりつけ、なおも何か言っている。
「いや、その……」
何が起こったのか、事態が全く飲み込めない。
が、子供のほうを見て気がついた。




