Lesson:07
辺りはだいぶ暗くなっていた。
丘の麓の町を見ると、宵闇の中ぽつぽつと明かりが浮かんでいた。だがあきらの知っている外灯にさえ劣る、か細い明かりだ。
部屋の中もたちまち暗くなってくる。それもあきらが経験したことの無い、真の闇だ。東京やニューヨークでは感じることさえなかった、窓から差し込むわずかな星明りが、とても心強く思える。
(電灯って偉大だったんだな……)
エジソンの発明が当時どれほどのものだったか、こんなところで実感するとは思わなかった。
加えて、TVどころかラジオもCDもない。音楽を聴くことさえ出来ない。
自分がどれほど凄い世界に居たかを思い知る。トウキョウでもニューヨークでも、お金さえあれば好きなときに好きな音楽がいつでも聴けた。けれどここではたぶん、楽譜と自分の耳だけが頼りだろう。
(バッハとかモーツワルトの頃は、こうだったわけか)
この環境であれほどの音楽を作り上げるということが、どれほどの偉業だったかをいまさらながらに知る。何しろ録音が出来ないのだから、わずかなフレーズでも記録するのは容易ではなかっただろう。
そんな時代を潜り抜けてきた、クラシックとヴァイオリン。遠い過去と今とが、急に近づいて見える。
部屋の中は既に、目を凝らさないと何も見えないほどの闇だ。これで万一嵐などで窓を塞いだら、歩くことさえ出来ないはずだ。
携帯を取り出す。長時間使わなければ、太陽光充電のアクセサリがあるから何とかなるはずだ。戯れに買ってはみたものの「別に要らなかった」と後悔していたものが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
開くとディスプレイの光が部屋の中を照らし出す。闇に慣れた目には、まばゆいほどの光だ。
携帯の表示は当然ながら「圏外」。だが中の写真や音楽は健在だ。
その写真を見ているうち、なんとも言えない気分になる。自分はこの写真の中の場所へ、帰れるのだろうか?
どん底まで落ち込んだ気分になりながら、あきらは携帯を切った。この持ち歩ける超高性能精密機器は、温存しておいたほうがいい。
明かりが消えるとまたもとの暗闇で、もうすることもなく、仕方なくあきらはベッドに寝転がって目をつぶった。
興奮していて眠れないだろうと自分では思っていたのだが、ずいぶん疲れていたらしい。急に眠気を感じ、意識がそのまま吸い込まれていった。
翌朝あきらが目を覚ましたのは、すっかり日が昇ってからだった。何時かはさっぱり分からない。ただまだ、午前中だろうとは思う。
差し込む日の光で明るくなった室内で、あきらは持ち物をチェックした。
(無くなってないな)
夜の間に何かあったらとも思ったが、よく考えてみれば真っ暗な屋内だ。明かりをつけなければ移動もままならないし、そんな明かりが急に射せばイヤでも目が覚める。
こんな荒れた屋敷に寝泊りは危険かとも思ったが、案外街中よりいいかもしれない。だいいちどこかで宿を取ったらお金も取られるし、そういうところのほうが泥棒も居そうだ。
当面はこの町で日銭を稼ぎながら先行きを考えよう、あきらはそう思い始めていた。第一言葉が分からないこの状態で、違う町へ行くほうが無謀だ。
その点この町は昨日の演奏の件もあって、既にいくらか顔見知りが居る。彼らから否定的な態度も取られていないのだから、ここはある程度頼るべきだ。
我ながら図々しいとは思うが、このくらいでないと異国では生きていけないことを、あきらは経験から知っていた。
昨日もらったパンを出して朝食にする。飲み物は、ペットボトルの中に残っていた紅茶で間に合わせた。
「Milk、ここにあるかな……」
ふとそんな言葉が口を突く。アメリカ式で、朝食には牛乳を欠かしたことがないあきらだ。やはり無いと落ち着かない。
それに今日のところはこれで間に合ったが、何とかしないと夜からは飲み物に事欠きそうだ。町へ行ったら何とかして何か飲ませてもらって、出来たらこのペットボトルに詰めてもらわないと辛いだろう。
荷物を持って、屋敷を出る。
丘を下っていくとちょっと奇妙な畑の中に、今日は点々と人の姿があった。きっと畑仕事は朝にするもので、昨日は午後だったためにもう人が居なかったのだろう。
「ヨラ!」
あきらが歩いて行くと、たまに顔を上げて声をかけてくれる人もいた。昨日の演奏のときの観客かもしれない
「よ、ヨラ!」
掛け声を真似して返してみると、中年の男性が笑顔になる。思ったとおり挨拶の言葉だったようだ。
「#@△%◇」
次いで早口で何か言われたが分からない。仕方なくあきらは急ぐフリをして、昨日覚えた別れの挨拶をしてみた。
「ラダ」
「オー、ラダー!」
人のよさそうな顔と声とに送られて、あきらは先を急いだ。
丘を下りながら同じようなやり取りを2~3回繰り返し、昨日と同じように町へ入って歩いていく。
(あの子、居るかな)
人口がそう多いわけではないが、何しろ名前さえ分からないのだ。あきらからは探しようがない。
昨日のことを覚えているようで、町の人に時々声をかけられながら、あきらは演奏した場所へ急いだ。




