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Lesson:03

 中のくぼみにぴったりと填まったヴァイオリンは、ネック――細長く突き出した部分――をストラップで留めていたのもあって、まったく変わりなかった。弓も問題ない。

 出してA線を弾き、その音を聴きながら調弦――弦の張りを調整して音を合わせること――し、さらに隣の弦と二本同時に弾いて音を合わせていく。


 いつもの手順を踏んでいるうちに、冷静になってきた。

 あきらは元から現実主義だ。なってしまったものは仕方がない、そう割り切って淡々と対処するのが常だった。

 そのせいか、やれクールだの冷たいだのと周囲は言う。だが一方で、そういう冷静な自分をあきらは嫌いではなかった。


 何かにつけて騒ぎうろたえる女たちは、見ていて馬鹿馬鹿しい。ましてや自分がそんな風に振る舞うなど、間違ってもしたくない。それが一つ間違えば簡単に転落人生を送れるブロンクスで、あきらが学んだことだった。

 ともかく、ここでくすぶっていても仕方がないのは確かだ。


(――よし)


 せっかく音を合わせたヴァイオリンで、一曲だけ弾こうと思った。そして曲が終わったら、あの町へ行こう。

 ほんの少しだけ迷って、弾き出す。長く艶やかな音が空へ溶けていく。


 「G線上のアリア」。音楽の父と呼ばれるバッハの曲だ。けして難しい曲ではないが、ゆったりとした曲想で数百年もの間愛されてきた名曲だ。

 母も、この曲が好きだった。


 母からヴァイオリンを習いだして一通り弾けるようになった頃、リクエストされた。そんなことをされたのは初めてで、だから喜んで欲しくて必死で練習した。

 母の誕生日に何とか間に合わせ、二人だけの誕生パーティーで、母の前で演奏した。今思えばお世辞にも上手いとは言えなかったのだが、母は泣きながら喜んでくれた。


 あれが、自分の原点だと思う。

 だからだろうか? 何か大きなことがあったとき、あきらはいつもこの曲を弾く。

 母の葬儀のとき、日本へ行くと決めたとき、見知らぬ日本へ着いたとき。人生の変わり目に、いつもこの曲を弾いた。


 ――そして、今も。


 何が起こったのか分からない。これからどうなるかも分からない。だが踏み出さなければならない。

 同じような気持ちになったことは、四年前にもあった。母が死に、思いもかけず日本へ行くことになったときだ。


 母の葬儀の後、父親がいることさえ知らずに育ったあきらの前に、突然「父親だ」と名乗る日本人がやってきた。そして「日本へ来ないか」と誘ってきたのだ。

 正直「何をいまさら」と思った。そんな地の果ての国へ、しかも知らない男の家へ行くなどゴメンだとも思った。


 気が変わったのは、その父親とやらが「音楽の勉強を好きなだけさせてやる」と言ったからだ。それに親類もなく天涯孤独となってしまったあきらには、他に選択肢はなかった。だから半分仕方なく、あきらは全てを捨てて日本へ来たのだ。


 僅かな荷物をトランクに詰め、ヴァイオリンを背負って独り飛行機に乗り、ナリタに着いたあの日。見慣れない文字と聞き慣れない言葉の中、ひしひしと感じた孤独と不安。

 今また、同じものを感じる。そして状況はたぶん、あのときより悪い。


 だがここに座り込んでいても、きっと事態は動かない。

 だからこの曲を弾いて、踏み出す。先のことは分からないけど、歩き出せば何とかなるだろう。

 高く、低く、弦楽器独特の優雅な音が響き渡る。


(――え?)


 音が空気を震わせ風に溶けるのは理解できる。だが、光の粒まで舞っていないだろうか?

 驚いて弾くのをやめると、余韻を残して光も消えた。後に残ったのは、荒れ果てた庭園だけだ。

 首をひねりながら続きを弾き始める。するとまた、周囲を光が舞う。


 弾いてはやめ、やめては弾きを何度か繰り返して、どうも「弾いている間に起こる」ことだけは分かってきた。

 けれど理由は分からない。


(まぁ、今考えても仕方ないか……)


 こんな場所へいきなり来てしまっただけでも、十二分におかしいのだ。さらにおかしなことが、一つや二つは起こるだろう。

 周囲を舞う光の粒に見とれながら、アリアを弾き終える。


「……行くか」


 ざっと手入れしてヴァイオリンを仕舞い、最初と同じようにケースとバッグを背負う。

 とりあえずは、向こうに見える町らしきところへ行くつもりだった。ここがどんなところかは分からないが、ともかく人の多いところへ行くほうがいい。


 歩き出す。

 塀の破れ目から外へ出て丘を下ると、野原と思ったのは一面の畑だった。ただこれも葉がいろいろな色で、あきらの知っている野菜とはだいぶ違った。ただ畝があり、植物が整然と並んでいるから、やはり畑だろう。


 少し行くと、いわゆる「町並み」が広がっていた。人も都会ほどではないが、それなりに行き交っている。

 日本とは違って、人々の髪は色とりどりだった。茶、金、赤だけでなく、何故か水色や緑の人まで居る。けれど全体的な体格などは、そう違いがなさそうだ。髪の色さえ除けば、見た目はあきらとほぼ同じだった。


 物珍しさであちこちキョロキョロしそうな自分を押さえ込む。こういうところでいかにも余所者といった、不安気な態度は禁物だ。ブロンクスでそんなことをしたら、たちまち良からぬ輩のカモになる。堂々としていたほうがいい。

 だから真っ直ぐ前を見据えて、胸を張って歩く。






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