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Lesson:02

 進めないのならば、戻ればいい。一度駅まで帰って、タクシーを拾おう。だがそう思って踏み出した先で、世界が「切れた」。

 ドアをくぐったように、舞台で場面が変わるように、突然周囲がぶれて消えた。

 そして盛大に鳴り響く、「新世界」。

 ただブラックアウはすぐに戻り、次いで周囲のぶれもおさまる。


「どこだ、ここ」


 視界に入ったのは、住宅街とは似ても似つかない石作りのの部屋だった。

 石組みの床に、石組みの壁。けして広くはない。机とベッドと本棚を置いたら、ソファは置けるかどうか。何とかソファを置いたとしても、テーブルは厳しい。その程度の広さだ。

 そして石の床には――。


「ズラかるか」

 血泡を吹いて倒れている老人を見て、そんな言葉が口をついた。

 それでも一応近づいて、首筋に触れてみる。痩せた身体はまだ温かかったが、脈はなかった。


 背中のヴァイオリンケースを背負いなおし、ショルダーバッグもかけ直す。

 死体からはとっとと離れたほうがいい。それがあきらが、過去の経験から学んだことだ。傍でモタモタしていて、殺しに関係があると思われたらたまらない。

 そこまで考えてあきらは苦笑した。やはり自分は「日本人」とは言えない。


 帰国子女は他にもたくさん居るが、あきらはとびきりの変り種だ。

 今は御園生・ムーサ・水晶だが、四年前まではアキラ・ムーサ・ハミングウェイ。ニューヨークで歌手の母と暮らしていた。


 まぁ歌手と言っても町のバーで歌う程度で、当然収入などたかが知れている。だから住まいは家賃が安い、ブロンクスの公営アパートだった。

 そういう場所だから、ちょっと路地裏へ入ればとんでもないものと出会える。死体から麻薬まで何でもありだ。


 だからあきらにとって、行き倒れなど珍しくもなかった。

 分かっているのは、こういう厄介なものの傍には居ないほうがいい、ということだけだ。何もしなくとも厄介ごとは向こうからやって来るが、傍に近寄って増やす必要はない。


 いつの間にか、あの曲は聞こえなくなっていた。

 結局なんだったんだろう、そう思いながら石の部屋を出て、石の階段を上がって――地下室だったらしい――さすがに絶句する。

 出た先は、半分崩れた建物の中だった。

 少し歩いてみると、荒れ果てた、だが広い庭園らしき場所へ出る。


「マジでどこだよ……」


 あきらは元々植物にはあまり興味がなかったために、種類も良く知らない。ただ青い葉があったり黄色い葉があったり紫があったりと、あきらが知っている「生い茂る緑」ではなかった。

 ところどころ壊れた塀の隙間からは緩やかな斜面と、その先の町並みとが見える。

 遠くて分かりづらいが、この建物とよく似た石造りの二~三階建ての家々だ。どちらかと言えばヨーロッパの町並みに近く、間違ってもさっきまで見ていた住宅街ではない。


 足が震えだした。

 背中のヴァイオリンケースがカタカタと揺れる。


 ――知らない、場所。


 今まで意識の外に追いやっていた事実が、急に迫ってきた。

 きっとあの時、「新世界」が鳴り響いて世界が「切れた」あの瞬間、ここへ来てしまったのだ。


「冗談じゃないぞ……」


 日本の生活がそれほど気に入っていたわけではない。それでも音大へ行ってきちんとレッスンを受けられていた。衣食住にも困らなかった。

 だがこんな見知らぬ場所に独りでは、そういった些細なことさえままならないはずだ。かつて住んでいた場所が場所だっただけに、「食うに困る」のがどういうことかはよく分かる。


 あきらは急いで地下の、最初に見た部屋へ戻った。何か帰る手掛かりがあるとすれば、あの部屋しかない。

 だがそこは事切れた老人が倒れているだけで、どんなに壁を叩いてもどんなに床を探っても、何も見つけられなかった。


 さすがに途方にくれる。

 もう一度外へ出てみると、さっきより日差しが弱くなっていた。ここでもそのうち、夜になるのだろう。


 と、不意にお腹が鳴った。

 こんなときでもお腹が空くんだな……などと妙なことに感心しつつ、夕食前だったことを思い出す。

 本当なら今頃、自宅で夕食にありついていたはずだ。


(タエさん、心配してるだろうな)


 自宅に通いで来てくれていたhousekeeperのことを思い出す。ちょっと太めの気のいい女性で、母親を亡くしたあきらのことを不憫がって、ずいぶんと可愛がってくれた。

 気乗りしないまま、それでも日本に居られたのは、彼女の力も大きい。父親との関係は冷え切ったままだが、音楽と温かい食事とがあきらをあの家へ居つかせていた。


 もう一度、お腹が鳴る。

(どうにかしないと……)

 よく分からないところへ来たからといって、お腹が空かないわけではないらしい。だとすれば何もしないでいたら、そのうち餓死だ。

 こんな場所へ来た挙句そのまま死ぬのは、さすがにご免だった。


 考えてみる。

 肩から掛けているショルダーバッグの中にはお菓子とガム、それにペットボトルが1本入っているだけだ。あとは教本各種、筆記具といった、大学で使うものだけだった。

 携帯電話と財布もあるが、これは意味がなさそうに思える。むしろいつも首から掛けている金の鎖と金貨――昔、母が持たせてくれた――のほうが、よほど使い道がありそうだった。


 あと持っているのは、何よりも大切な母の形見のヴァイオリン。

(――傷、ついてないだろうな)

 急に心配になって、ケースを降ろして開けてみる。





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