Lesson:10
「ムーチ!」
「ヤー、ハウイ?」
昨日の女性が少年に答える。
「#◎△%」
女性に向かって、少年が嬉しそうに何かを話している。が、途中ではっとした表情になり、あきらのほうをちらりと見た。そして慌てた様子で、女性に向かって例の唇を閉じる動作をしてみせる。
(あいつめ、さっきのこと言ったな。しょーがないやつ)
この女性と少年は親しいようだから、つい口が滑ってしまったのだろう。
ただ女性のほうは、あきら以上に事情が分かっているようだ。心配ない、というようにあきらの肩を叩くと、やはり唇を閉じるしぐさをした。黙っておいてくれるらしい。
(もしかしてああいうの、そんなに珍しくないのか?)
反応を見る限りヴァイオリンで病気を治すのは、ここでは驚くことではないようだ。ただみんながすぐ口を噤むのに同意するところをみると、大っぴらにやれることでもないらしい。
(呪術みたいなもんなのかな)
中世の頃は――地域によっては現代でも――病を治すのは、祈祷師や呪術師の仕事だったはずだ。
そしてここでヴァイオリンを弾くと、不思議な光が舞うのは分かっている。だからその辺から、ヴァイオリンが何か効果のあるものとして考えられていてもおかしくない。
(だとすると、どっかにヴァイオリンの工房があるのか?)
もしヴァイオリンがそういう位置づけなのだとしたら、他にも同じような奏者が居て、作ったり修理したりするための工房もあるはずだ。
探したほうがいいな、とあきらは思った。すぐに帰れるアテが無いことを考えると、何かあったときはその工房に頼るしかない。
幸いあきらのヴァイオリンは、つい最近弓の毛を変えたばかりだ。そしてその際に弦も張り替え、予備も買ってケースの中に入れてある。だから丁寧に使えば、あと1年は問題ないだろう。だが実際には何があるか分からないし、1年か1年半後には間違いなくメンテナンスが要る。
もちろんそれまでに帰れれば問題ないが、もし何年単位の長期戦になった場合には、工房のあるなしは大きかった。
そして自分が考えたことで気が滅入る。
(何年とか、冗談じゃないな)
自分にとって、ここは異邦だ。少々気に入らなくても何でも、日本のほうが遥かにマシだ。
もし可能だというなら、今すぐにでも帰りたい。なのに相変わらず、ここがどこかも、どうやったら帰れるかも分からないのだ。
さすがにため息が出る。
気づくと、少年が心配そうにあきらの顔を覗き込んでいた。
「シー・ネイ?」
そう呼びかけてくる。
「しーねい?」
そういえば病気だった子も同じことを言っていたなと思いつつ訊き返すと、少年はあきらを指差した。
「シー・ネイ」
そして何か思いついた様子で、少年が自分を指差して言う。
「ハウイ」
何のことだろうと少し考えて、あきらは気がついた。さっきここの屋台の女性も、確かこの翠の少年に「ハウイ」と言っていたはずだ。
(――名前か!)
ダメ元で少年を指差し言ってみる。
「ハウイ?」
「ヤー!」
少年が笑顔になった。
「メヌ、ハウイ。シー・ネイ?」
前半は自分を指し、後半はあきらを指して言う少年。自分は「ハウイ」、あきらは「シーネイ」かと言っているらしい。
だが否定しようとして、それさえ出来ないことに気づく。Noという意味の単語が分からない。
しばらく考えて、あきらは自分を指差しながら答えた。
「メヌ、あきら」
「ア、キ、ラ?」
「ヤー」
ぱん、と少年が手を打つ。伝わったようだ。