Lesson:01
ヴァイオリンはこの世界に姿を現した時、既に完成された形だったという――。
日が落ちて暗くなった町を、あきらは歩いていた。
何故か今日は、「新世界」の第四楽章の冒頭が頭の中を巡って離れない。
「新世界」の第四楽章は、ドヴォルザーク作曲。日本人なら誰でも、聞けば分かる有名な曲だ。
それがずっと、頭の中でリピートしている。
何か特定の曲が頭にこびりつくことは今までにも時々あったが、今日のはずいぶんとしつこかった。
大抵はこういうことがあっても、レッスンになれば消えてしまう。他の曲を何回となく弾くのだから当然だ。そしてレッスンが終われば、そのままもう思い出すこともない。
だが今日のはどういうわけか、いつの間にか復活してくるのだ。何かに集中していれば消えてしまうが、気が緩むとまた頭の中を回る。
「あきら、疲れてるんじゃ?」
数少ない友人たちにそれを話すと、みな口々にそう言った。たしかにそうかもしれない。
そして会話はこう続いた。
「でもさ、ほーんとあきらの名前って、漢字珍しいよね。水晶って書いて、あきらなんて」
「うるさいな」
名前のことは、少々コンプレックス気味だ。今まで出会った人全員に、名前の読み方を訊かれた。
どうやらこの読み、とても難しいらしい。だったらいっそひらがなか、ローマ字にしてしまえばよかったのに、と思う。ただ役所に書類を出したのは父で、漢字は勝手に決められてしまった。
――まぁ自分に訊かれても、それはそれで困るが。
あきらは帰国子女で日本へ来てから四年になるが、漢字は苦手だ。さすがに今はよほどでなければだいたい読めるが、やはりアルファベットのほうが目に馴染む。
今でもこんな調子なのだから、帰国当時に「自分の名前の漢字を決めろ」と言われても、結局は親に任せるしかなかっただろう。
だからと言って何も水晶――crystalなんて字を当てなくてもいいとは思うが。
と、あきらは異変に気付いた。おかしい。
金持ちばかりが住むこの地域はresidence――日本語で邸宅だったか――ばかりなのだが、その中でひときわ目立つ家がある。
ピンクの壁にグリーンの屋根。庭には何やら良く分からない、丸っこい陶器の人形群。住人が何を考えているのかはさっぱりだが、毛色が違うことだけは確かだ。
いずれにせよ目立つので、家から駅までの目印になる。だいたいこの家までくれば道のりの半分だ。
ただ問題は……さっき見た気がする。
あきらは頭を振った。このところレッスン時間を増やしているから、思っているより疲れているのかもしれない。
そして同時にまたあの曲、「新世界」の第四楽章が聞こえていることに気づく。
(――え?)
自分で考えてからはっとした。
昼間は確かにあの曲が聞こえていたが、頭の中でだ。朝CMで聞いた曲が頭にこびりついてエンドレスで巡るのと同じで、耳から聞こえていたわけではない。
だが今は、間違いなくどこかから聞こえていた。
あり得ない。ここは通りの真ん中で、オーケストラなど居るわけがない。誰かがCDなどを家で大音量で聴いていたとしても、歩いていれば聞こえなくなる。
なのにどこからか響いていた。
自然と急ぎ足になり、背中のヴァイオリンケースが歩調に合わせて揺れる。
母の形見の大切な品だが、この程度の揺れなら大丈夫だろう。何しろヴァイオリンはケースの中でもベルトで止めてあって、そう簡単には動かない。
まだ例の曲が聞こえる中、暗い道の中に浮かぶ白い壁。それが無限に続くように見えて、あきらはさらに歩調を早めた。
だが。
「マジか……」
白が続く中に浮かぶ、ピンクの壁。庭に置かれた、丸っこい陶器の人形群。間違いなくさっきの家だ。
おかしい。絶対におかしい。
さっきこの家の前を通り過ぎて、まっすぐ自宅へ向かったはずだ。なのにまた、同じ家の前に来ている。
足を止めて辺りを見回す。
――いつもと変わらぬ住宅街。
そのとき、曲が少しだけ大きくなった。
もう一度、今度は走り出す。さっさと家へ帰って、何か飲みものでも淹れよう。それから練習中の曲をさらって、新しい曲の譜読みもして……。
が、あきらはまた立ち止まった。
ピンクの壁に緑の屋根。庭に置かれた丸っこい陶器の人形群。
「どうなってんだよ」
言葉が闇に散る。足が動かなくなる。
この家はどう考えても少なくとも二度目、最悪で四度目だ。だが一度だって引き返したりしていない。なのにどうして、何度も同じ家を見るのか。
そして曲が、また少し大きくなる。
背筋を冷たいものが伝うのを感じながら、あきらは必死に考えた。
間違いなく進んでいるのだ。それだけは神に誓ってもいい。なのに進めないのだとすれば。
(――よし)
あきらはくるりときびすを返した。