第9話: 夜中にノックする
日の村という小さな村に、朝がゆっくりと訪れた。
村のはずれに広がる畑は、まだ薄い霧に包まれている。木々の間から漏れる朝日が、草の上の露を小さなガラスの粒のように輝かせていた。
村はいつものように穏やかだった。
だが、村の外れに建つ質素な木造の家の中では、朝がいつもと少し違って感じられた。
窓際の小さなテーブルの上には、白い布にくるまれた一人の赤ん坊が横たわり、天井を見つめていた。
その瞳は大きく見開かれている。
色は深紅……いや、ほとんど黒に近い色だった。
そばには若い男が立っており、困惑した表情で赤ん坊を眺めていた。
彼の名は不知火明原。
だが村の人々は、彼を別の名で知っている。
黒鉄 彰という名で。
明原は小さくため息をつき、頭をかいた。
「さて……」
彼は赤ん坊を見つめた。
「……本当に、俺の家の前に置き去りにされたらしいな」
赤ん坊は瞬きもせず、ただ彼を見上げている。
明原はゆっくりと赤ん坊を抱き上げた。
一体全体、どういう状況なのか見当もつかない。
昨夜はいつものように寝ようと思っていただけだったのに。
だが今、彼は自分の家で、見ず知らずの赤ん坊を抱いて立っているのだ。
明原は再び小さな顔に目を向けた。
そして赤ん坊が瞳を完全に開いた瞬間――
明原は言葉を失った。
彼の目が細まる。
この瞳は、あまりにも奇妙だった。
深い紅。
闇。
そして、底知れぬ深さ。
その瞳は、彼に何かを思い出させた。
誰かの瞳を。
二年間、心の奥底に封じ込めていた記憶が、突然よみがえる。
紅く染まった空。
戦場を埋め尽くす炎と魔力。
そして、その混沌の真っ只中で……
同じように暗い瞳が、自分を見つめていたことを。
魔王アルギエルの瞳だ。
明原は眉をひそめた。
「まさか……な」
彼はゆっくりと首を振る。
「ただの偶然だ」
自分に言い聞かせるように心を落ち着かせようとした。
この子はただの人間の赤ん坊に違いない。
あの過去と関係があるはずなど、ないのだと。
明原がもう一度赤ん坊を見ると、赤ん坊は依然として彼を見つめたままだった。
その時、突然――
赤ん坊が口を少し開けた。
小さな声が漏れる。
「……ノ……」
明原は瞬きをした。
赤ん坊が再び声を出そうとする。
「……ノア……」
明原の体が凍る。
「……ノア?」
赤ん坊はくすくすと笑った。
まるで、それが自分の名前だと肯定するかのように。
明原は信じられないという顔で赤ん坊を見た。
「嘘だろ……」
まだ言葉も話せないはずなのに。
いや、話せているようにしか聞こえなかった。
明原は大きく息を吐き出した。
「わかった……」
彼は微かに笑みを浮かべた。
「それがお前の名前なら……俺はそう呼ぶことにする」
彼は優しい眼差しで赤ん坊を見つめた。
「これからお前の名前はノアだ」
小さな赤ん坊はまた柔らかく笑った。
その名前を聞いて、本当に嬉しそうに。
数時間後、日の村の日常はいつも通りに流れていた。
だが、その日だけは少しだけ違う光景が見られた。
村の土の道を……
一人の男が、肩の上に赤ん坊を乗せてゆっくりと歩いている。
紛れもなく明原だ。
そして彼の肩に乗っているのが、ノアだった。
数人の村の子供たちが興味津々に駆け寄ってくる。
「わぁ!」
「赤ちゃんだ!」
明原は小さく笑った。
「おいおい、あまり近づくなよ」
一人の子供がノアを指差す。
「かわいい!」
ノアは大きな瞳で彼らを見つめ返した。
通りかかったおばあさんが足を止め、その様子を見て微笑んだ。
「あらあら、彰……いつの間にこんな大きな子供ができたのかね?」
明原は思わずむせ返る。
「違うんです!」
子供たちは大きな声で笑い出す。
「アキラが赤ちゃんを持ってるー!」
「アキラがパパになったー!」
明原は諦めたようにため息をついた。
「……一時的なものだ」
自分でもその言葉が本当かどうかはわからなかった。
だが今は、この子を守ってやらなければならない。
見捨てておくなんて、できるはずがない。
一方のノアはというと、明原の肩の上がよほど居心地が良いのか、彼の髪の毛をつかんでくすくすと笑っている。
明原は村の中をゆっくりと歩いた。
行く先々で村人たちが微笑みを投げかけてくれる。
心が温かくなるような時間だった。
こんなにも穏やかで、単純な日々を送るのは、一体どれくらいぶりだろうか。
戦争のない世界。
グランドマスターとしての重責もない世界。
ただ、小さな村での普通の生活。
そして今……
一人の謎めいた赤ん坊が、彼の日々の一部となったのだ。
太陽がゆっくりと山の彼方に沈み、空は柔らかいオレンジ色に染まっていく。
明原は家に戻り、ノアを小さなテーブルの上に下ろした。
「さてと……」
彼は温かい水を用意する。
「少しきれいにしてやろうな」
身体を拭かれてもノアは一度も泣かなかった。
むしろ、とても落ち着いているように見えた。
そして、ずっと明原の顔を見つめ続けている。
明原は不思議なことに気がついた。
普通、赤ん坊はすぐにぐずったり泣いたりするものだ。
だがノアは、この子は滅多に泣かない。
最初に出会った時に一度泣いたきり、それ以来……
自分のそばにいる時は、いつもこうして静かにしているのだ。
明原は柔らかい布でノアの髪を拭いてやりながら言った。
「本当に、不思議な子供だな」
だが彼の心の奥底では、一つの疑念がくすぶり続けていた。
あの瞳。
過去を思い出させる、あの紅い瞳のことを。
明原はノアを見つめた。
だが今は、あまり深く考えないことに決めた。
謎は、急いで解き明かす必要などないのだから。
――その頃、日の村の外れでは――
夜風が長い土の道を渡っていく。
一人の少女が、ゆっくりと村の門へと向かって歩いていた。
黒いマントが風になびく。
銀色の髪が、月明かりの下で淡く輝いている。
彼女は門から数メートルの地点で足を止めた。
その瞳が、小さな村を静かに見据える。
彼女の名はリオラ・レイゼン。
長い旅の末……
冒険者たちの報告にあったこの場所に、ついに辿り着いたのだ。
「……日の村……」
彼女はその名を小さく口にした。
家々の明かりがぽつりぽつりと灯っている。
とても平和な村に見える。
まさか、あの伝説のグランドマスターがこのような場所に隠れ住んでいるとは、到底思えないほどに。
だが、彼女の胸の内には確かな予感があった。
リオラは一歩踏み出し、村の中へと入っていく。
――明原の家に戻る――
夜が完全に訪れていた。
小さな部屋の中では、ランプの明かりがゆらゆらと揺れている。
明原は入浴を済ませ、髪がまだ少し湿った状態で、くつろいだ服に着替えていた。
ノアはテーブルの近くにいる。
大人しく座り、部屋の中をきょろきょろと見回していた。
その時、突然――
ノアがゆっくりと扉の方を向いた。
その瞳がわずかに細まる。
まるで、何かを感じ取ったかのように。
数秒の後。
コンコンコン。
扉を叩く音が響いた。
明原の動きが止まる。
彼は戸口の方を見つめた。
「こんな夜遅くに誰だ……?」
彼はノアの方を見た。
「ちょっと待ってろ」
明原は赤ん坊を抱き上げると、自分の上着の中にそっと隠した。
なぜそんなことをしたのか、自分でもわからなかった。
ただ、本能的にそうしたのだ。
明原はゆっくりと扉へと歩み寄る。
手が取っ手に触れる。
そっと扉を開けた。
冷たい夜風が家の中に流れ込んでくる。
そして、扉の外には――
一人の少女が静かに立っていた。
ながい銀髪。
風にはためく黒いマント。
その瞳は、嵐の空に走る稲妻のように鋭く、冷ややかだった。
明原の体が凍りつく。
少女もまた、一歩も動かない。
時間が止まったかのような静寂。
聞こえるのは風の音だけ。
少女の瞳が、驚きと困惑に満ちて明原の顔を見上げる。
やがて、彼女の唇が動いた。
声は小さく、まるでささやきのようだった。
「……アキハラ?」
それはリオラ・レイゼン。
『雷帝』と呼ばれたグランドマスター。
そして、二年の時を経て
ついに、明原の過去が彼の扉を叩いたのだった。
「次回更新: 4月 12日 20:20」




