第7話:旅の始まりとなる稲妻
ソルヴァリア王国の都は、依然として深い夜の帳に包まれていた。
城壁沿いには松明の明かりがともり、白い石畳の床に暖かな炎の影が映っている。だが、大広間の空気だけは、決して温かくはなかった。
重たい沈黙が、場全体を支配している。
各地から集まった冒険者たちは、皆うつむき加減に立っていた。
剣の柄をきつく握りしめる者、
ただ黙って床を見つめる者――
そして広間の奥、高い玉座に腰かける国王の顔には、深い落胆の色が浮かんでいた。
報告が終わったばかりだった。
その言葉は、多くの者たちの最後の希望を打ち砕いた。
広間の中央に立つのは、短い茶髪の男。
旅装束にはまだ土埃が付いたままだ。
名をラインハルト・ヴァレン。
長い捜索の旅から、ようやく帰還した冒険者である。
彼は一度、静かに息を吐いてから口を開いた。
「陛下…我々は東の領土にある最後の村まで、すべての地を探し尽くしました」
国王が彼を見つめる。
「…火の村、か?」
ラインハルトはゆっくりと頷いた。
「はい」
数秒の間を置いて、彼は続ける。
「…だが、その方の痕跡は、一つとして発見できませんでした」
沈黙。
それはまるで、広間にいる全員が呼吸を止めてしまったかのような、完全なる静寂だった。
国王はゆっくりと目を閉じた。
その声は、まるでささやきのように低く響く。
「つまり…この二年間の捜索は…」
ゆっくりと瞳を開ける。
「…徒労に終わった、というのだな」
ラインハルトは深く頭を垂れた。
「…申し訳ございません」
周囲の冒険者たちは拳を握りしめる。
中には、感情を押し殺すように一層深くうつむく者もいた。
二年間。
彼らはたった一人の人物を探し続けた。
世界を救った英雄。
一人の大師範を。
だが今――
多くの者が、苦い現実を受け入れ始めていた。
炎の大師範、不知火明原は、
この世から完全に姿を消してしまったのだと。
その群衆の中で、ただ一人、黙って立っていた少女がいた。
銀色に輝く長い髪。
その瞳は、嵐の空を走る稲妻のように鋭い。
名はライオラ・ライゼン。
年齢はまだ十八歳。
だが戦場では、『雷の大師範』としてその名を恐れられている。
ライオラは何も言わなかった。
だがその視線は変わった。
真剣な面持ちでラインハルトを見つめる。
「…消えた…?」
その言葉が頭の中で反響する。
――違う。
私は信じない。
二年も前、彼女も同じ戦場に立っていた。
魔王との決戦の地で。
明原の操る炎が、どれほどの闇をも切り裂いて見せたか、
彼女はその目でしっかりと見ていたのだ。
あのような男が…
こんなにもあっさりと消えるはずがない。
ラインハルトが報告を続ける。
「東の領土の村々はすべて調べ尽くしました。辺境の地まで、隈なく」
彼は言葉を切る。
「だが、炎の大師範を見たという者は、一人も存在しなかったのです」
周囲からざわめきが漏れ始める。
人々の希望は、少しずつ音を立てて崩れていく。
国王が長いため息をついた。
「最後の村にさえ、手がかりがないのであれば…」
彼は広間の床を見つめる。
「我々は現実を受け入れるべきなのかもしれぬな」
その言葉は重たい。
だが、部屋の中の多くが、それを真実だと感じ始めていた。
多くは…
だが、全員ではない。
ライオラは拳を握りしめた。
手の平の中で、小さな稲妻がパチパチと細かく鳴っている。
彼女は感情を抑え込むように、わずかにうつむく。
「…嫌だ」
くるりと背を向ける。
誰に断るでもなく、何も告げることなく。
彼女は大広間から、外へと歩き出した。
城のバルコニーに出ると、夜風が彼女を迎えた。
空は厚い黒雲に覆われ、ゆっくりと流れている。
遠くで、稲妻が一瞬、世界を青白く照らしては消えた。
ライオラは欄干に寄りかかり、遥か彼方の地平線を見つめる。
頭の中には、古い記憶がよみがえっていた。
二年前の戦場。
炎と魔力で真っ赤に染まった空。
四方八方から襲い来る悪魔の軍勢。
その混沌の真っ只中に、太陽のように輝く剣を携えた男が立っていた。
明原。
彼はいつだって最前線で戦い、
皆を守ってくれていた。
ライオラは、最終決戦の前の出来事を今でもはっきりと憶えている。
岩山の頂上で、二人並んで立っていた時。
彼女は彼に、どうしても伝えたい言葉があった。
だが、戦いの火蓋はあまりにも速く切って落とされた。
そして、戦いが終わった後――
明原は忽然と姿を消してしまったのだ。
ライオラは唇を噛む。
「私、まだ何も言ってないのに…」
手の中に再び雷光が宿る。
蒼い閃光が、夜の空気の中でゆらめいた。
「貴様が死んだなんて、私は絶対に信じない」
手を握りしめると、雷光は消える。
そして彼女は、小さく、だが確かな声で呟いた。
「必ず、見つけてみせる」
ライオラはソルヴァリアの出身ではない。
彼女は北の大地に栄える、別の王国の者だった。
オーレリオン王国。
そこは古くからの貴族が多く住む国で、
ライゼン家もまた、雷を操る力を代々受け継ぐ名家の一つだった。
父親は王国でも尊敬を集める大貴族である。
だがライオラは、宮廷での暮らしにはまるで興味がなかった。
彼女が望んだのは戦場。
他の大師範たちと肩を並べて戦うこと。
明原と共に在ることだった。
だからこそ、彼女は頻繁に他国へと旅をしていた。
このソルヴァリアへ来たのも、いつものような訪問のつもりだったのだ。
任務をいくつか終えて、束の間の休息を…と思っていただけだった。
まさか、こんな知らせを聞くことになろうとは。
「明原が…消えた…」
――いや。
そんなこと、絶対に認めない。
夜が更け、ライオラは城内の武器庫へと足を踏み入れた。
そこは静まり返り、
壁には歴代の大師範たちの武器が飾られている。
ライオラは真っ直ぐ自分の棚へ向かい、
銀色の金属で鍛えられた細身の剣を手に取った。
その刀身からは、微かな電撃のエネルギーが立ち昇っている。
次いで、黒い旅外套を取る。
肩の部分には、大師範の証である稲妻の紋章が輝いていた。
彼女はゆっくりとそれを身にまとう。
「皆が探すのをやめるなら…」
金属製の鏡に映る自分自身を見つめる。
「私は、絶対にやめない」
一方その頃――
遥か遠く、火の村と呼ばれる小さな村では。
時はいつもと変わらず流れていた。
暖かな日差しが降り注ぐ朝。
子供たちが土道を走り回り、
村人たちが市場で店を開けている。
そして、質素な木造家屋の庭先では――
一人の青年が、屋根の修理をしていた。
村の人々は彼を『黒鉄 明』と呼んでいる。
だがそれは、平穏に生きるための新しい名前に過ぎない。
彼の本当の名は、不知火明原。
手にしていた金槌を下ろしたその時、
下の方から小さな子供の声が上がった。
「アキラ兄さん!」
明原が振り返ると、一人の少女が手を振っている。
「家を直してくれて、ありがとう!」
明原は柔らかく微笑んだ。
「どういたしまして」
火の村での生活は、実に穏やかだった。
戦争もなければ、悪魔もいない。
『大師範』としての重責も、ここには存在しない。
ただ、ごく普通の日々が流れているだけだ。
だが、夜が訪れた時――
明原は家の外に立っていた。
静かな夜の空。
冷たい風がゆっくりと吹き渡る。
その時、突然。
遠くの山並みの向こうで、稲妻が閃いた。
光はほんの一瞬だけだったが、
彼の目にははっきりと捉えられた。
明原は目を細める。
「…稲妻…?」
彼はその方角をじっと見つめた。
なぜだかわからないが…
戦士としての古い勘が、かすかに疼き始めていた。
まるで、世界の何処かで大きな何かが動き始めている予感。
自分の平穏な日々が、やがて変わり始めるかもしれない、そんな予感が。
だが、それが何なのかは、まだ誰にもわからない。
世界の反対側――
ソルヴァリア王国の城門が、ゆっくりと開かれた。
空はまだ暗く、太陽は昇ってきてはいない。
一人の少女が、たった一人で都の外へと歩き出す。
黒い外套が風になびき、
指先からは小さな稲妻がチリチリと音を立てている。
それはライオラ・ライゼン。
彼女は東へと続く長い道のりへ向かって歩き始めた。
小さな村々へ。
まだ見ぬ場所へ。
だが彼女の心は、すでに決まっていた。
もし明原が、この世界のどこかに生きているのだとしたら――
必ず見つけ出してみせる。
何があろうとも。
空の色が少しずつ変わり始める。
地平線の彼方に、夜明けの光が滲んできた。
ライオラは一度だけ足を止め、
白み始めた空を見上げた。
そして、小さく囁いた。
「待ってて…」
「明原」
遠い空で再び稲妻が走る。
そして、新たなる旅が、今ここに始まった。
「次回更新: 4月 10日 20:20」




