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第6話:私の名前ではない

火の村にも、ゆっくりと朝が訪れた。


土道沿いに建ち並ぶ質素な木造家屋の間には、まだ薄い靄がたなびいている。空気はひんやりとしていたが、丘の向こうから顔を出し始めた太陽が、村を少しずつ温めていく。


火の村の日常は、いつものように穏やかに幕を開けた。


すでに家を出ている者たちもいる。農夫が野菜の入った籠を抱え、村の中央にある小さな市場へと向かう。子供たちは土道を走り回り、笑い声が響いている。花びらが散り始めた桜の木の下では、年を取った犬がのんびりと眠りこけていた。


村のはずれにある小さな家の庭で、一人の青年がわら製の箒で地面を掃いていた。


青年の名はアキラ。


少なくとも…今の彼が名乗っている名前はそれだった。


黒髪が朝風になびき、少しくずれた髪型になっている。身に着けているのは他の村人たちと変わらない質素な服。鎧も、紋章も、以前は腰に下げていた大きな剣も、そこには存在しない。


ただ平穏に生きる、ごく普通の青年。


だがその穏やかな外見の裏側で、彼の心は完全な安らぎを得てはいなかった。


アキラは箒を持つ手を止めた。


彼の視線は、人気のない村道へと向けられる。


頭の中には、昨日の出来事が鮮明によみがえっていた。


ソルヴァリア王国から来た冒険者。


ラインハルト・ヴァレンと名乗った男。


彼は、自分の正体にもう少しで気づくところだった――。


アキラは小さくため息をついた。


「あと一歩のところだったか…」


彼は自分の手を見つめた。


昔、この手は悪魔の軍団さえも両断する剣を握っていた。剣から解き放たれる炎は、一振りで敵の砦を焼き尽くすほどの力を持っていた。


だが今…


この手にあるのは、ただのわら箒だけ。


それでいて、彼はこの生活を嫌ってはいなかった。


こんな平穏な日々こそ、自分が求めていたものだと心から感じていたのだ。


だが、一つだけ心に引っかかるものがあった。


もしあの男が再び問いかけてきたら…


もしあの男がまだ疑いの目を向けているのだとしたら…


アキラはしばらく目を閉じ、考えを巡らせた。


そして一つの考えが浮かんだ。


「名字…」


彼は、とても重要なことに今さらながら気づいたのだ。


昨日、自分はただ一文字の名前しか名乗っていない。


アキラ、と。


もし王国の人間が本気で調べようと思えば、彼らはすぐにあの名前にたどり着くかもしれない。


不知火 明原――。


王国中にその名を轟かせた、『炎の大師範』の名前だ。


もしその二つが結びつけられてしまえば…


すべては終わりだ。


アキラは朝の空を仰いだ。


「もしまた聞かれたら…」


彼はしばらく考え、


やがて一つの名前が頭の中に浮かんだ。


ごくありふれた名前。疑われるような要素はない。だが、芯の強さを感じさせる名前。


『黒鉄 明』――クロガネ・アキラ。


彼は心の中でその名を繰り返した。


「アキラ…クロガネ…」


黒い鉄。


正体を隠して生きる者には、これ以上なくふさわしい名前だった。


アキラは小さく頷いた。


「よし…これからはこの名前で通そう」


彼は再び箒を動かし、庭の掃除を続けた。


だがそれから間もなく――


村道からはっきりとした足音が近づいてくるのが聞こえた。


アキラがそちらを向くと、


心臓がいつもより少し速く鼓動を打ち始めた。


一人の男が彼の家へと向かって歩いてくる。


短い茶髪。


冒険者の外套。


腰には剣が下がっている。


ラインハルト・ヴァレン。


ソルヴァリアから来たあの男が、戻ってきたのだ。


ラインハルトはアキラの家の庭から数歩離れた場所で足を止めた。


彼は青年の顔をしばらく見つめ、


どこか迷っているような表情を浮かべている。


アキラは平静を装い、


何事もなかったかのように背筋を伸ばして立っていた。


やがてラインハルトが口を開いた。


「すみません…」


アキラが彼を見つめる。


「はい?」


ラインハルトは少しばつが悪そうな様子で言葉を続けた。


「…もう一度だけ、お伺いしたいことがあるのです」


アキラは落ち着いた様子で頷いた。


「ええ、どうぞ」


だが心の中では、彼はすでにあらゆる状況に備えていた。


ラインハルトはさらに近づき、アキラの顔をじっと見つめた。


「昨日お聞きした名前は…アキラさん、でしたね?」


「はい」


短い返事。


ラインハルトは一瞬黙り込み、


それから彼の周りの空気までもが重くなるような質問を投げかけた。


「フルネームは、何とおっしゃるのですか?」


沈黙。


朝風がゆっくりと村を吹き抜け、


桜の花びらが一枚、地面へと舞い落ちた。


この質問が来ることは、アキラには予測できていた。


だからこそ――


彼の心には、一片の迷いもなかった。


「…クロガネ・アキラです」


答えは淀みなく、自然に口から出た。


間も、ためらいも、一切ない。


ラインハルトは眉をひそめ、


心の中でその名を繰り返しているようだった。


クロガネ…。


もしこの男が自分の探している人物なら…


名前は違うはずだ。


自分が探しているのは、不知火 明原。


ソルヴァリア王国の『炎の大師範』。


二年前、魔王との戦いで世界を救った英雄。


だが…


クロガネ・アキラという名前は、それとはまったく異なっている。


ラインハルトは大きく息を吐き出し、


少し照れくさそうに、だが安心したような笑みを浮かべた。


「どうやら…本当に人違いだったようですね」


アキラは首をかしげる。


「人違い…ですか?」


ラインハルトは頷いた。


「あなたの顔が、私たちが探している人物に非常に似ていたものですから」


「その方は、どなたなのです?」


ラインハルトは空を見上げ、少し間を置いてから答えた。


「…一人の英雄です」


彼の声は、いつの間にか低く柔らかくなっていた。


「もう…この世にはいないのかもしれませんが」


アキラは何も答えなかった。


ただそこに立ち尽くしているだけだった。


胸の奥の方では、過去の炎がかすかに燃え上がったような感覚がした。


だが彼の表情は、最後まで穏やかなままだった。


ラインハルトは少し頭を下げた。


「疑ってしまって、すみませんでした」


アキラは肩をすくめる。


「気にしていませんよ」


ラインハルトは笑顔を浮かべた。


「お答えいただき、ありがとうございました」


彼はくるりと背を向け、歩き始めた。


数歩進んだところで彼は足を止め、


振り返ることなく、小さな声で言った。


「もし私たちの探している方がまだ生きていらっしゃるのなら…」


「どうか、穏やかな日々を送っていてほしいと願っています」


それからラインハルトは、本当に立ち去っていった。


アキラは家の庭に一人残された。


朝の太陽はすでに高く昇り、


火の村はいつもの静かな村の姿に戻っていた。


数秒が過ぎ、


アキラは長く深い息を吐き出した。


「…うまくいったようだな」


胸のつかえが取れたような気がした。


ここ数日間の緊張感が、ようやく消え去ったのだ。


ここでなら、自分は本当に平穏に生きていける。


クロガネ・アキラとして。


『炎の大師範』でもなく、


戦いの英雄でもない。


ただの一人の男として。


それから数日後――


ラインハルト・ヴァレンは火の村を後にした。


長い旅の果て、彼は再びソルヴァリア王国へと帰還した。


巨大な岩山の上にそびえ立つ王城は、威風堂々とした姿を見せている。


高い塔が空へと伸び、


王国の旗が風にはためいていた。


王城の大広間には、多くの冒険者たちが集まっていた。


彼らは王国各地から集められた精鋭たちだ。


彼らの目的はただ一つ。


一人の男を探すこと。


『炎の大師範』を。


ラインハルトが広間に足を踏み入れると、一斉にすべての視線が彼に集まった。


部屋の奥、大きな石の玉座に腰かけているのは――


国王アルドリック・ソルヴァリア。


年齢は五十歳ほどで、


髪には白いものが混ざり始めている。


その瞳は鋭く、だが深い知恵と思いやりに満ちている。


彼は期待に満ちた目でラインハルトを見つめた。


「捜索の結果はどうだった?」


広間の空気が一気に張り詰める。


ラインハルトは背筋を伸ばし、


少し頭を下げて報告した。


「私たちは東の領土にある最後の村まで、すべての地を探し回りました…」


「火の村という場所です」


一部の冒険者たちが顔を見合わせる。


国王アルドリックは続きを待った。


「それで?」


ラインハルトは小さくため息をついた。


「…『炎の大師範』の痕跡は、一つとして発見できませんでした」


沈黙が広間全体を包み込んだ。


肩を落とす者、


拳を握りしめる者。


二年間の捜索。


訪れた村は数百。


渡り歩いた小国は数十。


だが、手がかりは何一つ見つからなかったのだ。


国王アルドリックはしばらく目を閉じ、


重たい声で言った。


「つまり…」


「世界を救ったあの英雄は…」


「本当に、もういないのだな…」


誰も反論する者はいない。


誰も口を開く者はいない。


悲しみが部屋の空気を重くしていた。


だがそんな彼らの中で――


ただ一人、黙って立っている少女がいた。


銀色に輝く長い髪。


その瞳は、嵐の空に走る稲妻のように鋭い。


彼女は『雷の大師範』。


その名は――


ライオラ・ライゼン。


年齢はまだ十八歳。


だがその力は、一撃で悪魔の軍団を退けるほどの威力を持っていた。


ライオラは広間の床を見つめ、


手を強く握りしめた。


心の中では、一つの言葉が繰り返されていた。


「違う…」


「私は信じない…」


彼女はゆっくりと広間の出口へと顔を向けた。


頭の中には、二年前の記憶が鮮明によみがえっていた。


戦場に立つ明原の姿。


彼の周りを燃え盛る炎。


魔王との最終決戦が始まる前――


彼女は彼に伝えたい言

「次回更新: 4月 9日 20:20」

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