第5話:【異なる名前】
濃紺の夜空がゆっくりと廻り、まるで世界を見下ろす巨大な瞳のようだった。
その下を、二人の影が音もなく歩いていた。
レイジ…そしてミジャルン。
彼らの足取りは軽やかだが、一歩一歩がまるで現実そのものを踏みしめているかのような重みを帯びている。
「ここ…すごく静かね」とミジャルンが小さく呟いた。
レイジは短く答える。
「ただ静かなのではない。この場所は…闇そのものにすら見捨てられたのだ」
古びた塔の廃墟の間に、一人の女性が横たわっていた。
体は汚れ、息は微かだが…
だがその気配は完全に消えてはいなかった。
レイジが彼女を見つめる。
彼の蒼い瞳がかすかに輝く。
――全知。未来視。
すべてが見通されていく。
「…五年か」と彼は淡々と告げた。
「体は生きている。だが魂は…停止している」
ミジャルンが彼の手を取った。
「お兄ちゃん…彼女を助けてあげて」
レイジがちらりと彼女を見る。
「世界が捨てたものを、俺が救えと言うのか?」
ミジャルンは真っ直ぐに彼を見つめ返した。
「うん」
沈黙が流れた。
そして――
レイジがゆっくりと手をかざす。
虚空から深い紫の光が雨のように降り注ぐ。
『スヴルタの覚醒』
女性の体が震え始めた。
頭の角が輝きを帯び、
止まっていた呼吸が再び動き出す。
ゆっくりと、彼女の瞳が開かれた。
「わ…私…まだ…生きて…いるの…?」
レイジは静かに答える。
「生きてはいない。お前には…新たな機会が与えられただけだ」
彼女の瞳から涙が溢れ落ちた。
「ど…どうして…私なんかに…?」
レイジは真っ直ぐに見つめた。
「お前の物語は…まだ終わっていないからだ」
新たな世界への道
レイジが一歩近づく。
「このまま捨てられた存在でいるか…それとも、新たなる者となるか…選べ」
スヴルタは体を震わせた。
「私…変わりたい…」
ミジャルンが満面の笑みを浮かべる。
「それでこそ!」
スヴルタの足元に光の輪が浮かび上がった。
そして一瞬のうちに――
彼女の姿は消えた。
スヴルタはゆっくりと落下していく…
黒き水晶と生きた星々に満ちた、巨大な空間へと。
だが、
まだ立ち上がらないうちに――
「おい…誰だ、俺の上に落ちてきたのは?」
スヴルタはパニックになる。
「ご、ごめんなさい!!」
巨大な鱗を持つ存在がゆっくりと目を開けた。
ニメロス。
だが彼はすぐに表情を変える。
「…貴様は…ヴェルドラではないな?」
スヴルタは慌てて首を横に振る。
「わ、私はスヴルタ…捨てられた悪魔です…」
一瞬の沈黙。
そして――
ニメロスは豪快に笑い出した。
「ハハハ! なるほど、主が送ってきたのか!」
スヴルタは呆然とした。
「…ぬし…?」
ニメロスがゆっくりと立ち上がる。
だがその瞳は…遠くに見える巨大な玉座へと一瞬向けられた。
そこは空っぽだった。
その瞬間、
彼の表情がわずかに曇る。
「…もう…随分長いこと、主はあそこに座っておられん」
スヴルタには意味が分からなかった。
だが、はっきりと感じるものがあった。
この場所を満たしていたはずの絶対的な気配が…
薄れていることを。
不安に駆られる番人たち
『終末の世界』の至る所で、
番人たちも同じ感覚に囚われていた。
ヴェルキラ。
ヴェルミラ。
ケルヴォン。
ドレイヴェン。
彼らは言葉を交わさない。
だが、心の中は一つだった。
「主が…いない…」
そして更に奇妙なのは――
「いつから…いないのか…我々にも分からない…」
それでもなお、
ニリオン多元世界は廻り続けている。
ケルヴォンは星雲の茶を淹れ、
ニメロスは気さくに話し、
ヴェルキラとヴェルミラは相変わらず些細なことで喧嘩をしている。
スヴルタは彼らの真ん中に座っていた。
カップを持つ手はまだ震えている。
「…あったかい…」
ニメロスが柔らかく微笑む。
「ここでは…誰も見捨てられたりはしない」
スヴルタは俯いた。
再び涙がこぼれる。
だが今回の涙は、
絶望からではなかった。
突然――
空間が揺れた。
全ての番人たちの動きが凍る。
一人の声が、彼らの魂の奥底へと直接響いた。
穏やかで、
深く、
だが計り知れない威厳に満ちていた。
「彼女を…よろしく頼む」
たった一言。
だがその言葉で、
ニリオン全土が震えた。
ニメロスは即座に深く頭を垂れる。
「…謹んで承知いたしました」
スヴルタは恐怖と畏敬で体を震わせた。
「今の…誰…?」
ニメロスは低く答える。
「…我々ですら、その全てを理解することの叶わぬお方だ」
夜が訪れた。
スヴルタはバルコニーに座り、
まるで生きているかのように動く星々を眺めていた。
「どうして…ここの皆は、こんなにも優しいの…?」
ニメロスがくつろいだ声で答える。
「我々はな、恐れることを強いられずに済むお方の元で生きているからだ」
スヴルタは膝を抱える。
「まるで…光みたいな人だね…」
ニメロスは黙った。
そして、小さく付け加えた。
「…その光は、虚無の中に在る」
一方…別の場所で
ニリオンの外側。
次元と次元の狭間。
『幻想世界』と呼ばれる地に、
レイジとミジャルンが佇んでいた。
「悪魔の王国はもうすぐそこだよ」とミジャルンが言った。
レイジは空を見上げる。
「…この世界も…ようやく動き始めるか」
初めて――
彼の口元に、笑みが浮かんだ。
ほんの僅かな、
そして何よりも危うい笑み。
「…面白くなってきたな」
ニリオンにて
巨大な玉座は、依然として空のままだった。
誰も座ろうとはしない。
誰も触れようとはしない。
だが皆、知っている。
あれはただの空席などではない。
それは――
ただ、待っているのだ。
「次回更新: 4月 8日 20:20」




