第4話:【ソルヴァリア出身の冒険者たち】
火の村の朝は、いつも静かに訪れる。
太陽が丘の向こうから顔を出し、農民たちが畑で働き始める。村を囲む木々からは鳥の声が響き、朝風が熟れた麦の香りを運んでくる。
村の倉庫近くの土道で、一人の青年が麦の袋を木の荷車に積み上げていた。
その動きは実に軽やかで、まるで重い袋が全くの無重量であるかのようだ。
「おや、アキラ! 本当に力持ちだねぇ!」
年配の農夫が額の汗を拭きながら笑う。
青年はただ柔らかく微笑んだ。
「たいしたことじゃないですよ。」
この火の村では、誰もが彼をアキラと呼んで知っている。
物静かで、いつも困っている人がいれば手を差し伸べる青年だ。
だが、誰も知らない。彼がかつて世界中で別の名で呼ばれていたことを。
不知火 明原――。
二年ほど前の大戦を統べた、『炎の大師範』。
今ではただ、この小さな村で平穏な日々を送っているに過ぎない。
明原が最後の袋を肩から下ろすと、
年配の農夫は満足そうに頷いた。
「ありがとうよ、坊っちゃん。君がいなけりゃ、この仕事ももっと時間がかかっていただろうよ。」
明原は軽く手を挙げ、どういたしましての意を示す。
彼が自分の家へ戻ろうとしたその時――
村の入り口の方から、馬の蹄の音が近づいてくるのが聞こえた。
間もなく、一頭の栗毛の馬が、火の村の境界を示す簡素な木の門の近くに止まった。
数人の村人たちが好奇の目で見つめる。
このような辺境の村に、よそ者が来ることは稀だからだ。
馬から下りたのは、若い男だった。
彼は長旅の疲れか、少し埃っぽい濃い色の旅外套を身に纏っている。
腰には銀の柄が美しい長剣が提げられ、
肩には大きな鞄を担っていた。
まるで本格的な冒険者といった風体だ。
男は優しく馬の首を撫でてやると、ゆっくりと村の中へと歩き出した。
遊んでいた子供たちも手を止め、珍しそうに彼を見上げている。
男は井戸で水を汲んでいた村人の一人に近づき、
「すみません」
と丁寧に声をかけた。
「一つ、お伺いしたいことがあるのですが。」
村人は「なんだね?」と頷く。
男は鞄の中から小さな手帳を取り出し、
中の何かを確認するように目を通してから、再び口を開いた。
「私はある人物を探しています。」
彼は視線を上げ、真っ直ぐに問いかける。
「この村に、不知火 明原という名前の人間はいませんでしょうか?」
その名が、朝の空気にはっきりと響いた。
周りの村人たちは顔を見合わせ、首を傾げる。
「しらぬい…? 誰だっけ?」
「聞いたことないなぁ。」
「よその人じゃないかね?」
男は少しだけ眉をひそめ、手帳を閉じた。
「そうですか…」
声には僅かな落胆の色が滲む。
だが彼はすぐに表情を戻し、丁寧に微笑んだ。
「私はソルヴァリア王国から参りました。ちょっと確かめたいことがあっただけです。」
ソルヴァリア王国――。
その名を耳にした瞬間、明原の心が微かに震えた。
それは彼が生まれた地。
彼が命を賭して戦った場所。
人類最強の魔術師の一人として、その名を轟かせた王国なのだ。
明原は顔を隠すように、わずかに俯いた。
一方、男は村の道をゆっくりと進み始めた。
その足取りは落ち着いており、
鋭い眼差しで周囲の様子を窺っている。
彼が明原のすぐ側を通り過ぎる時、
たった一度、視線が交わったように思えた。
だが男にとって、明原はただの農村の青年にしか見えなかったのだろう。
足を止めることなく、そのまま通り過ぎていく。
明原は静かに、長い息を吐き出した。
冒険者の男はやがて、庭の掃除をしていた一人の女性の前で立ち止まった。
「すみません」
と再び声をかける。
「この村には宿屋はありますでしょうか?」
女性は道の先に見える二階建ての建物を指さした。
「あそこにありますよ。」
男は頷き、
「ありがとうございます。」
去り際に、彼は短く自己紹介をした。
「私はラインハルト・ヴァレンと申します。」
軽く頭を下げ、
「ソルヴァリアから来た冒険者です。」
そうして彼は、村の宿屋へと向かって歩いていった。
村の空気は元の穏やかさを取り戻したかに見えた。
しかし明原にとっては、
何もかもが少しずつ、色を変え始めているように感じられた。
彼はしばらその場に立ち尽くし、
思考の中で様々な可能性が巡っていた。
ソルヴァリアの人間が、こんなにも小さな村までやって来た意味。
そして彼らが探しているのが、不知火 明原であるという事実。
答えは一つしか考えられない。
王国は、未だに自分を探し続けているのだ。
明原はゆっくりと拳を握りしめた。
「…やはり、まだ探しているのか…」
低く、独り言が漏れる。
その真意は定かではない。
だが、ただ一つだけ確かなことがある。
俺はもう、あの世界には戻りたくない。
血と硝煙の匂う戦場へも、
『炎の大師範』として畏怖される存在にも。
この生活で充分なのだ。
静かで、
穏やかで、
ただの一人の人間としての日々で。
だが、もし彼らがこの先も探し続けるのだとしたら――
この平穏がいつまでも続くとは限らない。
時は過ぎ、やがて夕暮れが訪れた。
空は暖かな茜色に染まり、村全体が柔らかな光に包まれる。
宿屋の前では、ラインハルトが馬を木の柱に縛り付けていた。
彼は建物の中へと入っていく。
宿の主人が朗らかに出迎えた。
「一泊ですかい?」
ラインハルトは頷き、
「場合によっては、数日間お世話になるかもしれません。」
彼は部屋の鍵を受け取り、二階へと上がっていった。
部屋の扉が閉まり、鍵が回される音が響くと――
ラインハルトの表情は、途端に厳しさを帯びたものへと変わった。
窓際の椅子に腰を下ろし、彼は鞄を開ける。
その中から、少し古びた小さな手帳を取り出した。
ページを捲ると、そこには一つの名が記されていた。
『不知火 明原』
その下には、補足としてこう書かれている。
ソルヴァリア王国 炎の大師範。
状況:二年前の大戦後、行方不明。
ラインハルトはその文字を静かに見つめ、
「もし貴様がまだ生きているのなら――」
低く、確信に満ちた声で呟いた。
「必ず、見つけ出してみせる。」
彼はゆっくりと手帳を閉じた。
窓の外では、火の村が夕闇の中で静かに眠りにつこうとしている。
だが、誰もが気づかないうちに
長い間、埋もれていたはずの過去が、
ゆっくりと、確実にこの小さな村へと近づき始めていた。
そして、ただの『アキラ』として生きたいと願う男も、
もはや永遠に隠れ続けることはできないのかもしれない。
「次回更新: 4月 7日 20:20」




