第2話:【忘れ去られた歴史書】
火の村の朝はいつも静かに訪れる。
地平線の彼方から太陽が顔を出し始める頃、丘の間にはまだ薄い朝靄が立ち込めていた。黄金色の光が広大な麦畑にゆっくりと広がり、草の葉についた朝露を小さな結晶のように輝かせていた。
至る所から鶏の鳴き声が聞こえる。
農夫たちは鍬を肩に担いで畑へと向かい、小さな子供たちが村を縦横無尽に走り回っていた。
素朴な木造の家の一軒近くで、若者が壊れた塀の修理をしていた。
彼の手は器用に動き、シンプルな金づちで木板を打ち付けている。
「ありがとう、明くん!」
家の前に立つ老婆が大きく微笑んで言った。
若者は最後の釘を打ち込んでから立ち上がり、手の埃を払った。
「どういたしまして、おばあさん」と彼はくつろいだ口調で答えた。
この村では誰もが彼を「明」として知っている。
静かで、誰かが困っていればいつでも手を貸す親切な若者だ。
誰も彼の本当の名前が——
不知火 明原であることを知らない。
かつて戦場で数千の悪魔を焼き尽くした伝説の勇者だ。
今ではただの村人に過ぎない。
「もしまた壊れたら、どうぞ呼んでください」と明原は金づちを掲げながら言った。
老婆は小さく笑った。
「本当に優しい子ね。この調子では村のみんなが君に頼り切っちゃうわよ」
明原はただ微かに微笑むだけだった。
何も答えなかった。
挨拶を交わした後、彼は村の道を歩き始めた。
朝の風がそっと吹き、麦と湿った土の香りを運んできた。
町からやってきた商人たちが、村の小さな広場近くで荷車から品物を降ろしている。
明原はあまり気に留めなかった。
しかし荷車のそばを通り過ぎる時——
彼らの会話が耳に入った。
「北の村が一晩で消えたそうだ」
「消えた?どういう意味だ?」
「人は一人も残っていない。家だけがボロボロになってる」
明原の足が止まった。
一人の商人が木箱を降ろしながらため息をついた。
「悪魔の仕業だと言う人もいるんだ」
別の商人が冷笑しながら言った。
「悪魔?冗談じゃないだろ。悪魔の王は二年も前に倒されたんだぞ」
「そうだな…でもやっぱり不気味だよ」
明原はしばらく立ち尽くした。
口を出すことはなかった。
だがその言葉は頭の中に残り続けた。
悪魔。
悪魔の王。
二年の前の戦い。
彼の手がわずかに力んだ。
しかしすぐに静かにため息をつき、歩き続けた。
「ただの噂だ」と彼はつぶやいた。
戦いはもう終わった。
世界はすでに平和を取り戻している。
もうそんなことを考える必要はない。
だがどうしてか…
心は完全には落ち着かなかった。
しばらくして、彼の足は村の端にある小さな建物の前で止まった。
古い木材で造られ、屋根も少し傾いている建物だ。
玄関の上には小さな看板が掛かっていた。
「火の村 図書室」
ここは滅多に人の訪れない場所だ。
村人のほとんどは本を読むよりも畑で働くことに精いっていた。
明原はゆっくりと木製の扉を押し開けた。
きしりり——
古い蝶番の音が静かに響き渡り、扉が開いた。
すぐに埃と古い紙の匂いが鼻を突いてきた。
シンプルな部屋の中には本棚がずらりと並び、中にはとても古い本まで混じっていた。
明原は本棚の間をゆっくりと歩いた。
彼は本を読むのが好きだというわけではなかった。
だが今日は一つ確かめたかった。
本当に世界は悪魔の王から解放されたのか——
彼の手は最初の本棚から一冊を取り出した。
「ソルヴァリア王国史」
何ページか開いてみると、ほとんどが昔の王や王国間の小競り合いについての記述ばかりだった。
特に興味深いものはなかった。
明原は本を閉じて棚に戻し、別の本を取り出した。
「二年前の大戦記録」
一ページ目を開くと、二年前に起きた悪魔軍勢との戦いについて書かれていた。
人類の軍勢が団結し、悪魔界からの脅威を食い止めた経緯が——
そして最後には、悪魔の王が打ち負かされたことが記されていた。
明原は静かに数ページ読み進めた。
全ての記録が同じことを言っていた。
悪魔の王は敗北した。
戦いは終わった。
彼はゆっくりと本を閉じた。
胸に少し湧き上がった不思議な気持ちも次第に消えていった。
「やはりそうだな」とつぶやいた。
ただの噂に過ぎない。
世界はもはや勇者など必要としていない。
それはつまり、自分はこのままの生活を続けられるということだ。
明原は立ち去ろうと振り返った。
しかし部屋を出ようとしたその瞬間——
彼の目が一番奥の棚の上にある何かに留まった。
他の本よりもずっと分厚い大きな本だ。
表紙は濃い黒色で、ほとんどの表面が厚い埃で覆われていた。
明原は眉をひそめた。
小さな木製の椅子を引き寄せ、上に登って本を手に取った。
棚から降ろすと埃が舞い上がった。
彼はゆっくりと表紙の埃を吹き払った。
やっとタイトルが見えてきた。
「悪魔の王の歴史」
明原はしばらく黙っていた。
それから一ページ目を開いた。
この本の文字は他の歴史書とは違っていた。
もっと古く、暗い雰囲気を帯びていた。
一ページ目には悪魔界の起源が書かれている。
人間界の手が届かない場所にある地獄について、そして彼らの最高の支配者について——
明原は次のページをめくった。
そこには一つの名前が記されていた。
誰もが長い間口にすることのなかった名前だ。
アルジエル・ルシファー
明原は次の数行を読み進めた。
文中には、悪魔の王は決して本当に死ぬことはないと書かれていた。
ただ世界から姿を消し、再び戻るための時を待っているだけだ
明原は静かにため息をついた。
「古い伝説か」とつぶやいた。
しかし本を閉じようとしたその時
彼の目がもう一つの文章に留まった。
一瞬、動きを止めさせる言葉だった。
「悪魔の王の側には、『地獄の王妃』として知られる存在が立っていた」
明原は次のページをめくった。
そこにはまた一つの名前が記されていた。
レイラー・ゼルナルダ
彼はしばらくその名前を見つめていた。
だがその後、ただ静かに本を閉じた。
表情は変わらず、恐怖も感じていなかった。
彼にとってこれらは全て昔の話に過ぎない。
本を一番上の棚に戻し、椅子から降りて図書室の扉へと向かった。
木製の扉が開くと
夕暮れの陽射しがすぐに彼の顔を照らした。
火の村はいつも通りの様子だった。
子供たちが土道で遊び、農夫たちは収穫した作物を入れたカゴを持って畑から帰ってくる。
夕方の風が木造の家々の間をそっと吹き抜けていた。
明原はしばらくその景色を見つめた。
それから静かにつぶやいた。
「もうあの世界とは無縁だ」
彼は図書室を後にして歩き出した。
だが静まり返った部屋の中で
彼が読んだ古い本は、一番上の棚で少しだけ開いたままだった。
窓から差し込む夕陽が開いたページを照らし、文字がはっきりと見えた。
悪魔の王の名前。
アルジエル・ルシファー。
まるで死んだはずの伝説が…
まだ時を待っているかのようだ。
「次回更新: 4月 5日 20:20」




