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記憶喪失になった夫が初恋を追いかけたので離縁しました。3年後、思い出したと言われてももう遅い。

作者: 有梨束
掲載日:2026/03/08

「貴様は誰だ!」

ようやく目を開けた夫が私を見て言った第一声が、それだった。


夫は訓練中に落馬して、頭を打ち、眠っていた。

そして、起きたら記憶喪失になっていた。

診察によると、ここ10年の記憶が全てないとのこと。

つまり3年前に婚約し、1年前に結婚した私の存在はないことになっていた。


「あの、旦那様」

「気色悪いことを言うな!」


医師の話だと、夫は10年前を生きているらしい。

今から10年前といえば、夫は学園に通っていた頃だ。

いきなり妻がいるという状況は、飲み込めなくても仕方がないのかもしれない。


「お前なんかがいたらリーリエに誤解されるだろっ!失せろ!」

夫は取り乱したように、私に言葉をぶつけてくる。


リーリエというのは、旦那様の同級生の子爵夫人だったかしら?


「旦那様…」

「触れるなっ!」

手を伸ばそうとしたら、勢いよく弾かれた。

爪が引っかかったのか、手の甲から血が滲み出した。


古くからいる使用人に話を聞くと、リーリエ様は学生時代に夫が想っていた初恋の人だった。

10年前の好きな人が、旦那様の中で今も好きな人なら、私は邪魔なわけだ。


「旦那様は元々これと決めると、他が見えない方でした。ご当主様もそのことに危惧して、それで奥様を婚約者になさったと聞いております」

義父からの私の補佐役としての評価がよかったことを、こんな形で知った。


私のやることは変わらない。

今まで通りこの家のことをやり、旦那様を支える。

…そのはずだった。


「どうしてお前がこの家にいるんだ!目障りだ!」

「私は1年前に嫁いできました、メラニーと申します」

「失せろと言ったはずだ!」

「まずは話を聞いてくださいませ」

「お前なんか知らない!今すぐ出ていけっ!」

夫に肩を突き飛ばされて、よろめいて、その場でしゃがみ込んだ。


見下ろしてくる夫の侮蔑の目に、反論する気が起きなかった。


私は離れに移った。

ひとまず仕事で家を空けている義父に連絡した。


夫は療養中とのことで、本邸から出ないようにしてもらった。


義父からは任せたとだけ手紙が届いた。

ここからでも指示はできる。

でも距離がある分、すぐに対応しないといけないことが、徐々に遅れていった。

それがいけなかった。


「奥様、その、旦那様が本邸に子爵夫人をお招きになっています…」


あのあとリーリエ様のことを調べさせた。

私の記憶が正しければ、よくない噂の持ち主のはずで、まさにその通りだった。

色んな既婚者に色恋を仕掛けては、妊娠と中絶を繰り返していた。

子爵様は離縁を考えているらしい。

今の夫が目をつけられでもしたら──。


「失礼します」

そう言って本邸の応接間に入っていくと、夫の腕の中にはリーリエ様がいた。

今の夫は、10代のうぶな男だ。

手練れの女性が入る隙しかない。

甘えるように夫に縋り付くその女性が、ニヤリと笑ったのが見えた。


「貴様、なぜここにいるっ!」

「…申し訳ありません、緊急に申し上げないといけないことがありましたので」

「俺に用はない!リーリエが来ているんだ、早くどこか行け!」

「その方は既婚者にございます。どうぞお離れになってくださいませ」

「リーリエはまだ未婚だと教えてくれた!俺がアプローチしても何も問題はない!」

「あら、嬉しい。久しぶりにお話ししているだけなのに、そんなに必死にならなくても良いではないですか」

「…子爵夫人、話の腰を折らないでいただけますか」

「貴様、リーリエになんて態度なんだ!」

「まあ、怖いですわぁ。そんなに伯爵家に縋りたいんですか?」

「私は」

「ああ、そうか。お前は俺と結婚していると偽り、その実、今の地位を誇示したいのだな!」

「ですから」

「もういい!お前なんかと結婚したつもりはないが、そういうことなら離縁だ!」


怒鳴られながら、なぜか花瓶の水をかけられた。

その横であの女性が「さすが、次期伯爵様だわ」と旦那様を褒めた。

「あんな女、君の前に出して悪かった」と旦那様は得意げになって、抱き締めていた。


結婚生活1年とは、初恋の前ではこうも役に立たないのか。

それとも、夫は最初からこういう気持ちで、私と一緒にいたのか。

目の前がガラガラと崩れていく感覚だった。

そのあとのことは、あまり覚えていない。


離縁を申し込まれたので応じたい旨を義父に送ると、嘘みたいにすぐ帰ってきた。


「すぐに元通りにさせるから」

「それはいつですか。永遠に記憶が戻らなければ、私は一生悪魔ということになります」

「君が何とかしてくれれば」

「もうリーリエ様が旦那様の子を孕んでいるかもしれません。その子が男児だったらどうなさるのですか」

義父は何も答えず、顔が白くなるだけだった。


半年経っても旦那様の記憶は戻らず、私は離れに隔離されたままだった。

その頃、リーリエ様は旦那様の子を妊娠したと言い出した。

ようやく、義父が決断を下した。


旦那様の弟が爵位を継いでもいいように動き始めた。

私との離縁も承諾してくれた。

実家からは戻ってくるなと言われたので、修道院に行くことにした。

義父は私に謝らなかったし、家を出ていくその日まで旦那様には罵倒され続けた。


もう疲れたと思うのには、十分だった。



「シスターメラニー、あなたに面会です」


修道院に来て、3年。

ここの生活に比べれば、伯爵家での生活はいつも息が詰まるようだった気がするのだ。

あの記憶喪失をきっかけにそれが可視化されただけだと、この3年で私は結論づけていた。

だから、今更遅いのだ。


「…すまなかった」

目の前に、反省の色を浮かべた元夫がいた。

…どうして放っておいてくれないのかしら。


「記憶はお戻りになられたのですか?」

「…ああ、先日思い出した」

「それはようございました」

「メラニー、戻ってきてくれないか?」

「子爵夫人はどうなさったのですか?」

「リーリエは俺を騙したんだ!俺の子と言いながら、本当は違う男の子どもだったんだ!しかも平民の男だぞ!?人を馬鹿にするにも程がある!」


…ああ、疲れた理由がわかった。


この人がいつも他人のせいだからだ。

物事というのは、いつも気がつくのが遅い。


「それは私には関係ないことにございます」

「え…」

「どうぞお引き取りくださいませ」


あの頃と変わらず優雅に一礼して、私は部屋を後にした。





お読みくださりありがとうございます!! 毎日投稿67日目。

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