記憶喪失になった夫が初恋を追いかけたので離縁しました。3年後、思い出したと言われてももう遅い。
「貴様は誰だ!」
ようやく目を開けた夫が私を見て言った第一声が、それだった。
夫は訓練中に落馬して、頭を打ち、眠っていた。
そして、起きたら記憶喪失になっていた。
診察によると、ここ10年の記憶が全てないとのこと。
つまり3年前に婚約し、1年前に結婚した私の存在はないことになっていた。
「あの、旦那様」
「気色悪いことを言うな!」
医師の話だと、夫は10年前を生きているらしい。
今から10年前といえば、夫は学園に通っていた頃だ。
いきなり妻がいるという状況は、飲み込めなくても仕方がないのかもしれない。
「お前なんかがいたらリーリエに誤解されるだろっ!失せろ!」
夫は取り乱したように、私に言葉をぶつけてくる。
リーリエというのは、旦那様の同級生の子爵夫人だったかしら?
「旦那様…」
「触れるなっ!」
手を伸ばそうとしたら、勢いよく弾かれた。
爪が引っかかったのか、手の甲から血が滲み出した。
古くからいる使用人に話を聞くと、リーリエ様は学生時代に夫が想っていた初恋の人だった。
10年前の好きな人が、旦那様の中で今も好きな人なら、私は邪魔なわけだ。
「旦那様は元々これと決めると、他が見えない方でした。ご当主様もそのことに危惧して、それで奥様を婚約者になさったと聞いております」
義父からの私の補佐役としての評価がよかったことを、こんな形で知った。
私のやることは変わらない。
今まで通りこの家のことをやり、旦那様を支える。
…そのはずだった。
「どうしてお前がこの家にいるんだ!目障りだ!」
「私は1年前に嫁いできました、メラニーと申します」
「失せろと言ったはずだ!」
「まずは話を聞いてくださいませ」
「お前なんか知らない!今すぐ出ていけっ!」
夫に肩を突き飛ばされて、よろめいて、その場でしゃがみ込んだ。
見下ろしてくる夫の侮蔑の目に、反論する気が起きなかった。
私は離れに移った。
ひとまず仕事で家を空けている義父に連絡した。
夫は療養中とのことで、本邸から出ないようにしてもらった。
義父からは任せたとだけ手紙が届いた。
ここからでも指示はできる。
でも距離がある分、すぐに対応しないといけないことが、徐々に遅れていった。
それがいけなかった。
「奥様、その、旦那様が本邸に子爵夫人をお招きになっています…」
あのあとリーリエ様のことを調べさせた。
私の記憶が正しければ、よくない噂の持ち主のはずで、まさにその通りだった。
色んな既婚者に色恋を仕掛けては、妊娠と中絶を繰り返していた。
子爵様は離縁を考えているらしい。
今の夫が目をつけられでもしたら──。
「失礼します」
そう言って本邸の応接間に入っていくと、夫の腕の中にはリーリエ様がいた。
今の夫は、10代のうぶな男だ。
手練れの女性が入る隙しかない。
甘えるように夫に縋り付くその女性が、ニヤリと笑ったのが見えた。
「貴様、なぜここにいるっ!」
「…申し訳ありません、緊急に申し上げないといけないことがありましたので」
「俺に用はない!リーリエが来ているんだ、早くどこか行け!」
「その方は既婚者にございます。どうぞお離れになってくださいませ」
「リーリエはまだ未婚だと教えてくれた!俺がアプローチしても何も問題はない!」
「あら、嬉しい。久しぶりにお話ししているだけなのに、そんなに必死にならなくても良いではないですか」
「…子爵夫人、話の腰を折らないでいただけますか」
「貴様、リーリエになんて態度なんだ!」
「まあ、怖いですわぁ。そんなに伯爵家に縋りたいんですか?」
「私は」
「ああ、そうか。お前は俺と結婚していると偽り、その実、今の地位を誇示したいのだな!」
「ですから」
「もういい!お前なんかと結婚したつもりはないが、そういうことなら離縁だ!」
怒鳴られながら、なぜか花瓶の水をかけられた。
その横であの女性が「さすが、次期伯爵様だわ」と旦那様を褒めた。
「あんな女、君の前に出して悪かった」と旦那様は得意げになって、抱き締めていた。
結婚生活1年とは、初恋の前ではこうも役に立たないのか。
それとも、夫は最初からこういう気持ちで、私と一緒にいたのか。
目の前がガラガラと崩れていく感覚だった。
そのあとのことは、あまり覚えていない。
離縁を申し込まれたので応じたい旨を義父に送ると、嘘みたいにすぐ帰ってきた。
「すぐに元通りにさせるから」
「それはいつですか。永遠に記憶が戻らなければ、私は一生悪魔ということになります」
「君が何とかしてくれれば」
「もうリーリエ様が旦那様の子を孕んでいるかもしれません。その子が男児だったらどうなさるのですか」
義父は何も答えず、顔が白くなるだけだった。
半年経っても旦那様の記憶は戻らず、私は離れに隔離されたままだった。
その頃、リーリエ様は旦那様の子を妊娠したと言い出した。
ようやく、義父が決断を下した。
旦那様の弟が爵位を継いでもいいように動き始めた。
私との離縁も承諾してくれた。
実家からは戻ってくるなと言われたので、修道院に行くことにした。
義父は私に謝らなかったし、家を出ていくその日まで旦那様には罵倒され続けた。
もう疲れたと思うのには、十分だった。
「シスターメラニー、あなたに面会です」
修道院に来て、3年。
ここの生活に比べれば、伯爵家での生活はいつも息が詰まるようだった気がするのだ。
あの記憶喪失をきっかけにそれが可視化されただけだと、この3年で私は結論づけていた。
だから、今更遅いのだ。
「…すまなかった」
目の前に、反省の色を浮かべた元夫がいた。
…どうして放っておいてくれないのかしら。
「記憶はお戻りになられたのですか?」
「…ああ、先日思い出した」
「それはようございました」
「メラニー、戻ってきてくれないか?」
「子爵夫人はどうなさったのですか?」
「リーリエは俺を騙したんだ!俺の子と言いながら、本当は違う男の子どもだったんだ!しかも平民の男だぞ!?人を馬鹿にするにも程がある!」
…ああ、疲れた理由がわかった。
この人がいつも他人のせいだからだ。
物事というのは、いつも気がつくのが遅い。
「それは私には関係ないことにございます」
「え…」
「どうぞお引き取りくださいませ」
あの頃と変わらず優雅に一礼して、私は部屋を後にした。
了
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