第29話 うまくいかない
目を覚ましたとき、部屋は真っ暗だった。
窓から星を見るのに首を動かすのでさえ、関節が錆びついたみたいにゆっくりとでしかできない。
少し良くなったと思った体調は、綺麗に逆戻りしていた。
アーティファクトがあるからといって、本来のやり方をねじ曲げた魔法は、身体に相当の負担をかけるものらしい。
とりあえず、水が飲みたい。
サイドテーブルに置かれた水へ手を伸ばすと、ぐらりとバランスを崩してベッドから落ちた。
「きゃっ!」
いや、体調悪いにしても、こんなに身体って動かないもの!?
なんかおかしい。
ぐっと床に手をついて体を起こそうとしても、うまくいかない。力を入れられない。
いつの間にか額には脂汗がにじんでいた。
「お嬢様ッ! 大丈夫ですか!? ――ああ、おいたわしい」
バンッと力強く扉が開かれ、じいやが駆け込んでくる。
床に這いながら汗を浮かべている私を見て、痛々しそうに眉をひそめた。
一緒に来ていた侍女が部屋のろうそくに明かりをつけてくれる。
じいやが「失礼いたしますね」と言って私を抱き上げ、ベッドへ戻してくれた。
声が出なくて水を指でさすと、コップを手に握らせてくれた。けれど、それを掴む力すらない。
察したじいやがチーフを添えて水を傾けてくれた。
「あ、りがと。……私どのくらい寝ちゃってた?」
「…………」
水を飲んだのに、喉の奥が張り付いたみたいに声が出しづらい。
珍しく返答に詰まっているじいやを見返すと、その表情は暗かった。
「……祭りの日から3日程経ちました」
「――3日も!? そ、それはそれは、まあ、すんごい寝ちゃってたね」
その間飲まず食わず。それでこんなにも消耗が激しいわけだ。
侍女が「何か口にできる物をお持ちします」と言って部屋を出ると、じいやと2人きりになる。
今までじいやと2人きりでも何かを思ったことはないのに、今夜はなんだか彼がピリピリしている気がして居心地が悪い。
なんか私、怒られるようなことでもしたっけ。
ヴィオレッタの時ならまだしも、私はあまりじいやに怒られるようなことはしてこなかったと思うんだけど。
沈黙に耐えられず話題を探してみる。
「ポチは元気? あの日ケンカしちゃったから、明日謝りに行かなきゃ。じいや、明日はポチをご飯に呼んでもいい?」
メニューは何がいいかな。明日もきっと訓練で疲れているだろうし、精が付くような料理がいいかもしれない。
私はきっと食べられないけど、ポチがおいしそうに食べてくれたらそれでいい。
「お肉料理なんてどう? きっとポチは明日もお腹すかせて――」
「申し訳ありません、お嬢様」
じいやが私の言葉を遮った。完璧に執事をこなす彼がそんなことをするのを、私は見たことがない。
視界の隅に、ぶるぶると震えるほど握りしめられた白い手袋――彼の拳が目に入る。
視線を上げていくと、泣き出しそうな彼がそこにいた。
「ど、どうしたの、じいや。どこかいたい?」
「申し訳、ありませんっ……私、は! 止めることが、できずっ」
手の甲を口元に当てて、必死に涙をこらえている。
ヴィオレッタとして生を受けて十数年、ずっと近くにいたのに、こんな彼の姿は初めてだ。
「なにが、あったの。どうして泣いてるの」
「ポチ君が、屋敷を出ると、言って……っ」
「……行っちゃったの?」
じいやがこくりと頷く。
――ポチがもういない。
その事実は私の胸に重くのしかかってきたけれど、不思議と涙は出なかった。
私の代わりに泣く彼を見ながら、ただ冷静に事実だけを受け止める。
心の底が、静かに冷えていく心地がした。
「お嬢様が、彼をどれだけ大切に思っていたか、私はよく理解していたのにっ」
あのね、じいや。たぶんそれだけじゃない。
ポチが屋敷を出たのは、私が間違えたからだ。
「ポチ、なにか、言ってた?」
「…………」
じいやは、口元から手を外すと、涙の浮かぶ瞳でまっすぐ私を見た。
ろうそくがゆらめいて、じいやの顔にも影が揺れている。
「――自分が誰かを思い出した。やらないきゃいけないことがある、と」
「……そっか」
私はベッドの上で、そっと足を引き寄せると膝に頬を乗せた。
窓の外は雲1つなく、星が川を作っている。
「やだなあ、ポチったら。さみしい思いはさせないって言ってたじゃん」
あの日、湖畔で私にそう言ってくれた彼を思い出した。
でも、私はその優しさに甘えて、きっと彼に寂しい思いをさせてきた。
もっと彼とたくさん話をすればよかった。傍にいればよかった。
きっとポチは記憶を取り戻して、自分の人生に戻っていったんだ。
ポチにはポチの人生がある。原作での彼の立ち位置がある。
「本当の名前も知らないんじゃ、探すことだって出来ないじゃん。……ねえ、さみしいよ、ポチ」
ぽつりとつぶやいた言葉に、じいやが涙をこらえる小さな声がした。




